国家による富の再分配をしなければ、格差は更なる格差を誘発し、同時に社会不安を醸成する。だからこそ会社にも社会的責任を認めさせ、社会保障の一端を担わせるとともに、個々の労働者に最低限の生活を保障したのである。
製造業者に対する派遣事業を認めた小泉・竹中内閣は、明治以降、脈々として築かれてきた労働者の生活の安定を、あっさりと切り崩してしまった。その所業は犯罪的ですらある。
アメリカの抱える社会不安を、このような形で日本も抱えることになろうとは、私は若い頃は思わなかった。それほど政治家は愚かではないと思っていたし、少なくともすさまじい頭脳集団である官僚がそんなことを許すまいと、思い込んでいたからである。
小学生の頃、竜馬が行くという小説を読み、明治維新の志士が、その命と名誉を賭けて天下国家を論じ、近代国家を建築しようとする熱い思いに感動したものだ。
国家を守ろうとする吉田茂によるGHQとのやり取りに関する本を読んだときにも、官僚の優秀さ、自らが国家を支えている自負、そうしたものに少なからず感動を覚えたものだ。
だからこそ、この現在の官僚のテイタラクは、私には痛々しくすら思える。殊に、人口統計ひとつ見れば破綻することが明白であった社会保障制度の瓦解をおめおめと許した厚生労働官僚の無能さには、ほとほとあきれ果ててしまう。
人は目先の金、地位にこれほどまでに汲々とするものだということ。それらの魅力の前には、天下国家、社会の利益をも顧みないものであること。そうであることを、この年になって初めて知った。正直、想像もつかなかったのである。
ともあれ、小泉・竹中糞内閣の犯罪的な所業によって、ますます社会不安は膨らんでいる。愚かなことだ。明治・大正・昭和初期にかけて、人を工業部品のように働かせ、病気となれば他と代替し、ゴミのように放ってかまわないという、そうした時代に戻るのだろうか。派遣を認めるということは、実際、そういうことなのである。
秋葉原事件の惨劇は、社会不安の増幅と噴出を予兆しているように私には思える。無差別殺人という安易な方法を取ったこの幼稚な愚か者は、社会の生んだ弱者だったのだ。だれも彼を止めることはできなかった。いやむしろ彼に係わった人たちは、彼の背中を押し続けたのであろう。
教育熱心であった秋葉原事件犯人の両親や高校は、奈落を前に呆然と震えている彼の背中を押し、会社は奈落に落ちまいとしがみついている彼の指を踏みつけたのだ。
奈落に落ちたのは、もちろん彼の個人的資質もあるだろう。しかし、もう少しルーズな、もう少しゆったりとした教育環境を与えることができなかったのか、もう少しのんびりとした仕事環境を与えることができなかったのか、そしてそれを加速したのは社会の抱える不安そのものではないのか・・・・そう思うと慄然とする。