貞享二年の古絵地図に書き込みを入れて再掲します。
→ 拡大図
“ さゝ舟と ”をふくめて五つの集落は、里地や山間にはなれて点在していました。
航空写真などでみるとハッキリするのですが、これらのバラバラに散在する集落が 400年も前の昔から、生活環境のうえで深く関わりあっているようには見えません。
江戸時代初期の
「 正保国絵図 」では、
中山村 野田村 笹舟渡村 高田村 牛ヶ頚村
と、各集落には “ 村 ” 呼称が付いています。
少し時代が過ぎた、「 貞享二年川口組絵図 」では、
中山
村 野田 さゝ舟と 竹田 牛ヶ首
として、
中山にだけ “ 村 ” 呼称が付いて、他はたんに集落名(地名)だけになっています。
同じことは、魚野川をはさんだ「 和南津村 」にもみえる。
「 正保国絵図 」 和南津村 八郎網場村 小貫村
「 貞享二年川口組絵図 」 和南津
村 八郎場 小貫
そしてまた、同じことは 「 川口村 」 のなかにも見出せます。
正保絵図と貞享絵図の表記の違いはどうしたことであろうか。この間、約40年のうちに何があったのか?。
こんにち風に云うならば、地域の合併があったのではないかと思われます。
中山を中心として、野田、さゝ舟と、竹田、牛ヶ首を範囲とした 江戸時代の 「
合併村 」 の成立が想定されるのです。
和南津村や川口村についても、同じ時期に同じ事情が働いて、“ 村 ” の成立があったと考えられます。
つまり、350年前の、
地域の大合併で 今日に大字として引きつがれている区切りが生まれたのだと考えては如何でしょうか。