2007/5/26

4th Semester・・・・Fall 1987  ■新・音楽体験記/留学の頃

夏休みからの帰路でとんだアクシデントに見舞われたものの、何とかボストンに辿り着きレジストレーションに間に合って、、ホッ。
バークリー入学後、ちょうど1年が経った。
日本流に言えば2年生って事です。

9月とは言え、当時住んでいたボストン近郊のニュートンの日中はまだ夏の名残り。
家の近くのクリスタル・レイクで構想にふけるの図。

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なぜかと言えば、今セメのリサイタルが間近に控えていて、3回目ともなればやる事をどんどん突き詰めて卒業後の方向を目指した事を考えないと、ね。
今回は友人でもあり、素晴らしいピアニストのMakoto Ozoneに賛助出演を願ってデュオも予定している。
世界中を飛び回るOzoneがボストンにいる時は限られているので、夏セメの間(学校は留学生だけになるのでリハーサル場所も空いている)に時間をみつけて秘密裏にリハーサルも行っていた。残るはバンドの曲作りだ。

そもそも僕がバークリーに進む切っ掛けを辿って行くとそこにはOzoneとの出会いがある。
84年に後に師匠となるゲイリー・バートンのバンドのメンバーとして来日した演奏を斑尾ジャズフェスティバルで見た。その時に日中ミュージシャンがオフの時間帯を利用してミニ・クリニックが開催されていて泊まり掛けで来る観客がそのフリートークの時間に集まるのだ。
僕が泊まった翌日はOzoneの日だった。
その頃はゲイリーの演奏が見れるだけでも満足だったのに、そのメンバーとトーク出来るのだから興味津々。
その時に僕は当時のバンドのデモテープを持参していて、そのミニ・クリニックが終わった時に一緒に行ってた友人がテープをOzoneに渡した事から不思議な繋がりが始まった。
最初は「オイオイ」と照れくさかったが、これも何かの縁とばかりに「是非ゲイリーさんにも聴いてほしい」と告げると「よっしゃ、わかった!」と。

偶然とは連鎖的に重なるもので、その翌年(85年夏)にバークリーが日本で初めてセミナーを開催する事になった(しかもこのセミナー、初回のみ東京、二回目以降は浜松で行われたので既に演奏活動を行っていた僕らは東京以外で受講するのなら諦めていただろう)。こんなチャンスを見逃す手はない。だってゲイリーのヴィブラフォンのレッスンを受けられるという事で不無を言わず参加。その時セミナーのアンサンブルの振り分けで僕が入ったのがナントOzoneのアンサンブルだった。
「お!来たね」
「うん、来らずにはおれんかった」(笑)
「あん時のテープ」
「うんうん、斑尾の」
「帰りの飛行機でゲイリーにこんなテープがあるよと渡したら聴いとったで〜。スワロウも聴いとったわ〜」
「ほんま、嬉しいなぁ」・・・それが再会の会話だった。
(彼との会話はいつも関西弁。バイリンガルです/笑)

それからアンサンブルのアフターアワーズにチックの曲やOzoneのワルツをデュオったり、セミナー最終日のコンサート用のアレンジが間に合わないから、と突然「後は赤松っちゃん、頼むワ。みんな赤松センセの言う通りにやってや」とアンサンブルの指導を僕に丸投げされたり(こっちも一応受講者デス!/笑)、別の日にはバークリー行きの話しをゲイリーから薦められた時にも立ち会ってくれたり、と、いろいろなシーンで励ましてくれた恩人と言べき存在だ。
あの時一本のテープを持参してなかったら、あの時照れくささから会話を避けてたら、あの時バークリーのセミナーに出掛けなかったら、しかもそのセミナーが東京で開催されなかったら、、、あの時ゲイリーからバークリーに誘われて一歩を踏み出せなかったら、、、、そういう人生のターニング・ポイントに必ずいたのがOzoneだったのです。

そんな彼だからと言って気楽に演奏を頼むというのはお門違い。音楽に関しては真剣だからフル状態で挑む。バンドのメンバー、スクーリ(アイスランド出身)を加え3人用に作ったオリジナルとOzoneのデュオオリジナルで後半のステージをプログラム。
前半はバンドでこの時からドラムは大坂昌彦が加わった。このリサイタルほど緊張した事は無かった。狭いリサイタルホールは入り切れないほどの人で溢れ、しかもその客席にはゲイリーの姿も見える。ホールのように客席との距離があれば幾分冷静な環境があるのだけど、超至近距離に観客がいるのはなかなか落着かないものだ。でも、そういう場所にいつかは自分を追い込まないと成長しないのがこの世界。折角バークリーまで来ているのだからこの時とばかりに踏ん張ってみた。恐らく今までに一番緊張した時間だったと思う。

終演後、楽器を借してくれたゲイリーが優しく迎えてくれた。
「見ていてとても不思議な気持ちになった(当時ゲイリーとOzoneがレパートリーとしていたデュオ曲をやったので)。今夜の出来事は素晴らしく僕はとてもハッピーな気分だ」と。ゲイリーにそう言われると百万力のファイトと緊張の糸がほぐれて心地よい疲労感に包まれた。

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ニュートンの我家でお疲れさん!ステージを離れると飲んだり騒いだりダンス?したり・・・・時にはマイナス10度の真冬に我が家のガレージで車の改造をしたり、とOzoneとのボストンの思い出は尽きない。素晴らしき友人、ほんまお互い若かったです(笑)

僕の電車好きを知ってるので各国に演奏ツアーで行くとカメラで撮ってきてくれる優しい友人でもあるのです。

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きっと上はスイスで一番下はDBだからドイツね。

さあ、さらにビルドアップして次に進むゾ!
と、決意した4th Semester。1987年秋。

続く

2006/12/17

4th Semesterの前に緊急事態!?その2  ■新・音楽体験記/留学の頃

ノロウイルスが猛威を振っていますがみなさん大丈夫ですか?
昨日ノロウイルスでダウンしている弟子タカハタ〜ナの話しをレッスン前のN嬢としていた時の事。
「電話口で大変そうだったよ。声出すのも辛そうだった。突然来たらしいよ。朝は何とも無かったのに昼過ぎに突然“ウッッ”ときて、お腹がキリキリ、、。いつ誰にうつされるかわからないから気を付けるしかないね」

え?っという顔をするN嬢。
「実はワタシさっき新宿駅で乗換えの時に“ウッッ”ときまして、、お腹キリキリなんです、、」

ギャ〜〜〜

・・・・・・・・・

前回の続きです。

シアトル経由でボストンに戻る予定だった某米国航空会社便はランディングの案内の後に上空を旋回する事なく真直ぐ機首を下げ緊急着陸の体勢に入った。。。

さっき気になった主翼の先からの一筋の線、、、、は、もうない(停まった)。
もう燃料カラって事?
飛行中かすかだけど機体がダッチロールしている。
やはりエンジンのトラブルは飛行に支障を与えているじゃないか。ブツブツ。。。

