先日ようやく読み始めた本、
パワー・オブ・フロー。フローという概念、フローに従う幸福な生き方についての本ですが、前回の記事、夢の話とマンションの契約について書いたような、最近の家を決めるまでの自分の動きを言い示したような本の内容で、驚いたり納得したり、それもまた、成り行きや物事うまいところに治まる感じ、つまり「フロー」を実感。
ずっと整理したかった、今後のことを考える色々の要素について書くことは、フローの過程でも合理的なものらしく、全てを語り聞かせて賛同を得るには、今の私には喉に負担が大きくもあり。
まず、東京での暮らしは、休日の活動が充実してないのがイヤ。
自分には車がないので、ホームセンターに買い物に行ったりできない。海や山に遊びに行くことも簡単には出来ない。
いろんな制約や問題を解決したとしても…、この場合は車をもつことや車や駐車場、交通料金、燃料費などのいくつかの方策で解決したとしても、渋滞や行楽地までの距離的な遠さなどを克服できない。
目的地に到着しても、沢山の人がいる。それは電車で出かけても同じ。どこに行っても行列、休日に遊びに出かけようなんてもう何年も思ったことはない、看護師だから平日にひとりで出かけるしかない…という、物理的にも精神的にも限界を持っている。
地方と違って電車は発達しているので、かなりの距離を移動できるが、その分お金がかかっているのも確か。パンクチュアルな行動はとても便利でスピーディー。それだけに、一日に多くの行動を計画してしまうのも都会暮らしの人の感覚。
例えばバスや車での移動を前提としていたら、かなり余裕を持って行動する。電車が時間通りに来てくれるおかげで、2分だとかそういう刻みで自分の行動を管理しようとしてしまう。これが田舎だったら多分30分とか1時間、あるいは午前・午後・今日・明日くらいの曖昧さとのどかさがある。
ひところ前、忙しく飛び回っていた頃とは状況が違うし、東京で慌しさに包まれて、自分にとって一体何か役に立っているのか?自分の幸せでラッキーなのか? 意味がないことがわかった。疑問ではなく、これは分かったというレベルだと思う。
朝5時半に起きて寒くて暗い中出勤して、仕事が終わるのが19時20時などになる。疲れきって夕飯を作る余裕もなく、買ったものを食べてうっかりしているとすぐに眠ってしまっている。「よ・く・な・い」こう思うことが多くなってきた。もちろん、田舎だと間違いなくゆとりや自由が叶うわけではなく、心がけとやりようというのはあるだろう。

東京に住んでいて、さしたる余暇活動をしていない人は私だけではない。多くの人が海や山に遊びに行くこともなく、バーベキューや川遊びをすることもなく生活している。
少なくとも自分が出遭った人は、とても忙しいか、とても退屈かどちらかでそれが叶わないのだろう。一緒に楽しむ人ができなかったのは思えば随分寂しいが、この先独りで暮らしていくやってくことの大儀はない。
都会に出来た温泉施設に行って、何千円も万円も払って おしゃれなお風呂で無理やり温泉気分を味わうのもそれほど面白くない。
とは言え、東京には地方にはない 歴史ある場所や古い森などが沢山あり、散策するのは楽しい。確かにおしゃれなお店やカフェにめぐり合うことは気持ちも豊かになるし、ありがたい。
食べ物に一つには問題がある。
東京に初めて来た頃は、T大の学食のまずさと高さには驚いた。不味い食べ物、というのを感じたのは初めてだった。それによって、私の自炊生活はいやがおうにもすぐに自立した。
幾度か引越ししている内に、そのエリアに売っている魚や肉のレベルを見ると、暮らしていけない感覚はすぐに起こった。
なぜその死んだ魚を買えるのか、どうしてそんな魚を売るのか、いろんなことへの安心や信頼は損なわれる。
高質スーパーマーケットがあると、価格は高くてもそれなりに満足する。結論としては、品質と価格を満たすのは東京ではそこそこの百貨店の地下食料品売り場だと思う。お惣菜を買うのも普通のスーパーではダメだ。
働きながらしっかり食事を摂るには、ある程度外食や中食に頼る必要がある。結核になってからはより気をつけて食事を抜かないようにしている。そういうわけで 毎日デパ地下に寄れるような場所へ引っ越した。通勤途中で食糧を確実に調達するのがいい。

