政権交代と、教育再生ふたたび?  読書メモ(09.6〜)

 いよいよ衆議院の解散が近づき、自民党なんかは政権を取ったつもりなのか、妙に浮き足立っているような気がするが、そもそも最近の自民党は「とっとと解散しろ」としか言っていないように思える。たとえばTPPについてどうするか、自民党内はバラバラなんじゃなかろうか。今の自民党の状況は、とりあえず政権交代すれば何とかなるように思わせた2009年の民主党と同じで、さらに肝心の中身については政権を失った当時から変わっていないのだとすれば、いったい政党政治はどこへ行ってしまうのか。

 さて、仮に安倍自民党が第一党になり、自公を中心とした政権が誕生したとして、前の安倍政権には教育政策については、教育再生会議を設置し、教育基本法を改正し、教員免許更新制を導入したという実績がある。申し訳ないが、これらはいずれも、「お願いですから元にもどしてください」という代物なので、民主党のマニフェストの1つであった「教員免許更新制度を何とかする」という政策が、お得意のマニフェスト破りで水泡に帰した今、現状は続くか、あるいはさらに上積みがされるか、いずれかなのだろう。

尾木直樹(2007)『教師格差―ダメ教師はなぜ増えるのか 』(角川oneテーマ21)

 2007年に出されたこの新書をふと手にしてみて、教育問題の解決には安易な改革ではなく、ダメ教師の糾弾でもなく、じっくりと教師が教育実践に力を発揮できる環境づくりが大切なのだという尾木ママの主張は、ますます現実味を帯びてきているように感じる。つまりこの5年間で、状況はさらに悪化しているということなのだろう。

0

「近代東京の私立中学校」  読書メモ(09.6〜)

 著者から本をいただいた。武石さんは同い年なんだが、いろいろと相談に乗ってもらったこともあって、こうしてしっかりした本になったのを見ると、とてもうれしい。今日発売らしいから、もしかすると最初の書評?

 武石典史2012『近代東京の私立中学校―上京と立身出世の社会史―』ミネルヴァ書房

 自分の関心に引きつけて読ませてもらう。
 中学校という「正系」の中等学校を経由して、学歴・学校歴による立身出世という社会的上昇のプロセスが確立された。明治日本が西洋諸国に追いつくために必要とする人材が、(きわめて個人的動機に基づく)立身出世主義を媒介として地方から中央に吸収された。そして「上京」→「立身出世」→「近代化」という社会変動のプロセスが明治期に完成する。ここでのポイントは、近代化のための手段となるべき教育のしくみの形成が、近代化のプロセスと重なり合いながら進行したということである。
 そうした中で、圧倒的に不足する公立の中学校を補ったのが私立中学校であり、さらに東京府民にしか門戸を開かなかった府立中学校に対して、全国から「上京」する生徒を集めたのが私立中学校だった。
 私立中学校が東京に集中することによって、すでに戦前の段階で中等教育の「地域差」が成立する。激化する受験戦争が問題化し、公私間関係に影響を及ぼしたりと、現代と共通する問題も見られる。
 さて、こうしたナショナルな問題としての戦前の「正系」中等教育に対して、自分が関心を寄せるのは、ローカルな問題としての戦後の「傍系」中等教育である。この両者の接続関係もまた、これからクリアすべき課題である。
1

トランス・サイエンスとイラン経済制裁と原子力発電所  読書メモ(09.6〜)

 EUもイランへの経済制裁に踏み切ることになった。イランはホルムズ海峡封鎖をちらつかせている。海峡封鎖が行われれば、原油の8割を中東に頼る日本にとってダメージは明らかだ。
 ギリギリまで腹の探り合いが行われるのだろうが、万が一、ということもある。実際に海峡封鎖が行われなくても、保険料や輸送費の高騰は避けられまい。
 どうしても原発を動かしたいという人たちは、電力供給を過小評価して電力不足を煽るという姑息なことをやったそうで、どうやらまだ全然反省していないらしいし、原子力はまだ人間がコントロールできる技術ではないということは百も承知で、そしていつ次の大震災が来てもおかしくないということもわかった上で、海峡封鎖に備えて原発を動かす可能性について議論することは、必死になって新エネルギー開発を進めることと並行して、夏までに必要なことではないかと思う。これこそ国民投票にふさわしいテーマではないのだろうか。
 これは、原発の技術論ではなく、どのような社会のあり方が望ましいかという、きわめて政治的な問題である。