グヲォーーーーー。

かなりの高度から真直ぐに降りているようで機首を下げたままの飛行が続く。

30分以上経ったであろうか、低層の雲に突入し気圧が不安定となって機体が何度もバウンドする。普段なら「もうすぐ着くな」と感じる時だけど、この時ばかりはバウンドする毎に冷汗が滲む。誰も何も喋らない。。。

やがて飛行機は一度も姿勢を変える事なく、一直線に雲を抜けた。
時刻は午前3時前。窓の下は真っ暗の闇で何も見えない。

一際エンジンの音が高鳴る。

グヲォーーーーーーーーー。
主翼の抵抗舵が上を向く。

ドスン・・・・

鈍い音と共に飛行機は深夜のアンカレッジ空港に緊急着陸。
赤い回転灯を付けた車が滑走路の横に待機していた。

ふうーっ、、

誘導路をエプロンに向かう頃になると乗客も落着いてあちこちから喋り声が聞こえる。僕はゴツゴツとした誘導路の振動に呼び起こされるように体温が上がった気がした。

「やれやれ」である。

と、安心したのもつかの間、そこでこんなアナウンスが入る。

「え〜、こちら機長、機長。当機は無事にアンカレッジ空港に到着。時刻は午前3時。さて、皆さんは当アンカレッジ空港で入国手続きを受けてほしい。しかし、現在の時刻は空港の窓口は閉鎖されており、我々はこのままエプロンで待機する。案内のあるまで機内に留まって。そう〜、、、、、恐らく午前6時過ぎには窓口の職員が来るだろう。。。あとはよろしく」

え〜?
着いたはいいが、今度は足止めかい

前の方では乗客が妖艶で魅惑的なブロンドながら無愛想なスチュワーデスと何やら交渉している。「ここまで何も飲食サービスがなくて腹が減っているから機内食を出せ」「ノーノー、解凍してから時間が経つし着陸で私達の乗務時間も終わったから出せない」「出せ」「出せない」・・・で、

結局“出ない”

悶々と狭い機内で待機する事3時間。やっと次の案内が入る。

「入国手続きは午前6時半過ぎを予定。また連絡する。よろしく」

午前6時を過ぎてやっとボーディング・ブリッジが動いて機体に接続される。

「入国手続きの準備が出来たので移動よろしく」
と案内が入ったのは午前7時前だった。

やれやれ、、、、

と、入国監査に向かった先に見た光景に・・・

長大な列である。ジャンボ機の定員が約500人。それに対して窓口はたった二つ。一つはドメスティック用、もう一つはビジター用(エイリアンって書いてたゾ。宇宙人かい!)

普段はココでこんなに大量の乗客が入国手続きをするような空港ではないのでこの有り様。まぁ、緊急着陸で押し寄せたのはこちらだから文句は言えないが、、

結局入国手続きが終わったのは午前8時。
慌てて出発ロビーに行くと再び唖然・・・

この空港からの発着便はアラスカ・ローカルを除くと朝・昼・夜にちょっとだけ。D社の一番早い便にギリギリかと思ったら既に満席。次は?と聞くと午後3時だと言う。他の会社を当たったけどどんどん残席が少なくなるのでそれにした。トホホ・・

仕方ないのでこんな時でもなければ来れないアラスカでも見物しようと外に出たら、、、9月の1週目だと言うのにミゾレ混じりの雨。しかもうっすらと雪が積もっている。ひゃ〜!
こちらは夏の服装だよ。これじゃ街も歩けない。。。
回れ右して空港に戻る。

巨大なトナカイのはく製があったりするのだけど、他には何もない。
カフェで延々時間を潰すしかないんだ。

時々エスキモーがこちらを見てウロウロしている。いえ、人間じゃなくて、コレ
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それもすぐに見飽きて待合室で寝るしかない。トホホ・・

何とか午後3時になってU社の飛行機でシアトルまで行く。これしかもう方法がないんだ。

で・・・・・・

シアトルに着いたのが午後8時。
カウンターに急いだら「方法は二つ」と説明される。

(1)午後9時にNY行きの便がある。それでNYに行って翌日ボストンに向かう
(2)今夜はシアトルに泊まって翌朝シカゴ経由でボストンに向かう

もうこれ以上はゴメンなので迷わず(2)にした。成田から隣席だったNYに戻る客とカウンターで再会する。「どーする?」と言うので「これ以上飛行機に乗ったらろくな事が無さそうなので僕はシアトルに泊まるよ」と言うと「何としても今日中にNYに着かないと大変なんだ」と。「気を付けてね」「おたがいさま」と言って別れた。

そしてボストンから遥か離れたシアトルの宿に空しく向かうのでした。
飛行機、キライだ〜!
ってまだ明日も乗らなきゃ帰れないって、、ど〜よ。

おしまい

2006/12/10

4th Semesterの前に緊急事態!?その1  ■新・音楽体験記/留学の頃

前回(11月19日)は留学してちょうど1年目の夏の短い夏休みを利用して日本でライブをやったりした所で終わりましたが、今回はフォース・セメスター(4th Semester)に向けて日本を飛び立った時のお話し。

飛行機は昔は好きな乗り物でした。飛行中よりも滑走路をさっそうと飛び立つあの瞬間の凛々しさは乗っていても見ていてもいいものです。高校の頃はスカイメイトの会員で実家のある松山と学校のある岡山の行き来や東京との往復に使ったりとかなり頻繁に利用して急ぎの時の心強い味方でした。
しかし、今では仕事や緊急の場合を除くと殆ど利用しません。もっぱら鉄道と車。なぜこんなになったか?その引き金の第一歩がこの時の事件からなんです。

成田を夕方に飛び立つ航空便はアメリカに留学している学生の言わば「定期便」。時差を超えてその日の夜にはほぼ全米の主要都市に到着出来るから。
学生ですからなるべく安いチケットを探して利用すると某外資系航空会社がお決まりに。

で、この時もお決まりの某外資系航空会社にチェックインし座席に納まり一息。
手荷物はなるべく足元に置きます。まだこの状態では暇つぶしグッズも広げません。
なぜなら・・・・大体窓側から座席は埋まるので、出発となって飛行機が空港のエプロン(駐機場)をゆっくりと動き出してから通路を挟んだ内側の席で横3席程度空いている所へ素早く移動するのです。そうすると座席の肘掛けを上げてゴロリと横になれるスペースが確保され窮屈なエコノミー席でもビジネス以上に快適に過ごせるわけ。ハッハッハ。

