現職教員の教育社会学研究  教育社会学

 石川県の小西先生とは、同い年ということもあって、一緒にがんばりましょう、とよく飲みながら気炎を上げていたところ、この4月から富山の短大の講師になったんだそうだ。
 神奈川県の吉田先生とは、2回ほどお話ししたことはあって、教社研にも論文を載せて、中央大学の非常勤もされているらしいというのは、学会プログラムでお見かけしてわかったことだが、こんなところでも偶然発見した。幅広くご活躍のご様子。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-6f0e.html
http://www8.cao.go.jp/youth/suisin/shien/pdf/kanagawa.pdf
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=%E5%90%89%E7%94%B0%E7%BE%8E%E7%A9%82%20%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D&source=web&cd=6&ved=0CFsQFjAF&url=http%3A%2F%2Fwww.kantei.go.jp%2Fjp%2Fsingi%2Fkoyoutaiwa%2Fwakamono%2Fdai2%2Fsiryou2-1.pdf&ei=-9CnT5vgPMXYmAWYurnhBA&usg=AFQjCNH3sfr9ooRJ7_6a-1iof1CcerY60g
http://www.nier.go.jp/shido/centerhp/21%20koukou.career/P1-P16.pdf

 ともあれ、現役教員にとっての教育社会学は、視野を広げる可能性を示してくれるが、それが可能となるのは、10年20年と務めていろんな蓄積ができた後のことなのかな、と思う。
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タテ社会というよくできたシステム  世の中のはなし

 タテ社会というのはどうも苦手なので、近づかないように生きてきた。
 外から観察して思うのは、タテ社会というのは見事なしくみだと思う。
 先輩が後輩に偉そうに振る舞い、後輩が先輩の立場になると、手のひらを返したように先輩がしてきたように立ち振る舞う。
 任侠の世界もそうだと聞く。年功序列の職場もそうだ。年金のしくみだってそうではないか。
 若いころに、年長者からの理不尽な要求に耐えて、将来に貸しを作り、年をとってから若い世代からその分を回収するしくみなのだから、当然、自分の代で回収できなくなることがいちばん困る。だから組織内部から改革のインセンティブが働かないのは、当然のことだ。また、そういう振る舞いをしない人の存在は、こういう組織の内部では厄介者になるし、上の世代だけではなく、自分の将来の回収を妨げる存在として、実は若い世代からも脅威に感じられているのかもしれない。
 日本社会の隅々にまで浸透したこのシステム、利害でがっちり固まっているだけに、そう簡単に変わることはあるまい。
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2012年度  学校のはなし

 今年度は、生徒会顧問に13年ぶりに復帰した。ずいぶんと学校の制度も生徒の状況も変わっていて、あのときと同じようにはできないので、気分を一新して、職務に励もうと思う次第。あのころは毎晩日付が変わってから帰宅するような生活であり、それはそれでいい思い出ではあるが、あれは若かったからできたのだと思う。
 授業については、初めて中学1年生の歴史を担当することになった(2時間×5クラス)。中1担当の先生からは口々に、「授業というより、しつけやで」と言われている。そうだろうなぁ、と思う。まさに「学校の社会化機能」全開なわけだ。
 これに加えて、中学3年生の公民を週1時間×5クラス、高校2年生の政治経済を週2時間×1クラス。丸一日の休みをとるのは、なかなか難しい時間割になった。
 さらに、夕方から某大学で教育社会学を週1コマ。
 研究会が2つ。もちろん自分の研究は進めないといけない。
 まぁ、なるようになるでしょう。
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メモ:高校教育に関する「希少性」問題  私立中学・高等学校について