小林傳司(2007)『トランス・サイエンスの時代』NTT出版
 BSE問題や原発問題を例にあげて、科学と政治の交錯する「トランス・サイエンス」という「科学にとって問うことはできるが、科学によっては答えることのできない問題郡からなる領域」(ワインバーグ)について、私たちがどう向き合うことができるかを論じる。
 ここでは「市民性の育成」がキーワードのひとつとして登場する。つまり、科学者・専門家に解答を求めることはできず、その責任を科学者の負わせることも困難であり、また手続的な瑕疵がなければ合法とする現在の司法判断の限界も踏まえ、考える「素人市民」の政策過程への参加が期待される。
 静岡県の河川改修をめぐる会議をリードしたNPOによれば、「日本の総合学習のねらいは、どちらかといえば、個性を生かす教育の延長線上で、個人としての「生きる力」に重点が置かれている。アメリカのサービスラーニングは、むしろ「市民性の育成」という社会性に重点が置かれている」と指摘される(p.210)。
 これが「シティスンシップ教育」のゴールと考えてよいのだろうか?
0

ドラマを見て初めて、西山事件について調べてみた  読書メモ(09.6〜)

 恥ずかしながら、もっくん主演のTBSドラマ『運命の人』が、山崎豊子原作で、外務省機密漏洩事件(いわゆる西山事件)を描いたものだとは、見るまで知らなかった。
 この事件については、高校の政治経済の教科書にも、国民の知る権利と取材の自由をめぐる裁判として登場するが、「最高裁は、取材の自由については認めつつも、その限界について示した」という解説がちょろっとついている程度である。

 ふと本屋に入ると、店頭に置かれていたのがこれ。
澤地久枝『密約―外務省機密漏洩事件』(岩波現代文庫、2006年)
(もともとは中央公論社から1974年に出版したものらしい。)
 沖縄密約をめぐる外務省機密漏洩事件を、情報漏洩に手を貸した外務省女性事務官と同時代を生きた女性の視点から描いたものである。

 むちゃくちゃな裁判ではないか。

 政府が国民に嘘をついた。政治家と官僚が徹底的に隠そうとし、検察は男女の情事のレベルに問題を矮小化し、メディアが煽り、裁判所がそれを追認した。
 そもそも「国家機密」とは国民の生命と財産を守るために外国のスパイに対して守られるべき情報であり、政治家や官僚のウソは機密ではない。政策実現のために一時的に伏せられるべきものであっても、それは時間が経てば明らかにされなければならず、「20年経って調べたら全部処分していましたのでわかりません」というのは「機密」でもなんでもない。
 そしてそれを暴こうとすると、完膚なまでに葬り去られ、その後、毎日新聞社が倒産に追い込まれた。ドラマにはナベツネであろう人物が、政界を泳ぎながらのし上がっていくようすが対照的に登場する。

 おそらくこの事件のあと、日本から「政治記者」がいなくなってしまったのではないか。官房機密費を受け取りながら、記者クラブの中で政治家や官僚たちと共犯関係を結ぶようになったことで、国民の目となり耳となって、政治家や官僚のウソを見破る役割を果たす人がいなくなってしまったということではないか。

 とすると、原発をめぐる「報道のウソ」は、何も今始まったことではない。
 沖縄密約をめぐり、ライバル社が政府のお膳立てに乗って、毎日を潰した。それと同じことではないか。