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が、しかし

9月の1週目となるとこのささやかな「思惑」は満席の盛況にもろくも崩れ去ってしまう

まぁ、仕方ないっか
と諦めて、ベルト着用のサインが消えてから取りあえず退屈しのぎグッズを広げ12時間の窮屈な旅の仕度。座席は窓側でちょうど翼の後側。翼の下には綺麗な夕焼けが広がっている。「さらばニッポン、また来る日まで」海外に留学や赴任した経験のある人なら夕映えに見える景色を見ながらそう呟く時でしょう。
やがて妖艶で魅惑的なブロンドながら無愛想なスチュワーデスがドリンク・サービスを始め機内も和みモードに突入。まぁ、これから先は機内食を食べて寝るだけだし。

飛び立ってから1時間半くらい経ったでしょうか。
うん?
今日はやけに機内食が来るのが遅いなぁ、、大体成田を出ると直ぐに食事が配られるのに。
窓の外はまだ夕焼けが見え、夜の闇との間でプリズムを作っています。
翼の水平尾翼はずっと同じ角度で固定され、気圧も安定しているのか殆ど動きません。
時たま高層圏にある薄い雲を通過する毎に一筋の線となって後ろへ流れて行きます。
翼は空気の抵抗で時々“しなり”つつも安定した飛行は続く。
その翼の先には夜間飛行のパイロット・ランプが点滅しまるで唯一のリズムのよう。
そのパイロットランプの後ろには薄い一筋の線が流れ、この飛行機が高速で飛んでいる事を感じさせてくれます。

うん?

翼の先から一筋の線?そんなのあったかなぁ??

二時間後、まだ機内食はきません。
なんだか変だぞ?

よく観察するといつもなら通路を頻繁に行き交う妖艶で魅惑的なブロンドながら無愛想なスチュワーデス達も最初にドリンクを配ったきりすっかり形を潜めている。
ううん腹減った

流石に他の乗客も(腹が減った為と思われ)普通のお喋りがちょっとざわめきに変りつつある。

三時間後、やっと前から妖艶で魅惑的なブロンドながら無愛想なスチュワーデスがボツボツ客席を回り出した。やれ、これで食事にありつける、と乗客は安堵の空気に。
しかし、客席を一回りすると妖艶で魅惑的なブロンドながら無愛想なスチュワーデス達は再びすっこんでしまった。

どーなってんの、こりぁ。

再び乗客がザワザワしはじめた時。
突然機長のアナウンスが入った。

「え〜、みなさん、お急ぎのところを申し訳ないが、この飛行機はトラブルを抱えてしまったので行先を変更します」

ハア〜?(乗客一同)

「これから進路をアンカレッジに変更して、当機はそこで航行を中止します」

エ〜ッ?(乗客一同)

「従ってみなさんはアンカレッジで入国監査を受けてもらう事になります」

ブ〜ッ(乗客一同)

「只今一つエンジンを止めていますが、航行にはまったく支障はありません」

ギェ〜ッ(乗客一同)

「緊急着陸に備えて万が一の為に機内に物が散乱しない為にフードサービス等を中止しています。しばらくの間御辛抱を」

ガックシ(乗客一同)

「当機のアンカレッジ到着予定は追ってお知らせします」

・・・(乗客一同)

機内には重た〜い空気が

それから二時間後。

「あ〜、機長、機長、こちらは機長です。みなさんの睡眠を破って申し訳ない。当機のアンカレッジ到着時刻は午前4時。ヨロシク」

はうぅ〜〜〜(乗客一同)

あっ
翼の先から一筋の線って、あれ、燃料を捨ててたんじゃないの?
前に友達のアテンダントが何かの時には機体を軽くする為に洋上を飛行中にギリギリの燃料以外は捨てると言ってた、それだ、、、トホホ

プ−ン

ベルト着用のサインが出た。

「え〜、機長、機長、こちらは機長です。当機は只今より着陸体勢に。座席のテーブル、身の回りの持ち物を所定の場所に戻して。通常とは少し異なったコースで揺れる場合があっても航行には支障ない、ヨロシク」

通常は旋回しながら高度を下げる飛行機が、真直ぐ頭から下り坂を転がるような体勢で機首を下げ始めるのであった。


この話し次回に続く

2006/11/19

サード&フォース・セメスターの間の事  ■新・音楽体験記/留学の頃

パートタイム(選択した科目のみ)の履修だったサード・セメスターが終わり短い夏休みを利用して2週間ちょっとの間、日本へ帰った。

ちょうど一年振りだけど、何だかいろんな事が変わっていた
ミニ・浦島太郎だ。

ただ一時帰国するんじゃなくて、渡米前にお世話になった人達に会いに行ったりした。
ピアニスト岩崎大輔氏はライブをセッティングしてくれていた(実は渡米直前に日本で最後に演奏したのが彼だった)。

吉祥寺の“サムタイム”は週末を除いて平日にインストのライブをやっていなかった(平日はヴォーカルや弾き語り中心だった)が渡米直前に岩崎氏が僕とのデュオを試験的に入れたりしながら様子を見ていたようでした。それが一年後にはすっかり定着しているようで、再び岩崎氏とサムタイムでデュオをやる事に。この時に岩崎氏とは六本木の“アルフィー”でも演奏しています。岩崎氏は僕とは入れ替わりにバークリーから帰ってきた。スケールの大きなピアノを弾く人です。

渡米で持ち物を処分していたので東京には何も無く(もちろん住む家も/笑)、楽器は元弟子に借り、車も高校以来の悪友マコティーに借りての大騒動(笑)。ヴィブラフォンが常設してある店など皆無に近いのでちゃんと計画を立てないと気軽にセッションにも参加できない。まァ、ヴィブラフォンの宿命と最初から諦めてはいるのだけど。。。

東京に滞在する時は目黒の吉田さんのスタジオに居候させてもらってました。
居候のお礼に時間のある時は夕飯を御馳走する事になり、権之助坂にある肉屋にステーキ肉を買いに行った時の事です。ボストンで自炊してたので何となく美味そうな肉はわかりますから、よく値段も見ずに「これ、下さい。このくらいのカットで3枚下さい」と言った。ズッシリくるステーキはレアが美味いんだな、コレが、ソースは何が良いだろう、、、などと思案していたら、「へい、おまちどう。こりゃレアだよ、絶対。焼きすぎちゃダメだよ」とオヤジさん。「わかってる、わかってる」と僕。「他は御用ござんせんか?」と言うので「うん、これでいい」というと、「ハイ。じゃあお兄ィ〜さんに免じて今日はおまけしちゃうよ」「そうこなきゃ!」「1万6千円だけど1万2千円でいいよ!」「ほい!」
・・・・とそこで正気に戻った