 経済学の教科書のいちばん最初には、たいていこんな説明がある。
 経済活動とは、人々の無限の欲求に対して、それを満たすための資源が有限であるという「希少性」の問題に始まる。それゆえに、何をどれだけ生産し、誰に分配するかを決定するという問題が生じる。これを計画的に行うか、市場に委ねるか、という、大きく2つの選択肢がある。
 「教育の経済学」というと、人的資本論に始まり、期待収益率だとか、費用便益だとか、そんなことが頭に思い浮かぶ。しかし、「誰がその高校に進学するか」「誰がどの大学に進学するか」という問題、そしてその裏返しともいえる「どの学校がどのような生徒を集めるか」という問題は、十分に経済問題である。そしてその費用をどのように負担するかは、厚生経済の問題とはならないか。
 東京大学に入りたい人は、10000人いる。潜在的な需要を考えれば、その数はさらに増えるだろう。同じく京都大学に入りたい人も、10000人いて、潜在的需要はさらに多い。この希少な「東大合格者」「京大合格者」がどのように分配されるか、誰に分配されるか、それが「高校の大学合格実績」という数字を介して表現される。すなわち「誰に」という問題は、個人の属性ではなく、学校の属性として、広く議論される。
 その一方で、多くの大学は定員割れを起こしているのだから、ここに「大学進学希望者」と「大学入学定員」との間で、ミスマッチが起きているということを意味している。このミスマッチをどのように調整するか、計画的に行うか、市場に委ねるか、と考えたとき、定員割り当てという計画的調整と、受験生の獲得という市場的調整とが共存しているといえるのではないか。
 同様に、高校においてもそれは同じことで、一部の人気校には受験生が殺到し、その一方で定員確保ができない高校もある。少子化が進む中、高校教育をどう供給し分配するかは、定員政策という計画的調整と、各校の受験生獲得競争という市場的調整とが共存しているように思われる。
 さらに、その費用をどのように負担するかというとき、「家計の負担」と「税による負担」とをどう組み合わせるかということになろう。
 こういうことをつらつら考えているのは、昨日あちこちで京大合格者数の速報値が報じられたからである。「公立高校の躍進」「堀川の奇跡」の大見出しが目に飛び込んでくる。
 3000人という京大合格者が、入試の成績によって選抜される。その結果は、各個人の属性によって公表されるのではなく、出身校の合格実績として反映される。東大や京大の合格者の家計は、高い階層の出身者が占めているということは、以前から指摘されているが、そうであるならば、私立高校に通うことが可能な資力を備えた家計の子弟が公立高校に進むことで、本来公立高校に通うべき生徒をクラウディングアウトしていることにはならないか。
 ただし、1960年代の東京都のように、公立高校に行けない生徒が、(成績が悪いという自己責任の問題として)高い学費負担をして私立に行くか、進学をあきらめるかという選択を迫られることには直結しないだろう。授業料に限っては、私立高校への授業料無償化政策の拡充によってクリアされる。ただしそれが「公立高校に合格する努力をしなかったり、勝手に私立を選んだ生徒に、なぜ授業料を支援するのか」「私立を公立の受け皿にするのか」「公立を閉鎖する口実にするのか」という批判につながっているのも、また現実である。
 公立高校と私立高校の学費の問題を、「公立高校生1人あたり100万円、私立高校生1人あたり35万円(大阪や京都では50万円ほどになるらしい)の戻し税」と考えればどうなるか。エコカー減税を実施して、減税対象車を買うか、それとも対象外の車を買うか、という選択を消費者に迫ることと、公立に行くか私立に行くかという選択を家庭に迫ることとは、どう違うのだろうか。
 あるいは、学費負担問題についていえば、「ぜいたくな市立病院をつくって、成績順に診察する」と言って、許されるかどうか。「ぜいたくな市営住宅をつくって、成績順に入居できる」と言って、許されるかどうか。しかし「ぜいたくな市立高校をつくって、成績順に入学できる」というときには、なぜ許されるのかどうか。公立病院の役割や、公営住宅の役割と、公立高校の社会的な役割とは、同じのか、違うのか。違うとすれば、それはなぜか。
 この学費負担問題、とりわけ、県外に出ていく生徒のために公金支出をすることの是非は、かつては「出世して故郷に錦を飾ってくれるための先行投資」として正当化されていた。しかし、今ではその議論が成り立つかどうか。限られた県や市の教育財政をどこに振り分けるかは、政治の問題であるが、おそらくは名門校復活のための教員加配の方が、しんどい学校に教員を加配することよりも、見栄えがするからだろうか。政財界の有力者に卒業生が多いからだろうか。
 ある試算によれば、公立中高一貫校の生徒1人あたりにかかる費用は、300万円近くになるのだという。普通の高校生の3倍近い。その費用を、公立中高一貫校あるいは進学重点校に投じるか、しんどい地域のしんどい学校に充てるか、普通の公立校を少しずつ底上げするか、それはきわめて政治的判断の範疇に属する問題である。
 さて、公立高校の中に進学重点校を設けるというのは、全国的にみられる傾向なので、それはさておき、それが「高校への需要が高校への供給を下回る」局面において行われていることが気にかかる。
 需要を増やすことは、留学生からを受け入れない限りは無理なので、供給側の調整を行うしかない。今はいちおう、公私間の定員調整の協議会があるが、公私の役割分担という面での実りある議論はなされていないと聞く。また、定員調整については談合との批判が根強い。その上で大阪府が行おうとしているのは、この市場型調整を強化しようということなのだろう。
 一部の私立高校が、県外からの生徒を集めようとするのも、そのための手段として、スポーツをはじめとしたクラブ活動がある。日本のスポーツ界は、地域クラブにではなく学校スポーツに依存してきており、学校の教員がスポーツの世界の人材の受け皿ともなっていることもあり、それが可能となる。
 中学校を開設し、早いうちから生徒を確保しようとするのも、中学校という新規マーケットの開拓のためである。高校と設備は共用でき、現職教員も中高の両方の免許を持っていることが多いので、イニシャルコストは低い。遊休施設や人員の活用という点でも有効である。ただしその結果、大都市圏の一部では小学校の受験が問題となっているらしいし、中高6年一貫校が増えてきたことで、そうでないところとの2つのトラックの差が徐々に顕著に見え始めたようにも思われる。
 あるいは公立高校にはできない教育を模索する。今、一部の私立高校で、アイビーリーグやオックスブリッジへの進学を謳い始めたところがある。かつて、公立高校ができなかった、海外への修学旅行や短期語学研修留学では、もはや公立高校との差異化ができないからである。一部の富裕層の子弟を囲い込むというのは、これも公立高校との差異化のひとつである。
 もっとも、日本の高校教員養成システム、あるいは日本の高校教員文化が、慶応や同志社などの一部の私学を除いて、きわめて帝国大学からのスピンアウト的な構造を備えており、高校教員には「家はそれほど裕福ではなく、勉強が好きで、大学には残らなかったものの・・・」という人が多かったし、今でもその名残は留めている。そのため、一部の富裕層を相手にしたエリート教育といってみても、教員の中にそのような文化がないので、きわめて難しいのである。
 結局、公立高校の役割は何なのか、というところに尽きる。かつてのような、高校が足りなかった時代、あるいは東大に進学して故郷に錦を飾るような時代では、もはやなくなった。しかし、新たな公立高校像が描かれないまま、そして公立高校像がないことによって私立高校像もぼやけたまま、粛々と「調整」は進んでいく。それが「計画的調整」なのか「市場型調整」なのか、はっきりしない。そんなわけだから、高校の中に身を置く者として、漠然とした不安にいつまでも追い立てられなければならないのである。
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「選抜の公平性」とは何か?  教育社会学

