いまから50年ほど前、当時東京大学教授の城戸又一さんは「現代人としての教師−だまされることは、だますことになる−」(『教育技術』小学館、1953.9)の中で、こう書いています。
〈…世のなかの出来事にたいして鋭敏な神経と感覚をもつことは教師にとって欠くべからざる重要な資格である。自分で、ものを見、自分で考え、自分で判断することは骨の折れる仕事である。自分で考えずに、他人の考えたとおりに考え、他人に教えられたとおりに教えるのならば骨は折れない。しかし、教師である以上、自分の教えたことについては責任をもつことが要求される。自分で責任のもてないことは、人に教えるべきではあるまい。そうすると自分で考え、自分で判断することが、どうしても必要になってくる。
ちかごろまた世のなかが少しずつおかしくなってきたようである。教師は、自分で考え、自分で判断するよりも、他から考えかたを指導され、一定の判断をおしつけられる危険性が出てきているような気配がある。
このような時代には、よほど神経を緊張させて、しっかりとつかんでいないと、また教師が、まんまと利用されることにもなりかねない。時の流れに乗ることはやさしいが、押し流されてしまっては何にもならないのである。
現代に生きるということは、それだけでも生やさいいことではないが、とくに教師として、その任務を果すということは、考えてみると実にたいへんなことであるということが、しみじみと観じられる。
人をだますよりは、だまされる人間になったほうがいい、というようなことがよくいわれるが、教師は、もちろん人をだますような人間であってはならないにきまっている。しかし、だまされる人間であってもなるまい。だまされた教師は、それと気づかずに、人をだますことになる。人に教える立場にある教師は真実でないことを、だまされて、真実と思いこんだならば、それを他人にそのとおり教えるにちがいあるまい。その結果教師がだまされれば、その被害は、教師個人にとどまらなくなる。個人がだまされるのは、不敏不徳のいたすところとして、あきらめるよりしかたがないが、教師のばあいには、その影響するところが大きい。それにたいしては責任の負いようはないのである。そうしてみると、教師は、どんな時にも、人にだまされないだけの用意がなければならない。時流に乗ることによって得々としてはいられないのである。
人間としての自覚から再出発した教師は、現代人としての生き方を考えなければならなくなっている。そして、どんなときにも大切なことは、歴史の流れを正確に見きわめ、人類の進歩の方向と、退歩の方向とを見あやまらないことである。こんにち、私たちを取り巻く周囲の環境は、ともすれば時代に逆行し、奇妙な現象が、まことしやかな仮面をかぶって、つぎつぎに現れてきているようである。物事の真相と、その奥底にあるものをするどく見抜く感覚と、叡智が、現代の教師にとっては、ますます切実に要請されてきている。その要請にこたえうるだけの用意を、私たちは怠ってはならないのだと思う。〉
今井康雄さん(『メディアの教育学「教育」の再定義のために』東京大学出版会、2004、pp.49-50)によると、
〈…戦後改革のナショナリスティックな修正〉〈は、特に日本が主権を回復した1952年以降,保守的陣営によって粘り強く推進された.文部大臣たちは教育基本法の「不十分」や教育勅語の「普遍的な妥当性」を主張した(1956,58,60年).〉〈若干の教師や教科書の「左翼偏向」に対する政治的キャンペーンが世間の耳目を集めた(1953、55年).文部省はその学習指導要領を,もはや専門知識に基づく提案としてではなく,行政命令的な拘束力を持ったものとして通用させるようになった(1955年).教科書検定が強化され,単なる形式的な通用性だけではなく、教科書の内容をも統制することが試みられた(1956年).〉

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