すっかり物価の感覚がアメリカ惚けしてたんだ。この程度の量の肉ならせいぜい高くて4〜5千円だろう、、、と。

甘い、甘かったァ〜〜!
財布にお金があったから良かったものの、、、、ふうーっ、

それからは何か買う度に「何でこれがこんなに高いんだ!」と、留学惚け無重力症状の連発。吉田さんの奥様と一緒に買出しに行ったら「赤松さんって買い物に行くといつも怒りだすんだよ〜。野菜に向かってブツブツ文句いったり、見てると可笑しいよ〜(笑)」と言われてしまった。反省・・・・

翌週は実家松山に滞在。この時に初めて松山のジャズメンと正式なライブをやった。
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写真を見ると87年8月30日とある。このヴィブラフォンは実家に置いていったMUSSER。それまでは高校の頃からみんなが演奏している場所に顔を出しては飛び入りしてたけど、ちゃんとチケットを発売して一晩一緒にやったのはこの時が初めてだった。伊賀上ひろし(p)さん、渡辺綱幸(b)さん、そして、先日12年振りに共演した堤宏史(ds)さん。そして曲によっては数年前に惜しくも故人となってしまったサックスの倉田さんが加わってくれた。
やたらとマイクが多いのは、この時にFM愛媛のラジオ番組がON AIRする為だった。
17歳の頃からの僕を知ってる先輩達と演奏するのはとても緊張だった。勿論演奏が始まれば普段通りなんだけど。
この時に会場で松山のピアニスト栗田敬子さんとも初対面している。彼女にも1曲参加してもらってセッションした。また、松山のヴィブラフォン奏者宮崎さん(故人)ともこの時に初めてお話しした。
いま考えると愛媛県はヴィブラフォン奏者が多い。宮崎さん、藤井寛さん、僕。たった三人だけどこれはプロのお話。アマチュアの人を入れるとまだまだいるかもしれない。不思議といえば不思議。

さて、そんな感じで短い夏休みを終え、再びボストンに戻るのですが・・・・

その途中でとんでもないアクシデントが待ち構えていようとは、成田を飛び立った時には想像もしていなかったのであります。。。。

この続きは次回


おしまい

2006/11/18

不思議なゾロ目の縁  ■新・音楽体験記/留学の頃

何だか急激に寒くなって12月下旬の気温になってしまった東京ですがいかがお過ごしですか?こう寒いと身体がなかなか馴染みません。。
昨夜から曲作りに没頭してたらもうこんな時間に・・・って完全に朝です

日々いろんな事を書いてたらメールで「そろそろ留学の話の続きなど・・(笑)」と催促が、、。そういえば夏からずっと放置したまんま、、、、。いきます!


前回はサード・セメスター(夏セメ)に入ったところで終わっていました。ドロボーやらややっこしい人間関係におさらばして郊外のNEWTONに引っ越して心機一転。
100%音楽に没頭する体勢が整いました。

バークリーでは1学期の間にリサイタルをリーダーで1回開く事が出来ました。これはアンサンブルのクラスを受講する者であればコンサート・オフィスに企画を申請して認可されれば無料で開けるものなので入学時を除いて毎回行いました。他にパフォーマンス・センターという学内のホールでもオーディション選考で年に一回リーダーのコンサートが開けましたから、こちらも初年度を除いて行いました。

ところが・・・

ナントも不思議な事に、コンサート・オフィスが決定する開催日、これがですねぇ、、、リサイタル全6回の内2回、コンサートに至っては全2回全てが・・・



ゾロ目なんです



残っているものですね、ダンボールの中から出てきました。
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これは学校がリサイタル用に作成した簡素なプログラム

一回目は1月14日、二回目の今回は7月7日(開き直って“TANABATA”とサブタイ)、三回目は10月1日、四回目が2月15日、五回目は10月10日、六回目が1月28日。
まあ偶然でしょう、、、このくらいは。

ところが、コンサートの方は・・・
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学校が作るコンサート用のプログラム 日付けにご注目!

ものの見事に一回目が3月3日、二回目が2月22日。100%の確率です。
まァ、月を数字に置き換えない彼等は何も驚きはしないでしょうが、こちらは「ヲイヲイ」と偶然にしちゃ出来すぎ(笑)。

そんな感じの「ゾロ目」との縁が始まったのがサード・セメスターでした。

その頃、ジャズの演奏に加えて指揮のクラスの先生からの紹介でなぜか現代曲のコンサートにも駆り出され始めました。「隣りのニューイングランド音楽院のナントカ・ビビッチ教授の指揮の下演奏しなさい」というものです。例によって学校からの指示(笑)。ニューイングランド音楽院はクラシックの学校なのでそちらでジャズの要請が掛かるとバークリーの学生が駆り出されるのです。が、、都合良くコイツは両方出来そうだ、と思われてしまったようです。

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教会でのコンサートの様子(珍しくマリンバを演奏中)

この時もう一人マレット奏者が来るというので、誰が来るのかと思ったら・・
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ナント、共演相手はヴィブラフォン科の教授ヴィクター・メンドーサ氏だった(本番後の控室で)

リハの途中、マリンバで奇々怪々な現代曲をやっていると、ヴィクター氏がそっと寄って来て言った。「なァ、トシ。ここの部分はどうやって演奏してるんだ?」
「え?こうじゃないの?」
しばらく僕の手元を観察して言った。
「そうやるんだ〜!知らなかった。そんな手順!グレイト!トシ、それ僕に教えてくれ〜」
@@;
いつも陽気なヴィクター氏になぜか難しいパッセージの指導をやるハメに(笑)。逆だろー、立場が・・・
でも誤解の無いように書くけど、ヴィクター氏のラテンはスゴイ。僕らなんかの似非ラテンとは違う。なので「じゃあ交換に貴方のラテンのグルーヴを教えてくれる?(僕は彼のクラスを一度も取っていなかった)」と出したら、満面の笑みで「もちろん!」と、交渉成立。
本番でそのパッセージが出る度にヴィクター氏が目線で「左、左、右、左からね」と送ってくるので可笑しかった。

その後数回のコンサートの後スタジオで録音してこのアンサンブル・プロジェクトは終わった。

学校の仕事なのでスカラシップとの引き換えでノーギャラだろうと思っていたら、後日銀行のチェックが送られて来た。1曲100$で4曲録音したので合計400$。
これでも学生にとっては十分嬉しいギャラだった。
早速ニューベリー・ストリートのタイフード・レストラン「キング・アンド・アイ」でギャラの1割を使ってたらふくタイ料理のコースを食べて栄養補給(笑)。
留学生なのでお金はセーブしていたけど、当時自分で貰ったギャラの1割は自由に使って良し、と決めていたんだ。