 なお、民主党政権も最初の3ヶ月はこの問題に取り組み、自民党政権が否定しつづけた密約の存在を明らかにした。その後の腰砕けぶりと比べて、これだけは評価してよかろう。そして、情報公開こそが民主党に託された重要な政治的使命のひとつであったはずなのに、すべてに頬被りを決め込んだ時点で、民主党は自民党と同じ穴のムジナとなったということか。
3

公立高校の凋落はほんとうか?  読書メモ(09.6〜)

 小川洋2000『なぜ公立学校はダメになったのか』を、今一度読み返す。
 「高校の序列が社会科位相の反映であったのならば、社会の変化が高校の序列を変えたのではないか」(p.6)という問題提起の上で、埼玉・東京・神奈川の3都県における高校の序列構造の変化を、高度成長期の人口流入をキーとして説明する。公立高校は政策の失敗で「凋落」したのではない、というのが結論のひとつである。
 この見解は、同時期の関西圏や中部圏でも成り立つのだろうか。
 また、90年代以降の人口減少期においてはどうなのか。

 もっとも、この見解はこの本が出た後もあまり浸透しておらず、公立復権に鼻息の荒い御仁はもとより、私学関係者からも「公立の政策の失敗で私学が盛り上がった」という声を耳にする。本当のところはどうなのだろうか。

 佐藤香2004『社会移動の歴史社会学』も社会移動が戦後の学校と職業の関係に及ぼした影響を、東京を中心に描く。
 このあたりをもう少し丁寧に読み直して、年度内にきちんと文章化したい。
0

高校教育義務教育化の可能性 in 1979  読書メモ(09.6〜)

 トヨタ財団の研究助成報告書に、「高校教育義務化の可能性に関する基礎的研究」というものがある(1979年、研究代表者=潮木守一)。各章の執筆者は、潮木先生をはじめ、藤田英典、江原武一、米川英樹、麻生誠、秦政春、宮崎和夫、という面々である。
 第6章には、高校教育についての有識者にコメントを求めたその回答がそのまま収録されている。現役の高校教員や校長、官僚、大学教員など28人+共同研究者の中から3人。その内容は多様かつ多彩で、今読んでも十分通用する。ということは、30年以上、「希望者主義」と「適格者主義」をめぐる高校教育を取り巻く状況は大して変わってこなかったということでもあり、それどころか、その問題は大学にも派生し、より状況は進行していることを実感する。
 たとえば、ある大学の先生の寄稿は、「高校」を「大学」に置き換えても、まったくもって通用する。きっとこの先生は、まさか30年後、大学が高校と同じ状況に陥るとは、当時は予想だにしなかったことだろう。以下、長文ながら引用する(pp.255-256)。

「正円尊重主義の清算を」(大学教官)
 昭和54年度の高等学校等への進学者は1,537,000人で、進学率は史上最高の94.0%を記録した。ほかに専修学校、各種学校等への入学者が43,000人(2.6%)いるので、中学校を卒業してなお勉強を続けたい者には、いわゆるヨコの格差さえ問わなければ、教育を受ける権利がほぼ完全に保障されていると見てよい。
 もっとも高等学校への進学が、「なお勉強を続けたい」ためかどうかは、率直なところはなはだ疑わしい。中学校を卒業した子どもにとって、進路といえば高等学校のほかにまず考えつかない。授業はどんなにつまらなくても、そこに行けば同性や異性の仲間にめぐりあえることができる。十分ではないまでも体育館やグランドがあって自由に利用できる。運が良ければ甲子園やインターハイの舞台も踏めるかもしれない。いずれ就職するにせよ、高等学校ぐらいは出ておかないと相手にされないし、大学に進学するならなおさらだ。せっかく気楽なモラトリアム期間を楽しまずにすます法はない。こうして高等学校は、若者が成人社会の仲間入りをするために欠かせないイニシエーション(=成人式)の場になりおおせた。今日の高等学校はかつてのエリート教育機関とはこと変わり、希望者のほとんど全員を収容する大衆教育機関である。これからの高等学校を考える場合には、まずこの明確な事実を認識してかからなければならない。
 したがって、これからの高等学校は当然、希望者主義を前提とすることになる。ことの是非はともあれ、進学率が94.0%に達した現在、適格者主義を採ることは、現実問題として考えられない。ただし、希望者主義を採る高等学校は、教育段階として高等な(傍点)学校を意味するのではなく、多様な能力・適性・関心を備えた満16歳から満18歳までの若者を収容する「高等学校」という名前の教育機関であることを心得ておく必要がある。
(後略)
1

