小泉・安倍政権の陰謀 この国は戦争国家アメリカを目指している。
安倍政権の発足以来、国民の自由と財産、生活に関わる法律案が多数提出され、問題のある法案のほとんどが強行採決されている。市民生活に大きく関わり、今後の政治活動、情報収集活動、冤罪事件支援活動その他もろもろの一般市民による活動を大きく阻害する刑事訴訟法の改悪が小泉政権下の平成16年に行われたが、更なる改悪が、つい先日、安倍政権の手によって成立した。
刑事訴訟法の改悪について、6月24日のサンデープロジェクトで大谷氏がルポしていたが、久しぶりに良いルポであったと思う。同日、番組は、政権側のプロパガンダに徹し、野党代表の小沢氏には「対抗策は何か?」という政権側の反論を突きつける司会者に、とんだ政府広報活動だなと辟易したものだ。しかし、その後の大谷氏のルポには久しぶりにジャーナリスト精神を感じた。ともすれば人気取りのような発言を繰り返す似非ジャーナリスト、タレントコメンテーターばかりの中で、時折見せるジャーナリスト精神に期待している。今後もこのような活動を行って欲しいと願っている。少なくとも、この問題点の提示には、その限りにおいて、意味があったように思われる。
(もっとも、私は大谷氏をジャーナリストとしてそれなりに評価しているが、ワイドショーに出て台本読みのようなコメントをするのはやめて欲しいと常々思っている。このルポについてもひとつ苦言を呈すると、このルポと報道は、小泉政権下の刑事訴訟法改悪の時期にすべきであったのは明らかではないのか。ジャーナリスト面したマスコミは、いつも終わった後に騒ぎたてる素振りを見せ、政権与党は沈黙するばかりである。これでは初めから相互の役割分担がなされているようにしか思えない。ジャーナリスト精神を失ったマスコミには、なぜ後の祭り報道しかできないのか?本当に愚かしい行為だ。そろそろジャーナリスト然とした小手先芸はやめたらにしたらどうか?巧妙に他の情報の信憑性をほのめかす役割にすぎないとしたら、それだけで、このルポの意味はない。とんだ茶番である。)
小泉政権下の刑事訴訟法改正により、刑事訴訟手続き上に現れた証拠の利用・検証作業に大きな法的規制が加えられる可能性があるという。ところで、ここで、可能性ならばよいではないかという議論が必ずある。為政者は常に可能性があってもそんなことはしないと弁明する。しかし、国民の自由そのものに直結する刑事手続き上の問題であることからすれば、可能性そのものが排除されなければならないのである。なぜ、可能性を残すこと自体が問題となるのか、簡単に言えば、「可能性がある」ということは、可罰的行為の範囲が権力者の恣意的判断によって左右されることを意味するからだ。実体法上の法文が明確であっても、その手続法において恣意的な運用が可能であるとすると、実質上罪刑法定主義の潜脱を許すこととなるからである。
(1)罪刑法定主義の重要性と歴史について
私たち一般市民が市民生活を送る上で、国家が権力を発動する最も強烈な場面は検察による公訴権の行使であり刑事罰の執行である。犯罪を犯した者に刑罰が科されるのは当然だと誰しも考える。しかし、それも公正な捜査がなされ、真の犯罪者に対して行使されるのであれば、という大前提があっての話である。
ある日、突然、何の前触れもなく権力により愛する人が拘束されたとしたらどうだろう?昨日まで何の罪にも問われなかった行為が、ある日突然、違法とされたらどうだろう?刑事罰となる認識すらなく、悪意もなき行為に突然公権力が行使されたらどうだろうか?歴史的に明白なことは、絶対的権力を有する国王や独裁者が、その絶対的権力を維持し、自らの保身と独善性を担保するために行使するのが、これらの刑事罰を伴う公権力なのである。何らかの縛りがなければ、権力なき一般市民はたまったものではない。
こうした公権力の不当な行使をできる限り抑制するために罪刑法定主義がある。