おしまい

2006/7/30

夏セメの前に・・・・  ■新・音楽体験記/留学の頃

昨夜の東京は花火日和で隅田川の花火大会をはじめあちこちで花火が打ち上がっていました。。。夜、東八道路から国立天文台の前の道を抜けたら目の前にスタジアムで打ち上げていたデッカイ花火がドド〜ンと
綺麗でしたが運転中の為に撮れなかったのが悔やまれます。

昨夜の話しは後編で完結する予定だったけど上手く納まらなかったので本日はその続き。


バークリー入学後2セメが終わろうとする時に、例のアパート周辺でドロボーが頻発していたので、もう少し落ち着ける場所への引っ越しを考え始めた。

休みに突入する直前の5月中旬、ゲイリーバートン氏のヴィブラフォンのレッスン補講があった。ゲイリーは世界中を飛び回るヴィブラフォン奏者であると同時にバークリーの役職として超多忙スケジュールの中、必ず週1回のレッスンを行ってくれたが、セカンドセメスターの最後だけワールドツアーで飛んでしまった。普通なら「休講」の一言で終わるケースなのに、ちゃんと補講を取ってくれるのだ。感謝。
超多忙なゲイリーの予定と僕の予定をあわせると・・・●月●日の午前10時しかない

午前中から演奏するというのはこの世界ではあまりあり得ない、、、当然ながら二人とも寝不足の状態(笑)。課題の5曲を演奏して終了すると、ちょうど引っ越しを考えて楽器を探している事を事前に伝えていたので「良い情報がある」と教えてくれた。

「これからエドの部屋へ行きなさい。彼から楽器があると連絡が入った」

ワァオ〜!お礼を言って6階から地下のエドの部屋に行く。
ゲイリーにいつまでも楽器を借りているわけにも行かないし、ドロボーやら何やらといろいろと厄介な事もあるので引っ越しを考えると自分の楽器を持つのがまずは第一歩。
学校にも楽器はあるが、この間のような外で録音するとか演奏する場合いちいち借用申請を出すのは面倒だし、学校の練習室はドアが一面のガラス張りで練習していると知らぬ間に見学者がいる事もあるので落着かない。

地下フロアで初めて会ったのが先々月に来日し17年振りに再会したエド・セイドン氏。

「初めまして」と言うと「全てゲイリーから聞いているよ。楽器は僕のレッスン生のRitaが卒業するので手放したいと言っているんだ。とても状態の良い楽器でツアーケース付きだ」「一度試奏したい」「じゃ彼女に連絡してみよう」と暫し待つ事数分。「近くだからこの住所に行ってごらん」

学校のそれも僕のアパートからも近いRitaのアパートを訪ねてその楽器がすぐに気に入った。この楽器こそが今演奏でフル稼動しているM55(A=440)だ。
Ritaが2〜3日試してからの返事でよいと言うのでその日の内に徒歩数分の僕のアパートに運び込んだ。狭いアパートの部屋の中にヴァイブが2台でギュウギュウだ。
翌日Ritaに「購入」を伝え料金をチェックで支払う。ケース込みで$3000。

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引っ越し直前のアパート自室。写っているのはゲイリーから借りていたヴァイブ
(この時はゲイリーが自分のカスタムメイドの楽器の調子が悪く最初に借りたYAMAHAを使っていたのでMusserに代わっている)

さぁ、これで引っ越しの準備は揃った。
連日いろんな広告を見て物件を探す。ハウスメイトは4人。予算はボストンのアパートと同じ程度。一ケ月総額$1500が上限だ。

学校の帰りに目の前にあるコンビニ「24」で偶然新聞Boston Globeのリアルエステート欄で予算に近い物件を発見、みんなに連絡し次の日曜日に見に行く事に。

学校に通うのでボストンの市内と電車かバスで繋がっている方面で絞ると、治安の事も考えると当時は地下鉄(MBTA Rapit Transit Line)の西部方面が良いという事になった。先のエンジニアKatsuhiko君や郊外で暮らしている学生に聞くとみんなその方面に住んでいる。

日曜日に早速郊外の不動産屋に出かける。

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不動産屋、そしてその後の最寄り駅となるニュートンセンター駅

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学校から地下鉄で20分

車で案内してくれるが、一件めは新しく白いお洒落な家だったけど、各部屋は幾分狭い。一同迷った。小奇麗でいい感じなんだけどなぁ

もう一件は今日は中が見れないと言う。折角来たのだから外見だけでもいいから見よう、という事になって再び。。

林の中を走り、着いたのは

あらら、庭のガレージは車が2台入るゾ。
リビングはメインとサブと二つあるゾ。
バスルームはトイレ3ケ所とバスが2ケ所あるゾ。
2階に3部屋とトップ(屋根裏部屋)だから1階と地下室は完全に共有スペースに分離出来るゾ。
近くに夏は泳げて冬はスケートの出来る湖があるゾ。
ただし予算は100ドルオーバー

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林の中に点在する郊外の住宅地の一角

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徒歩数分にあるクリスタル・レイク 

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お向かいさん

何も迷う事はない。この家に住む事に決めたゾ!

そして、それからはこのアルバムがとても似合ったボストン郊外の生活が始まる。
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『Still Life(taking)/Pat Metheny Group』(Geffen/1987年)

さぁ、引っ越しだ。

つづく

2006/7/29

セカンド・セメスター・・・・・後半の巻  ■新・音楽体験記/留学の頃

前回書いた4月下旬のハーバード大学のSpring Arts Festival出演も終わりいよいよセカンド・セメスターも追い込みのファイナルに突入。またまた提出物の仕上げや奨学金の奉仕演奏で寝る暇もない状態に

そんなバタバタしたある日、学校のメールボックスをチェックすると1通の手紙が届いていた。Annという女性に心当たりはないが、確かに僕の名前がフルネームで書かれているので開封してみた。すると・・・・・先日のハーバード大学での演奏を聴いて気に入ってくれたらしく、自分の番組で紹介したい、との事だった。Annはボストンの隣町ケンブリッヂのクィンシーにある放送局WHRBのジャズ制作部門のプロデューサーだった。
ひゃ〜