日本語の響き  読書メモ(09.6〜)

 ぼくは、劇団四季のミュージカルが、苦手である。何度か観に行って、うまいな、とは思うが、それ以上ではない。
 ひとつには、日本人(正確には「ヤマト民族」)だけでいろんな役をこなすことに限界があって、いくらカツラをかぶって白人になろうとしても、顔に色を塗って黒人になろうとしても、それはダウンタウンやウッチャンナンチャンのテレビのコメディと大差ないように思える(劇団四季に限ったことではなく、これは舞台芸術全般に言えることである)。その点、ブロードウェイやウェストエンドでは、難なくクリアできる問題だ。また、NHKの「坂の上の雲」が(国籍や民族を無視したいわゆる外タレではなく)きちんとアメリカ人やロシア人やイギリス人によって演じられていることで、見応えが増しているのも、同じことだろう。
 しかし、どうもそれだけではないことに、気づいた。
 日本語の歌詞が、どうにもしっくりこないからだ。

In sleep he sang to me,
in dreams he came . . .
that voice which calls to me
and speaks my name . . .
And do I dream again?
For now I find
the Phantom of the Opera is there
inside my mind . . .
 ↓
夢の中であなたは 
この心にささやく
今姿も現れ
ザ・ファントム・オブ・ジ・オペラ
そう あなたね
http://enbi.moo.jp/phantom/text.html#prologue


・・・やはりどこかムリがあるでしょう。

 そんなことを思っていた折、NHK大河ドラマ『龍馬伝』でも登場した、土佐の民権運動家・坂崎紫瀾による新聞連載『汗血千里の駒』(岩波文庫)を読んだときのこと。
 どうもこの文体が目から頭に入っていかず、もう止めようかと思って、文末の彼の略歴を読むと、彼は一時期、講談師をやっていたというではないか。
 そこで、本文を、声に出して読んでみた。

然れば坂本龍馬は一たびかの千葉家の息女光子を見染めてより兎角にその面影の忘られず大息つきて独語しける様は 我れ熟ら江戸の風俗を観るに三百年の太平に欺かれて坂東武者の勇気と参河士の節義を併せて地を払うの有様となり果てゆき・・・
(第九回)

 なるほどなぁ。透谷、逍遥、四迷たちが日本語を整えていく前の日本語、そして漱石や鴎外が登場して近代小説を完成させていく前の明治の戯作というのは、こういうものだったわけだ。

 劇団四季と龍馬伝とがひとつにつながったきっかけが、井上ひさし『日本語教室』(新潮新書)であった。
 東北出身の彼によれば、もともと日本語には、東北弁のようにアクセントがなかった。それが大陸からやってきた人たちの言葉の影響でアクセントがついたが、それでも英語のように強弱まではつかなかったという。そして、斎藤茂吉の短歌を例に、「あいうえお」の5つの母音の奏でる音韻の奥行きの深さについて解説する。脚本家であった彼は、できるだけ漢語ではなくやまとことばを用い(観客が咀嚼するための反応時間がコンマ何秒違うらしい)、銀行といえば必ず「三菱銀行」なのだそうだ(iの母音は遠くまで届くらしい)。
 言葉は精神そのものなのだと、彼は語る。
 そして、彼は日本語とこの国が大好きであることを宣言する。だからこう続ける。

 日本の悪いところを指摘しながら、それをなんとか乗り越えようとしている人たちがたくさんいます。私もその端っこにいたいと思っていますが、そういう人たちは売国奴と言われています。でも、その人たちこそ、実は真の愛国者ではないのでしょうか。完璧な国などありません。早く間違いに気がついて、自分の力で乗り越えていくことにしか未来はない、ということを、今回の講座の脱線と結びにいたします。(p.118)