 毎回、マラソンのオリンピック派遣選手の選考については一波乱あるが、そもそも3人を選ぶのに4回のレースをする上に、過去の実績だとかを「総合的に判断して」選ぶから、よくわからないことになる。
 東大入試を4回実施して、「総合的に判断」するようなものだ。

 もっとも、東大入試が一発勝負なことが公平かどうかはわからない。センター試験に失敗したらそれまででし、後期入試の門戸はきわめて狭い。それよりは1年間の成績から「総合的に判断」した方が、いい学生を選べるかもしれない。
 しかし、それでも私たちは「入試は一発勝負」というのが、どこかにある。敗者復活を設けると、どんどん制度が複雑になっていって、結局、公平性の基準がわからなくなることを、経験的に知っているからだ。この一発勝負を公平だと受け入れる土壌が、学校生活の中で叩き込まれて形成されてきたわけだから、陸連のマラソンの選考過程が公平に見えないのは、当然といえば当然のことであるかもしれない。
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「新聞記事ノート」から  教育のはなし

 今年度最後の「新聞記事ノート」のチェックをして、いつものようにおもしろい記事・レポートはコピーして廊下に掲示した。こちらも勉強になるし、手間はかかるがやっていて楽しい授業実践である。
 教育に関係するものとして、いくつかあったので、メモ代わりに。