し、しかし、、、ここで大問題

放送に耐えられるような音質の演奏録音なんてボストンに来てから一つもないよ〜

早速メンバーに相談したらドラムのFumio君がエンジニア科の友達に聞いてみましょう、と言う。数日して紹介されたのがKatsuhiko Naito君。今ではアメリカで売れっ子エンジニアだ。彼と会って相談すると学校のスタジオは24時間フル稼動状態なので無理とわかった。そこでボイルストン・ストリートにある知合いのスタジオを借りる案が出た。楽器はゲイリーから借りているヴィブラフォンがアパートにあるから車さえ何とかなれば移動可能だ。他のメンバーもそれぞれの楽器をスタジオまで運ぶ事は出来ると言う。ファイナル試験が終わればスケジュールも何とかなる。
よし、やろう

セカンド・セメスターも終わりに近い日にハーバードで演奏したバンド3曲とバンジョーの有田純弘氏とヴィブラフォンとバンジョーによるデュオ2曲を深夜のスタジオで録音。
朝までかかって録音が終了し、そのまま学校に戻ってミキシングとダビングをやり、即日にテープをWHRBのAnnのところへ送った。数日後WHRBから放送日時が送られてきた。
ボストンでの初メディアだった。

katsuhiko君とはこれを機にいろいろな所で録音をやる事になった。その中で「アカマツさんがやろうとしている音楽なら、きっとアリマサが合うと思うよ」「アリマサ?誰なの?」「ううん・・今はあんまり学校に来てないけど、僕のハウスメイトだから連絡はすぐに出来るよ」「じゃあ、機会があったら頼むよ」
この時に初めて「アリマサ」という名前を聞いた気がした。

さて、サマーセメスターからは選択科目だけになるので、これまでよりもグッとスケジュールが楽になる予定だ。死に物狂いで怒濤のファイナル攻撃とレコーディングが終わってサマー・セメスターが始まるまでに少し休みが出来た。

元々電車好きでもあるから、しかもボストンに来るのはバークリーに入る事が目的だったので街や周辺の事を何も知らなかったから、この際にボストン・エリアってどーなってるんだろうと探索してみる。

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学校とアパートの往復が殆どだった最初の10ケ月
だからアパートは寝るだけの場所で良かったから窓の外はブロックと鳩が見えるだけ



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コツさえわかれば何処の国でも電車を乗りこなす 
ボストンは長距離はアムトラック、中距離はコミュニティーライン、近距離は地下鉄(MBTA Rapit Transit Line)と鉄道が発達していたので便利だった

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コミュニティーラインの「T」を利用してボストンの北にある魔女刈りで有名なセーラム(Salem)のWitch's Houseの前で。隣はお気に入りだった小さな漁港Rockport。ボストンの周りには欧米独特のミステリアスな史跡がたくさんある

その街のいろんな場所を知ると住んでいるのが楽しくなる。

そう、本当はこの感じで楽しくなるはずだった・・・・・

しかし


ある日の夕方、アパートに帰ってくると、隣の部屋のドアが外して横に置いてあった。大家が来て何か修理でもしているんだろうと思って、自分の部屋でヴィブラフォンの練習をしていた。夜の9時頃になって突然けたたましいノックの音がするので開けると、ナント、ポリスが立っている。

「ハ〜イ」

少し怪訝な顔をしていたら「隣にドロボーが入った。君の部屋は異常ないか」という。「別に何もないよ」と言うと、「君は何時頃に部屋に戻った?」「午後5時頃だ」「その時に何か気が付かなかったか?」「いや、別に、、あ、そうだ、その時に隣のドアが外して横に置いてあった」「それだ!」
ポリスは何事か無線で連絡し「君も気をつけろ」と言い残して立去る。

すぐに隣のイタリア人女性が来た。憔悴しきって可哀相だ。「コーヒーでも飲むか?」と言っても「いらない」と言う。彼女の部屋の中は足の踏み場もないほどに荒らされて、キーボードやCD、オーディオ等全てが持ち去られていた。
慰めてあげても気落ちしたままだ。「今夜はどうする?」と言うと「BFが今迎えにくる」という。BFが迎えに来るまで部屋で待たせてあげた。大切にしていたギターまで盗まれたのが一番のショックだ。

ドロボーめ。。。このところこの近辺のアパートは頻繁にやられている。どうやら入口のマスターキーのコピーを持っているらしいと彼女が言う。中に入ってドアを壊すんじゃなく「外して」入られるのだから3重のポリスロックでも防ぎ様がない。


もう引っ越すしかないな。。


つづく

2006/7/15

セカンド・セメスター・・・・前半  ■新・音楽体験記/留学の頃

いろいろあった「冬休み」も終わり、セカンド・セメスターが始まった。

ファースト・セメスターは要領がわからず、余分な科目がスケジュールされていて戸惑ったが、要領も掴めてテストアウト(飛び級試験)を行ってほぼ必修科目は終了したので選択科目をレジストレーション期間に周りながら選んだ。
上手い具合に授業を固めて週の真ん中には休みが組めた
これで落着いてやりたい事をやれるゾ

と、喜んだのもつかの間、レジストレーション最終日に僕のメールボックスに黄色い紙が入っているのに気が付いた

学校からの「お達し」はいつも黄色い紙なので、、なんだろう?と読んでみると

「貴方は以下の日程で学生の音だしの為の演奏をする義務があります。レジストレーションが終わったら直ちに貴方のスケジュールを事務局まで提出しなさい」

う、うう。。。

奨学金で授業料を免除されている学生は、学校が要求する内外の演奏会や録音、リハーサル・バンドに加わって演奏しなければ奨学金を取り上げられてしまうのだ

これは条件だから従うしかない。事務所にスケジュールを出したら、、

「ハイ、ヨ・ロ・シ・ク」

と水曜日の休みのところに2-4,4-6.6-8と記入された。つまり午後2時から午後8時までアレンジや作曲の授業で学生が書いた作品を演奏する為に部屋で待機していなければならない。。
見事に月〜金は学校の予定で埋まった。。。ふうーっ

っま、それはさておき、セカンド・セメスターは始まった。
開始早々に、自分のリサイタルがある。
ファースト・セメスターでは自分のリサイタルやコンサートは出来なかった(物理的にも前のセメスターの内に申請するわけだから無理)が、これからは解禁だ。

ファースト・セメスターの時にアンサンブルで同じクラスになったベーシスト、スクーリと気が合ったのでバンドに誘った。そして普段からいろいろなところで顔を合わすメンバーが集まってくれて最初のリサイタルとなった。

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Toshihiro Akamatsu/vib Makio/g Masaaki Imaizumi/p & kb Skuli Sverrison/b Fumio Ishizaka/ds @ Berklee Recital Hall 1-A
1987年1月22日(火)午後7時開演