 震災以降、東北とは何か、ということが議論された。東北とは何か、そしてそこから見える日本とは何か。
 日本について考える材料は、どこにでも転がっている。それを自覚するかしないか、だけの話だ。
 だから、ムリに学校で教える必要はない。ちょっとだけ、きっかけがあれば、そこから思考はどんどん広がっていくはずだ。

<追記>
 これを書いた後、影浦峡『子どもと話す 言葉ってなに?』(現代企画室)を読んだ。
 まったく違うアプローチから、実は同じようなことを言っているように思えて、もしも井上ひさし氏がご存命で、このふたりが対談をしたら、どんな日本語論、日本人論、日本論が展開されただろうと、想像をたくましくしてみる。
0

シティズンシップ教育の日本での展開可能性についての所感  読書メモ(09.6〜)

 図書館に用事で行ったら、放課後当番に当たっているはずの先生が来なくて、司書さんが帰るに帰れなさそうにしていたので、代わりに入りますよ、と、今月2回目のスクランブル居残りをすることになった。
 ちょうどジュンク堂から届いたばかりの本が手元にあるので、読みながら当番することにした。
小玉重夫(2003)『シティズンシップの教育思想』白澤社と、バーナード・クリック(2000=2011)『シティズンシップ教育論』法政大学出版局、の2冊である。
 熟読したわけではないので、これは直感でしかないのだが、まず「シティズンシップの教育論を扱うべきは、政治学であって、教育学ではない」と思う。たとえば図書館学が図書館不用論を提唱できないように、原子力工学が原発反対派を閉じ込めてきたように、この教育論は、実は現行教育システムの解体なのだから、それは教育学の外部からでなければ核心にアプローチできないのではないだろうか。
 そして、シティズンシップ教育論では、「教師が、教師である以前に、一市民である」ということが大前提となる。「教師聖職論」あるいは「先生なのだから」的な発想が根底にあると、無制限無定量な教師の仕事の世界に入り込んでいく。もっといえば、日本社会が、就社主義を乗り越えて、ワーク・ライフ・バランスを実現できてはじめて、ヨーロッパのような個人主義を前提とする市民社会が成立する。ただし、もしもその背景にキリスト教が必要なのだとしたら、このシティズンシップ教育論はきわめて西洋的なものとして、留保が必要となる。
 そういう意味で、日本の学校や社会を前提としてシティズンシップ教育の方法論だけを取り上げても、それは似て非なるものにしかならないように思う。
 これは劇薬であって、生半可に手を出すと、おかしなことになる気がする。
 ちょっと未整理のままだが、メモとして記録しておく。
1

高校を卒業するということ。大学に進学するということ。  読書メモ(09.6〜)

 今は鳴りを潜めたが、「おバカタレント」が全盛だったことがあった。
 小学生でも答えられるような常識問題を、見事なまでに珍解答するのが、バラエティとして成り立つというのは、どういうことなのか、ずっと疑問であった。
 高校進学率は95%程度だし、卒業率も92%ほどで大きく変わってはいないはずで、彼彼女たちの大半は中卒ではないはずだ。
 義務教育ではない高校は「適格者主義」がタテマエなので、高校の課程を履修して(修得ではない点に注意)単位を取得しなければ、卒業できないはずである。つまり、今の高卒資格は、一定の学力水準を表していないということである。
 「高卒資格を取り消せ」とかいう話にならないのは、なぜなのだろう。

 高校に3年間、きちんと学費を納めて通いさえすれば卒業させてもらえる学校がある一方で、高校生でも世界中を転戦するスポーツ選手もまた、高校を卒業している。試合や練習を授業への出席を読み換えるなどして、工夫しているようである。高校の卒業証書とは、高校に毎日通ったことの証明ではなく、高校生という時期を体験したという証明なのだろうか。

 高校に進学し、高校を卒業するということは、どういうことか。高校とは、どのような教育機関なのか。「全入主義」ではなく、それでもなお「適格者主義」を標榜するというのであれば、それはなぜか。

