思い起こせば、わたしはちゃんとしたプレゼントをもらった記憶が少なめ。
高価で豪華だとかそんな贅沢な話ではなくて、
男性から与えられる物の中に、あまり心のこもらないものが多かった。
問題なのは、与えている人の存外に私はかなり努力して誠意を汲み取っていることが実は惨めだったなぁ…と今さら気付いていること。
例えば、メモや書類などを見せてもらったり、それをもらったり、大事なものを自分にも見せてくれてると親密さの証拠として嬉しかったりする、…が、物質的には単にその当人にとってその場で無用になった紙切れをゴミ箱に捨てずに私に持ち帰らせてるだけなんだなぁ…。
そういう意味では私も人がイイというか、貧弱な行動をとってしまうのが惨めな感じ。
食べきれなくなったものを 家に呼んで食べさせる、とか…。幸せのおすそ分けだとか親密さ故と思いがちだが、捨てるぐらいなら食べさせよう!みたいな感じか…。勿体無いから食べれば?な状態。
少なくとも 私のために用意されたものではないわけで…。
男性として女性のプレゼント用の物を買いたいというのも、強いて言えば、もったいない相手かどうか与えるに足る女かどうかも値踏みされている場合もある。
独りで行くより複数人 という部分が多い人、食事や交通費が割り勘できるのが デートのメリットのような人もいたなぁ…。
相手を喜ばせようと思ったり、そのために準備した自分の真心とか尽くしとか 結構虚しかったのかなぁ…と思いたくないが…。
いわゆる彼氏や彼女と言う関係でなくて、知り合いと言う間柄で、実は自分を利用することしか目的ないんじゃないかなって思う人ありますよね。
私自身の人格でなくて、ある肩書きやら役割の私としての意味合いでの付き合いは、友人ではなくて、その仕事ってわけなんでしょう。
仕事なら こちらも遣り甲斐とか利害関係が絆の中心になるべきなんですけど、私はどうしても 人柄の交流だと思いがちで、ちょっと肩透かしを感じることがある。
自分が結構不運で不幸なのか、大なり小なりそんなことは誰しもあるのか
…まぁそんなことなんでしょうけど、HAPPYな思い出は少ないと言うか、大切ですし、逆に幸せな思いは他愛もない瑣末なことにあったりするもの。
結婚しないまま年をとったり、仕事上昇進や昇給のないまま組織に所属していると、どうやったら幸せになれるのか、何が一番自分にとって幸せなのか、考え込んでしまうことがある。
人と相互関係は 考えて結論なんて出るわけないのに。
ただ、ごみみたいなものをつかまされてそれでも勘違いして嬉しくなったり、なんでも喜んでいい子にしていようとしたりしないで、しっかりしようとは思いますけどね。
なんだか飢えてて勘違いしやすいんだと思う。
恥ずかしいけど、書いてしまった。
ちなみに画像はアルハンブラ宮殿 ライオンの中庭。
2005年夏、アルハンブラ宮殿を訪れて、そこでの記憶や写真を眺めてはアルハンブラ物語を読むのはとても楽しかった。

今はダヴィンチ・コード 興味深い。単にパリ旅行へのおまけに読み始めたところ、事実かどうかは別として史実もよく調べられているし、探究心も好奇心もかきたてられちゃって面白い。
そもそも、現代思想や宗教的思想が 現代の色々の社会問題を読み解くキーになっていると考えていますから、こういう形(小説)で 発表することも なかなかやるなぁ…、と思うわけです。
画像資料が見たくてダヴィンチコードをググリましたら、オプス・デイの声明が3番目くらいにヒットしてきました。小説なんだからそんなに慌てて釈明する必要ないと思いつつ、その行動が返って小説の信憑性を高めていて、宗教・現代思想、聖地研究、美術、旅行、私にとっていろんな好奇心がそそられて、純粋な娯楽として優れてます。