ただでさえ、ボストンに来てからオリジナルを演奏する時間に餓えていたのだから盛り上がったのはいうまでも無い。
バークリーは(当時)学内に2つのリサイタルホールと1つのコンサートホールがあり、リサイタルホールは昼の部・夜の部に分かれていたので一日に最大5つの演奏会がある。

本番よりも大変だったのがリハーサルの部屋取り。2時間単位で30前後のアンサンブル室を夜間貸出すのだが、夜6時の予約は当日の午前7時、夜8時の予約は午前8時、夜10時と深夜0時の予約は午前9時。リーダーになるとメンバーのスケジュールを合わせたら、まずこの朝の予約ラインに並ばなければならない。だから朝に授業があると、このラインに並んだ後で意識モウロヲのまんま受ける事になる。しかもリハーサルルームは学校行事が入ると全部を開放しないから、確実に部屋を取る為には受付時間の1時間前には並ばないとまずい。夜遅くまでセッションやリハーサルをやった翌朝、5時半には起きて学校へ行くわけだ。宿題とかやってたら寝るのが午前3時頃になる。レム睡眠どころではない日々が続いたおかげでかなりタフになった(笑)。

そうこうする内に学外へもお誘いがかかる。
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Kobi Hass/b Nimrod Elissar/ds Toshihiro Akamatsu/vib
@ The Wellow Jazz Club 2/10/87

コビーは近所に住んでいて僕が東京からボストンに連絡を取っていた時に大変お世話になった坂下君の紹介。原則として留学生は仕事をしてはいけない事になっているが、メンバー全員バークリーの学生なので仕事とは位置付けなかった。バートン氏から借りてるヴィブラフォンをコビーの車に積んでウィロウ・ジャズ・クラブへ。本番は満員の観客の9割り近くがイスラエル系の人という不思議な雰囲気。だけど変な日本人のヴァイビストは妙にウケました(笑)
目まぐるしく早いパッセージを弾くと「ウォー」という唸りとも祈りともつかない反応が

学校からも、授業の作品演奏の奉仕(奨学金支給済みによりノーギャラ)の他にボストンの他の学校で演奏する仕事(こちらは少額ながらギャラあり)も、例の「貴方は・・しなければならない」通達で出掛けました。
僕らの少し前にトランペット専攻のArai君のバンドが女子大で演奏して「エライもてた
」と盛り上がっていましたが
僕のバンドが「派遣」されたのは、、、

お堅いですゾ!

何と、ハーバード大学 そこのスプリング・アート・フェスティバルで演奏してきなさい、というもの。
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Spring Arts Festival @ Harvard 4/24/87
この時はワールド・バンジョー・コンテストで優勝したばかりの有田純弘をゲストにリサイタルのメンバーで。有田さんのバンジョーとヴァイブのデュオがウケました。
この時のギャラは145$。しっかりサインしたので覚えてます(笑)。それでも留学生にとっては貴重な財源でした。

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休憩でフードサービス。アイスランド出身のスクーリが真剣に見ている先には・・・にぎり寿司!その後彼は殆どのトロを平らげた

そんな慌ただしい日々が続く頃、住んでいたアパートに異変が!

後半へつづく

2006/7/8

明けてBigAppleのNewYearってこーよ  ■新・音楽体験記/留学の頃

さて、前回“それじゃあBigAppleで大晦日とかどーよ”の続き。

午前0時のnew yearの瞬間、周囲からのHUG攻撃で迎えた1987年。感想も何も、いきなりグワ〜っと抱きしめられるんだから苦しいのなんの、しかもみんな寒い(摂氏零度以下の冷込み)からアルコールも入ってるし、何が何だかわからない
その間、みんな手にしたホルン(角笛のおもちゃ)を吹き鳴らすのだからうるさい。除夜の鐘でゴ〜ンとかいって迎える日本のお正月とは正反対だ。

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再びロックフェラーセンター。ビルの谷間に角笛が高らかに鳴り響く

既に新年を迎えたのでタイムズ・スクエアに向かっていた大群衆は歩みを止めつつある。この大群衆を征する為の規制線が街中に張り巡らされている(しかも歩行の一方通行)ので思うように宿の方向へと進めないから半ば“やけくそ”になってホルンを吹き鳴らしている。ブッブッブ〜、カホッ、カホッ、カホ〜、高層ビルの上からは紙吹雪と紙屑に混じって、どう見ても裁断が面倒だったらしく適当に千切ったオフィスペーパーに加えて、時折ピザらしきものまで降り注いで来る。大騒ぎだ

巨大な植込みポットを歩道の真ん中まで移動した奴がいる。みんなゲラゲラ笑いながらホルンを吹き鳴らす。某有名ハンバーガーショップの広告塔によじ登ってポリスに「早く降りて来い!コラ〜!」とどなられてる奴がいる。みんなゲラゲラ笑いながらまたまたホルンを吹き鳴らす。あるビルの入口には巨大な移動式ゴミ箱が転がっているし、黄色いポリスラインが張られた所には人が転がっている。よく見ると死体だった

そんなこんなで結局午前3時過ぎまで外で大騒ぎし、naoちゃんの親戚のアパートにお邪魔したのは午前4時。一同あっと言う間にゴロンと転がって寝てしまった。

翌朝目が覚めたら午前10時、男性陣は歩きながらホルンを吹き過ぎて頭と耳がモウロヲとしている。別室の女性陣はサッサと着替えて出発準備に余念が無い。さすがである。

かな〜り頭がズキズキしながらも、再びタイムズ・スクエア周辺に出発。新年とは言え、まったく普段通りに店も営業しているのだ。クリスマスの方が「休日」という感覚が強い。

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壁面広告はニューヨークのアート。しかし「うっ、あまり話しかけんでくれ」頭ズキズキ

美術館へ行こうという事になって、タイムズ・スクエアからバスで向かう。バス停を降りてみんなでゾロゾロ歩いていた時だった。
角を曲がれば美術館はもうすぐ。

ちょうどその角を曲がりかけた時、突然誰かが大声で何かをわめいていると思ったら2〜3人の小学生くらいの子供が商店から飛出して僕らの脇を猛スピードで駆け抜けて行った。「うん?」とただならぬ気配に立ちすくしていると、もう一人の子供が商店の店主らしき人と格闘しているではないか
周りにいた通行人は蜘蛛の子を散らすように物陰に身を潜め、ボンヤリしているのは我々だけ。と、商店から他の大人が出て来て子供をボコボコに殴り、羽交い締めにして手に持っていた何かを通行人の一人の方へ蹴った。蹴られた「物」はスルスルと歩道を転がり、その通行人の女性が僕の方を見て「OK?」と言ってる。ナ、ナンダ〜
よくわからないままに突っ立っていると通りの向こう側に身を潜めていた人が「早くソレを貴方が蹴るのよ」と言ってる。電話を掛けていた通行人が大声で「今ポリスが来る」と叫ぶ。
煥発入れずに通行人が僕のところへ蹴ってよこした物。。。。それは拳銃。
そしてそれをもっと先まで蹴ってくれ、というのだ。
恐る恐る転がって来た拳銃を遠くへ蹴った