・・・ということを考えていたとき、ちょうど手にした本が、ビンゴ。

尾木直樹・諸星裕『危機の大学論』角川oneテーマ21
 高校と大学の教育を根底から再編する必要性について。このままでは、優秀な高校教員を大学がスカウトしていく時代がやってくる。
 大学は、高校が2度に分けて体験した、大衆化と生徒減とを、同時に経験している点で、高校を教訓としつつ、高校の先を行くわけだ。
0

午前中の半日週休  読書メモ(09.6〜)

 久しぶりに学校の先生らしい本を読んでみようと、朝日新聞教育チーム『いま、先生は』(岩波書店)を手にしてみた。去年、朝日新聞で続けられた連載をまとめたものらしい。学校現場で苦悩する、等身大の教師像を描いたもので、なかなかの力作と拝見。ただ、視点がどうしても「学校ラブというものになっているので、身びいきになっていることは否めない。
 読者からの指摘を受けて、連載の後半では、非専任教員についても触れられている。そのとおりで、不安定な身分と安い給料で、専任とまったく同じ仕事をさせられているのだから、いくら専任の待遇を問題だといったところで、しょせんは専任のグチになってしまっていると言われても仕方あるまい。
 同じことは、医療の現場で起きている。産科の崩壊が最たるものであろう。そういう視点から、社会全体に対しての大きな問いかけができたはずなのに、最後まで「学校ラブで終始してしまったところが、きわめてもったいない。これでは、「先生も大変やねぇ、でも、私らも大変なんよ」にしかならないではないか。

 真珠湾攻撃70年。澤地久枝・半藤一利・戸高一成『日本海軍はなぜ過ったか』(岩波書店)は、2009年に放送されたNHKスペシャルを受けての鼎談である。
 海軍も東電も、膠着した組織の中で出世してきた上層部が保身に走った結末という意味では、同じことである。
 この番組の視聴者には若年層が多かったことについて、日本の近代史の教育がなされてこなかった、それはできる人がいないからだ、という指摘をした上で、「おわりに」でお三方がそれぞれに、若い世代に向けてメッセージを投げかけている。
 「本を読んでください」
 「一生懸命勉強して、正しい判断ができるようにしてください」
 「歴史を勉強してください」
 さっそく、明日の授業で、使うことにする。

 カバンの中には『謎解きはディナーのあとで』もあるけれど、これはまた今度でいいや。
4

やさしくわかる、ということへの誤解について  読書メモ(09.6〜)

涌井良幸・涌井貞美『多変量解析がわかる』技術評論社、2011年
ISBN 9784774146393

 多変量解析に関する本は何冊か読んだけれど、どこかしっくりこないところがあった。
 この「ファーストブック」の統計学シリーズは、生理的に自分に合っている気がする。
 とくにこの本は、おふたりとも高校の先生だからということもあろうが、ほんとうにすっと体内に吸収される気がするのだ。

・・・それにしても、これだけ世の中に統計に関する書物があって、ことごとく「よくわかる」とか標榜しているけれど、そもそもほんとうによくわかる確定版が出されれば、それで天下が統一されるはずである。
 このおふたりも、これまでにも同じようなものを何冊も書いていて、今度こそ決定版なんだろうか。それともまた来年、同じような本を他の出版社から出されるのだろうか。

 ところで、今日の毎日新聞に、「池上彰氏の解説がわかりやすいのは、記者が取材先や専門家の目を意識しているのに対し、つねに子どもたちならどう反応するだろうかということを考えているからだ」というコラムが載っていた(「編集局から」小泉敬太東京本社編集局次長)。
 そうなのだ。中学生にとって「なんで?」というものは、たいてい大人にとっても「なんで?」なのだ。
 ただし、コラムを書いた記者氏は、半分正しいが、半分はまだ正解にたどり着いていない。
 そういう視点を持つということと、やさしく書くということは別のことだからだ。子ども向け質問コーナーが、言葉尻だけ簡単にして、中身はぜんぜんわかりやすくないという、文字通り「子どもだまし」にもなっていないことがある。「難解な言葉を平易に置き換えるだけではすまない」というのは正解だが、それではどうするか、編集次長氏もいまひとつすっきりしていない。
 「おいしいコース料理」の普及版は、「簡単なコース料理」ではなく、「おいしい街の定食屋」なのである。
0

