・・・「男なんか絶対産まない(阿久津)」・・・
そんな宝町を縄張りとするクロとシロは少年で、他の人々は大人である。クロは「じっちゃ」に心を許し、藤村刑事達にもある意味守られている。「ネズミ」にしたって古き良き宝町を愛するという点では「蛇」の企みを阻んでおり、クロの味方であるとさえ言える。(ちなみにまつえみちゃんによれば原作よりも映画においてのほうが「ネズミ」が味のあるおやじになっているとの事。アリアスは「ネズミ」に大いに感情移入かつ共感しているのであろう。)しかし「蛇」達と宝町の利権を争っている時、クロは子供として大人に対して戦いを挑んでいる事になる。「俺の町」を大人が変えようとするのはいやだというある種子供の縄張り争い的様相も感じられるのだが、それ故尚更クロの必死さやひたむきさが伝わってくるようにこの映画はちゃんと作られている。「精神会」や「蛇」達のやり方は権力行使的であり、要するに暴力的であるが、クロだって鉄パイプで他人を殴りつけるという点で十分暴力的だ。だがクロには優しいシロが付き添っているという点で暴力と優しさが対比される。大人は暴力ばかりだが、子供であるクロとシロは暴力を暴力以外のものによってバランスを取っているという図式だ。この図式は男と女の図式にも受け継がれる。ヤクザの論理、暴力によって他人や世界をどうこうしようとする論理はある意味男の論理だ。STUDIO4℃の田中栄子が『鉄コン筋クリート』の映画化に当たって最も悩んだのが暴力の問題であったという。子供が鉄パイプを振り回して相手を半殺しにするとかヤクザの闘争とかは多くの人を納得させるものではないし、そもそも質の高いエンターテイメント性からはかけ離れている。この作品はクロとシロの図式や木村の恋人である阿久津(唯一の女性キャラ)が子供を身ごもって(そう、子供ね)木村が殺された際に発する「男なんか絶対産まない」という台詞に見られるような、暴力(大人、男)と暴力でないもの(子供、女性)の対比の図式を作品世界にうまく融合させる事によってそうした難問を克服したと言えよう。っつうか克服したのを超えて、よりピュアなメッセージ性さえ獲得したと言えよう。
(C) 松本大洋/小学館、アニプレックス、アスミック・エース、Beyond C・電通、Tokyo MX
・・・「クロにないもの、シロが全部持ってる!(シロ)」・・・
そのピュアネスを体現するのがまさしくシロという存在だ。クロとシロは陰陽のように相反する存在でありながら分かち難く結びついてもいる。だがシロのキャラクター設定もクロ同様一筋縄ではいかないところがある。明らかに少年っぽいクロに対してシロがどことなく中性っぽい、むしろ少女っぽいのは偶然ではあるまい。実際シロの声を担当するのは女優の蒼井優、即ち女性である。クロが示してしまう暴力という男性的要素にバランスを与えるのがシロという女性の声が演じるキャラクターであるという図式。更にまた、本映画の冒頭、後で「イタチ」であったと判明する獣の頭が現れた後にシロがマッチの炎を見つめる場面は原作にはないらしい。「じっちゃ」の声が語る。「火っていうのは妙なもんだ。あんなに静かで穏やかなくせに、中には力と破滅ばかり潜んどる。・・・」と。火がほのめかす力と破滅は先述の暴力的要素であり、クロに通じるものでもあるのだが、クロが殺し屋に襲われて危機に見舞われた時、他ならぬシロが殺し屋に油をかけてマッチで火をつけてクロを助けるのである。この時マッチに火をつけるシロの目つきにはイッちゃってるというか飛んじゃってるというか極めてやばいものがあって、一概にシロを優しいとか言えそうにもないのがこの作品の面白さでもある。銭湯で「じっちゃ」に体を洗ってもらっているシロは頭の足りない子的であり、実際クロは自分の力ではシロを守りきれない事を痛感してシロを藤村刑事達にゆだねる。だがシロの力は不思議な力。インテリながら不感症の沢田はシロによって人間的な感情に目覚めていくし(この点は原作よりも映画においていっそう強調されているらしい)、逆にシロを失ったクロは虚ろになってしまい、より過激な暴力に走る。シロのほうも、元来この子の精神には現実とは異なる色彩豊かな幻想の世界が潜んでおり、映画ではその世界はアリアス監督の実の息子達が描いたという落書き的お絵描きでもって美しく表現されているのだが、クロを失ってからは奇怪で暗い絵ばかりを自閉的に描き続ける事になる。