すぐさまポリスが来て、あの飛出した子供達はギャングである事。その場にいた通行人に「みんなグッド・ジョブだ」と言い残し拳銃を回収しギャングを逮捕して行った。その瞬間から街は何事も無かったかのように日常へと戻る。

その時はあっけらかんとしていたが、少し後になって、あの拳銃の感触が鈍い記憶として残った。
これもアメリカなのだ

美術館を見て5th Aveを散策。
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新年のニューヨーク。街はまったく普段着である

新年をニューヨークで過すnaoちゃんと別れ我々は夕方のペン・ステーションからボストン行きのアムトラックに乗った。

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ボストン〜ニューヨーク間のアムトラック車内。外は雪原で氷の世界を爆走中

車中でこの24時間を振り返ってみた。茶色い高層ビルとマイルス、深夜の大行進と大騒ぎ、紙吹雪きから死体まで転がる光景、拳銃の感触、、、、ううん。。。ニューヨークはボストンとは比べ物にならないくらい全てを飲込んだタフな街。本当に刺激的な年明けとなった。

おしまい

2006/7/1

それじゃぁBigAppleで大晦日とかどーよ  ■新・音楽体験記/留学の頃

今日から7月。夏なのか梅雨なのか釈然としませんが、そんな時に「大晦日」とは、、涼しくていいじゃないですか

さて1986年の「ファースト・セメスター」も地獄の期末試験(Final Examination)で24時間不眠不休の一週間で何とか無事に終った。最終日の金曜の夜は大挙してストレス発散と、ニューベリー・ストリートのタイ料理店「KING & I」になだれ込んで激辛フードで疲れた頭と身体をシビレさせて虚無の心地にワープ(全員満腹でこれ以上“タベラレマセンノスキー”状態)するも、日付けの変る頃には既に意識がモウロヲとしてベッドに直行。そのまま翌日の夕方まで眠りこけてしまった。こんなに寝たのは高校の期末試験以来の事だ。それだけバークリーの怒濤の課題攻撃にまだ身体が順応していなかった。不思議なものでその後のファイナルは元気ハツラツ。
人間環境に順応すると怖いもの無しです

さて、冬休みになると学校は完全閉鎖されてしまう。ヴィブラフォンの練習はアパートで出来るが、セッションやリハーサルは休み明け、つまり来年までおあずけ。
アメリカ人やカナダ人の学生はあっと言う間に故郷へ帰って行く。バークリーに限った事じゃないのでボストン中から学生の姿が消えてしまうのだ。
そうなると街をフラフラしているのは留学生だけ。いつもは賑やかな近くのコープリー・プレイスも勢い老人と子供連れとヘンな留学生だけになって若々しさが無くなる。

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どんよりとした空ばかり続く冬が来た(コープリー・スクエア)

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コープリー・プレイスにはクリスマス・イルミネーション



端的に言って



〜、、




3ケ月間のフル回転から一気に暇になると脳が溶けそうな気がする。たった二週間なのにこのまま何も無かったら死んでしまいそうになる。

このまま廃人で新年を迎えるのも悔しい
そこで発起した。

「こんなところでマタ〜リしてるくらいなら、ニューヨークへ行こうゼ」

階下のKiyo、おっとーのMorimoto、エリオット、お嬢様、ナオチャン、、他「また〜り」していた同期生と連れ立って「ニューヨークで迎えよう新年ツアー」。
一番心配だったこの時期の宿は(もちろんこんな時期になってからシーズンのNYでホテルが取れるわけがない)ナオチャンのNYの親戚のアパートにみんなで朝までゴロ寝で御厄介になる事になった事。どうせ夜中は外にいるんだし。

人間目標が出来ると燃えるものだ。マタ〜リしていた空気が一掃された。

1986年12月31日、早朝に起床し集合場所の地下鉄の駅に向かう

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早朝のボイルストン・ストリートを歩いていると粉雪が降り始めた(ボストン)

ニューヨークへの足は、アムトラック
なぜアムトラックになったかという理由は5月7日のブログにある。

ボストンからニューヨークのアムトラックの旅はこれから何度も続くのだが、やはり初回は特別な気分。もちろんしっかりとウォークマンにはマイルス・デイビスの「カインド・オブ・ブルー」。雪景色の中をひたすら走るアムトラック。海岸縁だったり荒野だったり時々突然街が出現したかと思えば再び荒野を走る。車窓は持って来たパット・メセニーの世界とデイビッド・サンボーンの世界が交互しながら徐々にニューヨークに近づく。


そして

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遂にその姿を見せたマンハッタン島。さっきからウォークマンのカインド・オブ・ブルーはリピートの連続だ。「おお〜」と誰かか呟く。誰も話し掛けないでくれよ、今、一番いいとこなんだから

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茶色に染まる高層ビルが林立するニューヨーク。子供の時にマイルスを聞きながら描いた光景がそこにある
橋の手前からアムトラックは地下に入った

お昼前にマンハッタンの真ん中のペン・ステーションに到着。地下の駅を上がるとそこはセサミストリートの世界だった。ボストンもアメリカの都市だが、やはりニューヨークに比べると地方都市、ニューヨーカーの歩く早さに戸惑いながら散策。
大晦日で慌ただしいのは日本もニューヨークも同じだ。
いろんな店を回り、夜の帳が降りる頃にはロックフェラー・センターに到着。

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ロックフェラーセンターで完全な「おのぼりさん」である(ニューヨーク)

時刻は午後10時。混雑が甚だしくなる。あちこちでホルン(角笛)を売っているので全員で買う。これを吹き鳴らしながら深夜の街を闊歩するのだ。そして、時刻は午後11時30分。人々は大行列を成してタイムズ・スクエアを目指す。ブホ〜、カホ〜、と全員でホルンを吹き鳴らすので賑やかを通り越してうるさい(笑)。
午前0時、ホルンを一層大音量で吹き鳴らす大行列と、高層アパートから紙吹雪やトイレットペーパー、はたまたゴミと思われる紙屑までもがニューヨーク中の空を埋め付くして新年を迎えた。
新年の瞬間にはその場にいる人とキッスとガイドブックにはある。

しかし、この頃はいろんな問題があり習慣が変っていたので皆ハグで終わる。ハグハグハグハグ、、件の事情でやけくそになったハグもあるが、とにかくハグ攻撃である。

つづく



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