東京で散策していて、楽しいのは歴史ある場所や古い木立、おしゃれなカフェばかりでなく、新鮮で質の高い、かつ普通の価格で魚を売っているお店に出会うことだ。そういうスーパーマーケットが近くにあると、生活が違うだろうな…というのは大げさではなく 東京ではある特定のお店があるなしで生活は変わってしまう。
スーパーマーケットやレンタルビデオショップ、公営の運動施設やスポーツクラブ、こうした条件は家を買ったり借りたりする場合、不安定要素ながらとても大きくて、気にかかる。
しかしながら、東京では珍しく立派なスーパーマーケット、福岡では、どこのスーパーマーケットチェーンでも問題なく品質も品揃えもクリアしている。福岡で手に入りにくいのは、輸入食品だけだ。
また、九州を背景とした福岡の遊びや余暇は、スポーツクラブにこだわるようなことにはならないし、野外やいろんな土地で興味を持って刺激を受けて実体験して楽しむことが多いだろう。お得でおいしいランチがお洒落なのは東京のよいところだけど、福岡だとどこに言ってもそれなりにおいしいし、損した気分にはならない。
何時間もかけて人ごみを避ける場所を求めたり、きれいな空気や海風のために大金が必要な東京の暮らしには、私の一人暮らしには限界がある。
物理的にも人とのつながりも希薄で弱すぎる。
また、今のような不自由な東京暮らしだと、海外旅行に求める要素が多くなってしまっている。買い物もしたいし、海外で泳ぐこと、海辺を散歩すること、森林の空気をすうこと、新鮮な材料の料理を食べること、いつも出来ないことを山盛り楽しみたい。

旅行好きなので色々調べて予約したり自分の足で行きたいけれど、今の生活では休みを取る事がまず難しい、休みがとれても 事前に旅行を綿密に計画する余力がない。心ならずもパック旅行に参加しても満足できないし、そもそも海外旅行だけで暮らしが満足できるほどの感激の量じゃない。
旅行者でなくて、海外暮らしの人のように、素晴らしい環境に身をおいてこそ本当に満足できるというのが最近のうっぷんになっていた。
東京の面白いところ、東京の魅力は、やはり東京の都会的なところだと思う。洗練された料理、複雑な仕組み、明るい夜景、手の込んだ公園、世界的な芸術品の展覧会、有名ブランドのお店、大規模なバーゲン、無関心な他人、疎遠な友人、新しい物についての話題、有名人、テレビ番組、ディズニーランド、有名シェフ、有名店…。
実際に、こうしたことの恩恵は、経済的な状況が条件にはなるけれど、地方に住んでいる人でも享受できるものばかり。
東京に遊びにくる人が、効率よく遊んで帰るみたいに、東京は遊びに来るととても面白いのだと思う。
東京に遊びにくる人は、地元での豊かで安定した着実な暮らしがある分、余程充実した暮らしが出来るんじゃないか…そんな思いもときどきある。
確かに、昔の私は、田舎はつまらないし、山間部や過疎地なんかに生まれて育った人は不幸とさえ思っていた。今そう思わないのは、そうした環境が人を衰えさせるわけではなく、どういう価値を持ち人生を歩むかは本人に任されていて自由になる、という社会に変わってきたからだと思う。今や人が発達するのに、もはや致命的な格差や障害はない、みなそれなりに恵まれているのではないか?
"60歳になって田舎暮らし"、"退職後は海外暮らし"という考えもあるが、いろんな人に負担や迷惑をかけてしまう。田舎や海外で失うものを考慮すれば、その頃元気でリスクを背負う自信が全くない。今30年以上の住宅ローンを組んで65歳まで今の職場で心豊かにキャリアもアップし、収入や人間としての評価や人格の成長があるとは思えない。誰かと結婚できたとして、今とは全く違う経済状態にのし上がるような夢のようなことがおこったとしても、それがどんな豊かさをもたらしてくれるかについてもそれほど期待しない。
自分が感じる幸せとか、必要としているものは自分で求めるからこそ得られる。「誰かがやってくれることを望む」というのは、文章は正しくても行動としてはありえないことなのだと今さら分かったのかも知れない。
現実的な生活を実践する術として、福岡に引っ越すことが 当然で必須のことのように思えてきた。
住居の選択、職業の選択には、また色々な考えがあった。
東京から福岡に心が移っていくことには、今書いてきたようなことが十分な事情だ。