ここに罪刑法定主義とは、権力がどのような行為を違法とし、どのような刑罰を科すかを前もって明確に示すことにより、権力による恣意的な市民の拘束、恣意的な市民の自由の剥奪行為を防止するという法の大原則を言う。罪刑法定主義の歴史は古く、憲法の歴史とともに始まる。イギリスのジョン王が貴族の要求により発した許可状であるマグナカルタ(西暦1215年:大憲章とも言われる)が憲法の始まりと言われているが、そこにも罪刑法定主義が明白に謳われている。マグナカルタは、権力者である国王による突然の課税措置並びに兵役義務を課す行為に反対した貴族の要求のもとに、国王も「法の下にある」という原則を確立した約束文書である。もともとは貴族と国王との封建的主従関係を律する文書であったために、協会と貴族の特権についての約束事が主要事項であるが、そこには、罰金や非合法的な逮捕の禁止、適正な裁判、行政の実施、都市特権の尊重、商人の保護など広範な階層の要求が盛り込まれている。ちなみに、後の憲法やアメリカ独立戦争の思想的柱ともなった理由はここにある。
この罪刑法定主義は、一般に実体法の刑法をみればわかるが、どのような行為がどれだけの罪になるのかが確かに明確に定められている。しかし、実体法は最終的な違法性、量刑の判断の場、つまり司法の場、裁判において適用の可否が判断されるにすぎない。ところが、実際に私たちの自由や平穏な生活が破られる場面は、警察による捜査に始まるのである。実体法である刑法それ自体よりも手続法こそが重要な意味を持つと言われる理由はここにある。どのような捜査を行って犯罪者を見つけ出し、これを拘束し、どのように取り調べ、証拠を収集するか・・・これら一連の捜査段階においてこそ、私たちの自由な市民生活の平穏が破られるのだ。これらのプロセス、刑事訴訟法にはそれらのほとんど全てが決められているのである。罪刑法定主義は、その捜査段階においてこそ貫徹されなければならない。それゆえ、わが国憲法上、アメリカ法の流れを汲むデュープロセス(適正手続)が謳われている。
小泉政権下の平成16年の刑事訴訟法改悪により、被告人及び弁護人は、開示された証拠すべてについて、「当該被告事件の裁判のための審理」準備以外の目的で使用してはならないこととなった。これに反すると、刑事罰も科せられるのであるから(刑事訴訟法281条の5)、ことは限りなく重大である。
刑事訴訟法の該当部分を掲示する。ざっと読んで欲しい。
第二百八十一条の四 被告人若しくは弁護人(第四百四十条に規定する弁護人を含む。)又はこれらであつた者は、検察官において被告事件の審理の準備のために閲覧又は謄写の機会を与えた証拠に係る複製等を、次に掲げる手続又はその準備に使用する目的以外の目的で、人に交付し、又は提示し、若しくは電気通信回線を通じて提供してはならない。
一 当該被告事件の審理その他の当該被告事件に係る裁判のための審理(注:裁判での利用)
二 当該被告事件に関する次に掲げる手続
イ 第一編第十六章の規定による費用の補償の手続(注:無罪確定の際の補償における証拠の利用)
ロ 第三百四十九条第一項の請求があつた場合の手続(注:検察官による刑の執行猶予取消請求の際の利用)
ハ 第三百五十条の請求があつた場合の手続(注:刑の認定)
ニ 上訴権回復の請求の手続
ホ 再審の請求の手続
ヘ 非常上告の手続
ト 第五百条第一項の申立ての手続
チ 第五百二条の申立ての手続
リ 刑事補償法 の規定による補償の請求の手続
○2 前項の規定に違反した場合の措置については、被告人の防御権を踏まえ、複製等の内容、行為の目的及び態様、関係人の名誉、その私生活又は業務の平穏を害されているかどうか、当該複製等に係る証拠が公判期日において取り調べられたものであるかどうか、その取調べの方法その他の事情を考慮するものとする。
第二百八十一条の五 被告人又は被告人であつた者が、検察官において被告事件の審理の準備のために閲覧又は謄写の機会を与えた証拠に係る複製等を、前条第一項各号に掲げる手続又はその準備に使用する目的以外の目的で、人に交付し、又は提示し、若しくは電気通信回線を通じて提供したときは、一年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。
○2 弁護人(第四百四十条に規定する弁護人を含む。以下この項において同じ。)又は弁護人であつた者が、検察官において被告事件の審理の準備のために閲覧又は謄写の機会を与えた証拠に係る複製等を、対価として財産上の利益その他の利益を得る目的で、人に交付し、又は提示し、若しくは電気通信回線を通じて提供したときも、前項と同様とする。
(2)刑事訴訟法の改悪が、具体的には何をもたらすか?
