中国の大地震の震源地に近い町では、人口12000人で死者10000人が発生したという。山間部のこの町には、逃げ場がなかったのでしょう。子供たちの運動会の写真が放映され、涙を誘います。
自然災害は、起きてしまえば取り返しのすべはありません。ただ、次への対応に活かすことはできます。耐震構造ではなかった学校などの公共建造物の脆弱さ。それが原因となった被害の拡大。為政者は次に活かすべきです。
日本では、アパマンションを発端とする耐震構造偽装事件が発生しました。行政のいい加減さ、それに巣食った大手検査機関のいい加減さが白日の下となった事件でした。日本であってすら、こうした行政の過ちが糺されるのは困難です。行政の曖昧さを糾弾していた藤田東吾氏のニュースはこのところ一切耳にしていません。彼は今どうしているのでしょう。耐震構造の問題はどうなっているのでしょう。のど元過ぎれば熱さを忘れるといいますが、地震国日本において、耐震偽装の問題は変わらず注視していく必要があると思いますが、この点についての報道はほとんどありません。どうなっているのでしょう?
中国の地震の話に戻りますと、日本から派遣された救出隊は中国人民軍があきらめた場所をあてがわれて、徒労に終わる地区ばかりに派遣されているようです。生者発見とその救出を使命とするかれらに、活躍の場は与えられていないようです。人民の命が大切だ、という声明は守られていないのかもしれません。それより先に為政者の面子を守っているかのようです。愚かです。そしてこのような愚かな行動により、ひょっとしたら救われたかもしれない草の根の人たちの無念さを思えば、なんとも歯がゆい思いです。
今回の救援隊の派遣と、日本企業からの寄付行為が、中国関係のブログ等で高く評価されていると聞きます。また、死者しか見つけることのできない救援隊に対して「英雄」だとして感謝の念を述べた被災者の方の言葉も耳にします。今回の地震報道で唯一ほっとしたのは、ひとりひとりの国民は、真実を知れば、あるいは事実を目にすれば、正しくそれを評価する判断力を持っているということが明らかになったことです。
独裁国会において恐ろしいのは、こうした個々の判断力を抑えつけるすべは情報の遮断しかありません。偏った情報に踊らされ洗脳された人民軍の中には、救援隊に対して嫌悪の思いを述べたものがいたことも報道されています。愚かしいことです。
つくづく感じるのは、情報は広く行き渡るべきだという必要性です。個々の国民、人民には、勿論私達も含めて、日々の生活の中で培われて来た判断力、感謝の念、というべきものがあります。それこそが社会規範の根底にあるものですし、また、あるべきものだと私は思います。そして愚かな戦争を望まない私達は、それを信じるほかはありません。
だとすれば、情報は遮断されるべきではなく、やはり公開されるべきだということになります。たとえそれが教育を受けていない人々であったにせよ、まっとうに生活している市井の人であれば、そうした判断力はきっと培われているからです。
ところで、近年騒がれているインターネット規制の論議は、こうした社会の仕組みそのものを支える情報伝達の手段としての重要な役割を踏まえてなされるべきでしょう。突発的に、あるいは流行として、自殺の多発や少女買春などがセンセーショナルに報道され、規制論議が花盛りですが、情報は操作すべきではありません。操作を許せば、そこに操作するものの意図が必ず入り込みます。既にそうした偏った報道は大マスコミでは当たり前なのですが、少なくともまだそうした情報の『完全なる遮断』は日本にはありません。
情報の『規制』は、より大きな不正を生む土壌を培うものとしかならないのになあ・・・そう考えていると、大きなブロック塀が倒れ、亀裂の入ったマンションの壁の並ぶ道を、がんばろう、がんばろうと念じながら自転車で走った阪神大地震の朝のことを思い出しました。生きている者には明日があります。被災者の方々の生活の安寧を祈ります。