コトバのちから  読書メモ(09.6〜)

 朝日新聞に、沢木耕太郎氏による「ウィンターズ・ボーン」の映画評が載っていた。AERAの藤原帰一先生の映画評論コーナーで読んだときには、ふ〜ん、としか思わなかったのに、今回は、なぜか涙が出てきた。
0


『下町ロケット』を読んで、泣いてしまった。

影浦峡『3.11後の放射能「安全」報道を読み解く 社会情報リテラシー実践講座』現代企画室
 ↑
なるほど。

*報道を理解するための5つのレベル
@誰にとっても変わらない記述
A「専門家」による「科学的」な知見や見解
B社会的に合意されたり議論される見解
C状況や対象、行為に関する個人の判断や見解
D個人の心理的な状態

0


 2泊3日のKJ法合宿に参加してきました。
 KJ法とは、川喜多二郎先生が1960年代にまとめ上げた、定性的データの整理方法で、「あぁ、カードを使うやつね」ということは知っていたが、本格的に使いこなすにはトレーニングが必要なのだそうで、それなら合宿しよう、という話になった次第。ちなみに今のボスは、川喜多先生の孫弟子で、正統な伝承者(?)のひとり。

 これがKJの専用ラベル。コンピュータソフトもあるらしいが、手作業の方がはるかに優れているという。ちなみにけっこう高い。
クリックすると元のサイズで表示します

 模造紙1枚に70のラベルが目安ということで、1ラベルに1情報を書き込んでいく。ぼくの場合は「8月5日の移動中に頭の中に思い浮かんだこと」。先行研究の整理や、インタビュー・データなど、その中身は人それぞれ。
クリックすると元のサイズで表示します

 関連する(ような気がする)ラベルを2〜4枚ずつまとめて「表札」をつける。この表札づくりがなかなか難しい。
 そうするうちに、最後にはいくつかの「島」ができあがるので、その空間配置を考える。これがストーリーになる。
 ラベルを貼っていって、完成!
 ぼくの頭の中のごちゃごちゃは、4つに整理されました。なるほど、2正面作戦どころか、4正面作戦をしていたわけで、そりゃ説明がぐにゃぐにゃするわけですね。
 完成したKJ図は人それぞれ。これをもとにプレゼンテーション→文章化、というのが次のステップ。
クリックすると元のサイズで表示します

【おまけ】
 ホテル側が何か勘違いしたようで・・・
クリックすると元のサイズで表示します

 航空ショーをやってました。
クリックすると元のサイズで表示します
クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します
0

都道府県別進学率とパス解析  読書メモ(09.6〜)

 『教育社会学研究』88集が届いた。分厚くてびっくり。
 79年調査、97年調査に続いて09年に同じ高校を調査し、少子化や90年代改革が高校に与えた影響を分析した中西論文(中西啓喜「少子化と90年代高校教育改革が高校に与えた影響」)、進学校調査データを再分析し、達成動機に注目の地域性に注目した有海論文(有海拓巳「地方/中央都市部の進学校生徒の学習・進学意欲」)、大学進学率の都道府県格差の成立要因を76年・86年・96年・06年の4時点について比較検討した上山論文(上山浩二郎「大学進学率の都道府県間格差の要因構造とその変容」)など、なかなか盛りだくさんである。
 中でも、上山論文は手法として参考になった。パス解析という古典的な方法であり、使っているデータも「国勢調査」「就業構造基本調査」「学校基本調査」「県民経済計算」と誰でも入手可能な官庁データである。要するに、大切なのは問いであり、手堅く論証することであることだと、再確認する。
0




AutoPage最新お知らせ