圧巻は殺し屋とクロとの最後の決戦場面である。現実とも空想とも幻想ともつかぬ映像表現の渦巻きにおいて、危機が迫ったクロのそばに伝説の「イタチ」が唐突に現れる。「イタチ」は殺し屋に勝るとも劣らない非情さと強力さでもって殺し屋をやっつけるのだが、その後クロに闇を見せ、クロを闇の中に取り込もうと誘う。クロと「イタチ」と闇の渦。現実には警察署に保護されて絵を描いている筈のシロは幻想の中で共時的にクロのもう一つの危険をテレパシーのように感知して発作めいた状態になり、沢田を困惑させる。そこへ、闇の中に飛来する白い鳥の映像。「イタチ」はつぶやく。「畜生、シロがいつも邪魔をする」と。「イタチ」は少年達の間で伝説的に語られてきた存在である。その正体は誰も知らない。だがここでクロのように子供の純真な心で平気で暴力を駆使する者にとってはその分身のように現れる事が示唆される。実際「イタチ」はめちゃくちゃかっこいい(笑)。強くて怖くてそれでいて少年らしい華奢さもあり、ささやくような話し声と牛の頭という幻獣(キマイラ)的風貌の効果もあって、あたしは画面に釘付けになるくらい「イタチ」に惚れてしまった。この映画では「イタチ」の凄みあるキャラクター設定の為にフランシス・ベーコンやホルスト・ヤンセンなどのイメージを用いているらしい。実際ある見方からすれば力は美しいというか、少なくとも人を魅了するものである。ロボットみたいな殺し屋を鮮やかにかつ冷酷にやっつけてしまう「イタチ」の力に魅せられない訳はない。だが「イタチ」の闇に身をゆだねるならクロはどうなる?クロは確かに暴力的だが、暴力の行使には純真でひたむきな心がバランスを取っていた。だがそうしたバランスを捨てて力だけに己をゆだねてしまうとしたら?クロの声も「イタチ」の声も俳優の二宮和也が担当しており、「イタチ」の声は意図的にかすれたささやき声を演出していて差別化を図ってはいるが、そもそも二人の声を一人が担当するという事自体に作品上の意味が込められていると思う。即ち、クロとシロがある種の分身同士であるのと全く同様に、クロと「イタチ」もある意味互いに分身なのだ。クロが「イタチ」の示す闇と力の世界に同化してしまうとしても必然性はある事になる。シロに守られていたクロの心が闇の前にむき出しになる。それを阻止するのがもう一人の、いわば逆方向の分身シロである。シロは「イタチ」の闇を払拭し、白い鳥としてクロに優しい光と色をもたらすのだ。
ラストシーンは輝く海辺。シロのカラフルな内的な心象世界はほとばしり、外界の空と海の輝きに呼応する。クロとシロは一緒にいる。もう闇はない、恐らくは。二人が実際に海辺に行ったのか、それとも二人が単にそのように互いの再会を想像しているだけなのかは不明である。現実なのか幻想なのか、或いはその両方なのかどっちでもいいのか。現実でも幻想でもどちらともとれるように映画は作られている。そういう曖昧さが映画の醍醐味でもあるのよね。クロは宝町の変化を止められたのだろうか?結局のところこの作品で結論は示されない。古い世界はいつ新しい世界に取って代わられるのか、誰も確実な事など言えないのだ。
・・・「これは愛、友情、変化についての物語です(アリアス)」・・・
あたしは先述のように原作を読んだ事がない。漫画という二次元的かつ平面的な世界で想像力をふくらませるのはたいそう楽しいだろうし、だからこそ漫画ファンというのも世の中にはいる訳だろう。映画もアニメであるからには二次元なのだが、そこに声が吹き込まれ、音楽が伴い、色彩が与えられると不思議に三次元的ふくらみを獲得するような感覚を持つ。(ちなみにUKのテクノ音楽の重鎮Plaidが音楽を担当している。ラストのテーマソングを歌っているのはあたしの大好きなアジアン・カンフー・ジェネレーション!)高い身体能力を持つクロが空を飛ぶ場面や殺し屋達の疾走場面などの高さの表現やテンポのめくるめく速さなんかはアニメ映画ならではでもあり、アリアスら制作者達のお手柄だ。だがこの作品からは制作者達の謙虚さも伝わってくる。原作の中から少し強調したりした部分はあるにせよ、原作に基本的には忠実で、原作世界を生かそうとする謙虚さだ。小細工も過剰な独創性もそこにはない。恐らくこれは制作者や出演者全員が原作の大ファンばかりであるという幸運な事情によるものだろう。10年を経て映画化された本作だが、原作もアニメ映画も共に日本の漫画史上や映画史上に残る名作として、これからもコアな支持を得ていくのだと思う。今やあたしも支持者の一人だ。良い映画だった。原作もやっぱり読まなくっちゃ。
それにしても何故『鉄コン筋クリート』って題名なのだろう?鉄筋コンクリートではなくて鉄コン筋クリート?互い違いにはめこまれた単語の絡み合いに物語のテーマ(相反するもの同士のバランスの取り合い)を結びつける事も可能ではあるだろう。また、町の骨組みとなるべき鉄筋コンクリートもそういう言い方をする事で有機的に思えてくるし、ひいては宝町の有機的な在り方にも思いが至るけど、そういうのってあんまり語り過ぎると無粋かしら。

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