「大阪府条例案「不人気校切り捨て」」(京都新聞2月24日)
 大阪府の府立学校条例案に、3年連続定員割れした学校を再編整備の対象とする条文が盛り込まれたことについて、教育関係者から「不人気校の切り捨てが始まる」と警戒する声が上がっているという。
 公立中学校長は「人気校と底辺校の序列化が進むだけだ」とし、「私学無償化の背景には、私学に学力の低い子の受け皿になってもらおうという意図を感じる」と指摘しているそうだ。
 さて、この記事を書いた記者はこれ以上書いていないのだが、あまり好意的に評価しているように見えないので、おそらくは、「不人気校が整理の対象になること」「学校間の序列化が進むこと」「公立底辺校を整理縮小し、代わりに私学に受け皿になってもらおうとすること」が問題と言いたいのだろう。
 しかし、ほんとうに問題なのだろうか。大阪府は実質的な私立高校授業料無償化を進めているので、学費負担という点からは問題がない。公立学校を縮小することが問題だというのであれば、公立の方が私立より優れた教育活動を行えると前提が必要だが、おそらくそのような証拠はない。むしろ財政危機の大阪府では、代替策があるのであれば公立高校の削減は不可避であろう。
 ひとつ問題があるとすれば、公立高校は広域人事を行うため、過疎地に人材を送り込むことが可能となるというメリットがある。今、研修医制度が変わって過疎地の医師不足が深刻化しているのと同じことである。ただし、大阪府でそれが必要かどうかは不明。

「大学生24%が「平均」誤解 数学の学力不足鮮明」(京都新聞2月25日)
 数学の授業で先生もコメントしたそうで、5人がこの記事を取り上げていた。「ゆとり教育と推薦入試のせいだ」と日本数学会理事長さんがコメントしたらしいが、おそらく言葉尻をとらえただけだろう。発表資料にはぜんぜんそんなことは書かれていない。また、解説に「国公立理系がたくさん参加してこの成績では事態は深刻だ」と書かれているが、発表資料では、国公立の上位校はきちんと得点していて、むしろ大学間格差の大きさが問題と見るべきである。
 京都新聞以外にも、読売新聞や朝日新聞の記事を持ってきた生徒がいたが、似たような感じ(読売は五十歩百歩で、朝日は少し慎重に言葉を選んでいた気がする)。
 いずれにせよ、この記事を書いた記者が、いちばんリテラシーがない。情けない。

大阪府立高卒業式 君が代斉唱8人不起立 橋下氏「直ちに辞めて」(京都新聞2月25日)
 生徒のコメントは「せっかくの式を大人の事情で台無しにはしてほしくない」というものであった。そうだろう。
 最近のAERAの記事に、橋下氏は勤務中には一切のプライバシーがないという立場だと買いてあったが、勤務時間中に送られたメールやメモ類をサーバーやゴミ箱から拾い上げてチェックすることも、同じ感覚なのだろう。
 労働者は「賃金」と引き換えに「労働力」と「時間」を提供しているのであって、全人格を金のために捧げているわけではないはずで、ちょっと気持ち悪い話。
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「近代東京の私立中学校」  読書メモ(09.6〜)

 著者から本をいただいた。武石さんは同い年なんだが、いろいろと相談に乗ってもらったこともあって、こうしてしっかりした本になったのを見ると、とてもうれしい。今日発売らしいから、もしかすると最初の書評?

 武石典史2012『近代東京の私立中学校―上京と立身出世の社会史―』ミネルヴァ書房

 自分の関心に引きつけて読ませてもらう。
 中学校という「正系」の中等学校を経由して、学歴・学校歴による立身出世という社会的上昇のプロセスが確立された。明治日本が西洋諸国に追いつくために必要とする人材が、(きわめて個人的動機に基づく)立身出世主義を媒介として地方から中央に吸収された。そして「上京」→「立身出世」→「近代化」という社会変動のプロセスが明治期に完成する。ここでのポイントは、近代化のための手段となるべき教育のしくみの形成が、近代化のプロセスと重なり合いながら進行したということである。
 そうした中で、圧倒的に不足する公立の中学校を補ったのが私立中学校であり、さらに東京府民にしか門戸を開かなかった府立中学校に対して、全国から「上京」する生徒を集めたのが私立中学校だった。
 私立中学校が東京に集中することによって、すでに戦前の段階で中等教育の「地域差」が成立する。激化する受験戦争が問題化し、公私間関係に影響を及ぼしたりと、現代と共通する問題も見られる。
 さて、こうしたナショナルな問題としての戦前の「正系」中等教育に対して、自分が関心を寄せるのは、ローカルな問題としての戦後の「傍系」中等教育である。この両者の接続関係もまた、これからクリアすべき課題である。
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教師の世界では、1+1が2になるのか?  学校のはなし