弁論活動のために、弁護団が法廷以外のあらゆる場面において、たとえば冤罪事件の訴える記者会見会場や集会において、問題となる証拠を開示すること自体が規制される。弁護団の趣旨に賛同し、証拠をブログなどで提示すれば、これまた刑事訴訟法281条の5に該当し、処罰される可能性が生ずる。(繰り返すが、可能性があること自体が問題なのである。)被害者あるいは被疑者もしくはその支援者が、真犯人を探すとか、証拠を検証するとか、自白に基づく証拠の発見・保全のために提出された証拠を利用するなどの行為も、これに該当してしまう。つまり、一旦お上に提出した証拠は、一切合財利用できない可能性が生じる。
なんという恐ろしい法律であろうか。
検察側と弁護側の攻撃防御という当事者主義の訴訟構造を採りながら、弁護側に著しく不利な法律なのだ。簡単に言えば、弁護団による法廷外の弁護活動が著しく制約されてしまうのである。考えても見てほしい。刑事裁判においては、強大な権力と組織を有する国家権力(検察側)と、証拠の収集能力に著しく劣る弁護側との戦いなのである。証拠の裁判外利用が著しく制約されてしまえば、弁護側の諸活動はほとんどできないに等しくなってしまう。たとえて言えば、そこら辺で拾った棒きれを手にした子供数人(弁護側)と、拳銃や大砲まで手にした膨大な兵を擁する軍隊と戦争をするようなものなのだ。この場合、弁護側は大きな武器(証拠)を集めて効率的に戦うほかない。しかし、その証拠収集は支援活動があってこそであり、相手の武器が張りぼてであることの立証も、支援活動のために現在する証拠の開示があってこそなされうるのである。証拠が利用できなければ、弁護側にほとんど勝ち目はないこととなる。
(3)正視すべき小泉・安倍政権からのメッセージ
この改正に、私は「国家権力に逆らうな!」という強いメッセージを読む。それ以外に何があるのか。
私はこのように強権的な内閣を知らない。小泉・安倍首相の頭には、国民があっての国家ではなく、まず国家がある。国家の行為=正当な行為と考えているふしがある。国家行為性善説とでもいう信念を感じる。国家の行為は正しい。国民はそれに従え。という強い意志を感じるのである。
小泉首相は「(貧乏人は)痛みに耐えろ!」と言った。安倍首相は「国家の行為は正しい。国民は黙れ!」というメッセージを行動で示している。
私はこのように強権的な内閣を知らない。知っているのは歴史上過去ににおいて、そうした政治と言論活動が行われていたという事実だけだ。
これほどまでに政権に擦り寄るマスコミを知らない。知っているのは、歴史上、マスコミが戦争を煽ったという事実だけである。
今、私たちは歴史の渦中にいる。政権はますます強権的になり、マスコミはまたぞろ大政翼賛会的な愚を犯している。
今なら何とかできるのではないか。そして、何とかしなければならないのは、歴史を生きる私たちの責任ではないか。
いったい、私たちの生きるこの時代に、小泉・竹中・安倍政権が何をして来たのか、今、何をしようとしているのか?
歴然とした世論操作を行い(やらせタウンミーティング、偏向した委員による政府諮問委員会設置、マスコミ弾圧・操作等)、
郵便貯金を始めとする国民の財産をアメリカ資本に譲り渡す準備を着々と推し進め(郵政民営化、道路公団解体、社保庁改革法案)、
来るべき中国共産主義体制の崩壊に備えて軍事的制約を解除し(在日米軍再編特措法案、集団的自衛権を可能とする憲法解釈研究、憲法改正手続法、憲法改正の論点化)、
これに反する活動を行うものは根こそぎ拘束できる法体制を整備し(共謀罪、個人情報保護法・主務大臣開示請求権、刑事訴訟法改正)、
あるいは国民生活の隅々まで公権力の行使を可能とする法整備を行い(学校教育法、地方教育行政法、教員免許法の改正、少年法改正)、
あらゆる市民活動に制約を課し(刑事訴訟法改正、個人情報保護法)、
挙句の果てには自らの資金の調達については国民の監視が及ばないようにした(政治資金改正ザル法案)。
参議院選挙が近い。マスコミはさまざまな情報操作をする。極めて巧妙に情報を操作する。私たちはそうした浮かれた情報に目をつぶる必要がある。権力に擦り寄るコメンテーターの発言に耳を傾けてはいけない。
マスコミと似非ジャーナリストに騙されてはいけない。この政権は常にアメリカに追従してきた。強者優遇の格差社会を模倣し、次には戦争国家アメリカを目指している。情報を共有し、流れを変えるのは、一市民の集まりである私たちひとりひとりのブロガーしかいない。

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