記事を読んで、ちゃんがグラン・トリノを観に行ったらしい。ちゃんのブログ「夜の診察室」にその感想が書いてあった。で、それにレスしたら、全角1000文字以内で書けと言って来た。えっ、せっかく書いたのに・・・・・だから、ぶえんブログでレスする。
(夜の診察室より)
「アメリカの任侠−映画!グラン・トリノ」
シズさん亡きあとを継ぐサキエばあちゃんは、カナメさんの後継である老ちゃんサネと多分南方えんか立神えすぽあーるに厄介になることであろうが、車椅子を並べあい、うわごとのように勝手に喋りあう。やたら声だけはでかい。
「あんグラントリオちゅう映画をきぬ観だいさぁ」
「ああ、ジャックニコルソンが品が好がったいのお」
「あらだろがよ、マッキーンぼ、スティーヴマッキン」
「よぉ、そいよ、アメリカの反省だっとよあん映画ぁ」
「救われんちこっだっど」
「あ〜ら、そんた鮫ん肝臓」
「キャンディーズんスーちゃんに似っどらえなぁ、タロがあねさんな」
「よぉ、♪隣の〜スーちゃん酋長のむすめ〜」
二人、ケアマネージャーに向かって、指鉄砲で ^^
「パン、パン、バーン、ズキューン!」
下のURLのヒラカワ店主は感想の中で、そのまま抜粋すると、
「そうではない。希望や救いというものの応答が無い、偶然と宿命が支配する世界に私たちが生きているということを承認しなければならないと言っているように思える。」と、述べている。
その通りだ!キリスト教をはじめすべての救い主宗教(メシア、キリスト、ムハンマド、、、)の不具合はそこにあるのである。
古事記を読め、日本書紀を見よと言われるのはそこである。
「この世は人に任された、人によってしろしめせ」と生命の太陽あまてらすおほみかみは、我々を送り出したのである。その鏡うつしとしての
すめらみこと(総使命)がある。
「銃もメシアも救っちゃあくれねぇのさ、ほら、タオとスーを守りゃ、ワルがきどもを救えねえだろぉ。だから、てめぇらは救えねえ野郎どもだと言ったのさ」(オレが死んでやんなきゃなってことよ)
クリント・イーストウッドはキリスト〜USAを背負って、世界に向けてそう言っているのだと、あだや思もす。
つまるところ、自分自身を殺すのが至善「メシア」となる。
それが、たとえば、「原罪の、人生の意味」である。しかし、理屈っぽくなるが、メシアは人間の領分ではないときている。どないしまんねんな!
サキエばあちゃんが紹介している下のURLの文章を、ぜひ「グラントリノ」を観たよがにせよがおごじょに読んでもろもんそぉ。
「そうではない。希望や救いというものの応答が無い、偶然と宿命が支配する世界に私たちが生きているということを承認しなければならないと言っているように思える。」
そのことを解決するためにやまとことばを継ぐ日本人というものがあるのだ。
(引用終わり)
あーら、おじさんな映画を見だぎいにゃ血圧っが上がってこらぁー、どもをしとらせんけぇー。かねっと違ごじ、気合を入れっ、記事を書っこらぁー。記事も鳴かずば撃たれまい。
メシァ食もれゃ無ぁごんなっと。重も食もれゃ無ぁごんなっと。アダムとイヴは原罪のかぁいに自由を手に入れだっじょー。
(以下、「ハンドルを手放せ」より)
道教において宇宙の始まりは一つの「気」でした。(中略)さて、その「気」のことをタオと言います。つまり宇宙が始まる前のことをタオと言うのです。一なる気が分裂して陰と陽が生まれました。陰と陽が混じり合って物質が誕生しました。これらは全てタオが創造したのです。
では、宇宙を創造した後、タオは何をしているのでしょうか。天国や時空の彼方にいて、この世界を見下ろしているのでしょうか? 高いところから見下ろしていて、三次元の私たちを採点しているのでしょうか?
違います。タオは私たちの内部にあって、生きとし生けるもの全ての生命サイクルを助けています。いつも私たちと一緒にいます。(中略)
でも、タオはいつも一緒にいるのに、どうして天変地異などが起きるのでしょうか? どうして悪人がいて、凶悪な犯罪が起きるのでしょうか? それによって殺される人が出るのでしょうか? どうして病気で死ぬ人がいるのでしょうか? タオの力はそこまで及ばないのでしょうか? 見下ろしている神なら理解できます。できの悪い私たちに試練を与えていると考えればよいのですから・・・・・
道教ではなんと、この答えは・・・・・
タオが完全だからこそ、世の中に悪がはびこる余地があるのです。
ふーう・・・・・、すごい・・・・・
もしもタオによって管理されていたらどうでしょうか? 私たちに自由がない代わりに、悪も、災害もなくなります。完全だからこそ、陰と陽の両方があるのです。完全だから、一般的に悪と言われるものが存在するのです。
では、完全とは何ですかと聞くと・・・・・
それは名前を持たない状態だそうです。言葉で説明できる限り、それは完全ではないのだそうです。部分を取り出すから言葉で解釈され、悪として取り扱われるのです。
車輪の真ん中は、軸を通すための空白があります。器の真ん中は空白です。その空白がなければ車輪は回転しないし、器に盛ることもできません。タオとはこの空白のことです。その空白を言葉でどう説明するのでしょうか? 空白から覗けば向こう側が見えるだけです。何も無い空間です。世界の最初は何も無かったのです。もしも何かがあれば、何も創造されなかったのです。
さて、私は思いました。私たちはないものをめざしているのでしょうか、あるものをめざしているのでしょうか? 力をつけようとし、誉められようとし、感謝されようとし、自己の存在を残そうとし、成長しようとし、徳を積もうとし・・・・・私たちはあるものになろうとします。
私の知る限り、道教には愛という言葉に相当するものがないと思われます。ひょっとすると愛は「ある」世界なのかもしれません。ないものをめざした時、愛という言葉すら意識しなくなるのではないでしょうか。その時、人は本当に愛の世界に入れるような気がしてなりません。
(引用終わり)
愛があっで、憎しみもあっとよそらぁー。
ま、この辺のこっづわがって「よがちよブギ」を聞けば、まーだすんくじらのよさがひとしお分がったっどんねぇー・・・・・ち、そんなわけ、ねーだろっ! てげてげ作っとんもんにぃ!
レスがながったで、一人せ長ながっーと書っくれだど。きや、ミスティック・リバーを借ってきたで、暇んとっ、見らんなら。

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