 某予備校が、高校の先生を集めて、新指導要領に対応した授業について説明し、実際に模範授業も見せるのだそうだ。
 そんなことなら、いっそ、学校の授業はみな、アウトソーシングして、予備校から人を送ってもらえばいい。担任は、予備校みたいにチューターを雇えばいい。課外活動は、それはそれ専門のコーチを招けばいい。
 ひとりで全部やるよりも、得意な領域に特化して仕事を融通しあう方が、全体の生産も高まるし、それぞれの利益も増加する。分業の利益というのは、リカードもマルクスも認めるところであって、経済の世界では確立した定理である。
 それでは、なぜ学校の先生は、ひとりで何役もこなすのだろうか。
 もしも日本の学校においては、分業するよりもひとりですべてこなす方が生産力が高い(あるいは分業すれば生産力が低下する)のだとすれば、それはなぜか。それは教師の仕事が「ジョブ型」ではなく「メンバーシップ型」であることと関係はあるのだろうか。
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「湯浅誠からのお知らせ 【お知らせ】内閣府参与辞任について(19:30改訂、確定版)」
http://yuasamakoto.blogspot.com/2012/03/blog-post_07.html

古いノートに書いてある数字の根拠がわからなくて困っている。

「1957年の私立高校の、51%が女子校、22%が男子校、27%が共学校」

「文部省による高校生急増対策(1961年)の高校入学率の推計は、67.3%(61年)→61.3%(62年)→58.0%(63年)→59.9%(64年)→61.4%(65年)→63.3%(66年)→65.7%(67年)→67.3%(68年)→69.3%(69年)→72.0%(70年)」

 なお、実際の高校進学率と、推計値との開き(学校基本調査)。61年は明らかにおかしい? また、高校入学率(高校入学者/中学卒業生)は下落するという予想だったというのはほんとうか?
62.3%(推計比-5%ポイント)→64.0%(同+2.7%ポイント)→66.8%(同+8.6%ポイント)→69.3%(同+9.4%ポイント)→70.7%(同+9.3%ポイント)→72.3%(同+9.0%ポイント)→74.5%(同+8.8%ポイント)→76.8%(同+9.5%ポイント)→79.4%(同+10.1%ポイント)→82.1%(同+10.1%ポイント)
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経済学から見た教育論争  教育のはなし

 古雑誌の中から、WEDGEの2011年12月号が出てきた。

 原田泰「経済の常識 vs 政策の非常識 大阪W選挙の争点 教育論議には根拠が足りない」
 少し前の記事になるが、論点の提示がシンプルなので、メモ代わりに書いておく。

(1)大部分の大阪府民の感情は「教師がきちんと教えていないのではないか」というものであり、公務員という安定した身分に高い待遇を受けているのにきちんと仕事をしていないという見方は、教育改革が公務員バッシングの一環として出てきているためである。とすると、最低評価の教職員を分限免職の対象とするという条例案は、他の府の職員の待遇と比してあまりに厳しい。

(2)生徒の学力評価と教師の評価とを結びつける考え方は、そもそも生徒の学力の大きな部分は、子ども自体の素質と家庭環境で決まるのであって、学校のできることはそれほど大きくはないのだから、問題である。ただし、成績の低い学校に人と金を投入するという方針は橋下知事(当時)は示しており、これはイギリスのブレア政権が行ったことである。

(3)しかし、評価が難しいから評価しないというのはおかしい。生徒の成績の向上と教師の評価とを結びつけることが難しいのであれば、公立高校の無償化、35人学級制、教員養成課程の6年制化などの政策についても、子どもの学力向上との関係を実証的に議論されたことはない。これは教育関係者の思い込みに基づく議論に過ぎない。

(4)教育が政治の恣意を嫌うのであれば、教育も思い込みを捨て、証拠に基づく教育政策という考え方を受け入れるべきである。(以上)

・・・この話の土俵に乗るとすると、どうも、組織論とか経営学とか、そっちの方面からのアプローチが、この議論にはフィットするような気がする。
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私学教育という財  私立中学・高等学校について

 京都府は今年度、年収500万円未満の家計に対して、府下私立高校の平均授業料(年65万円)までを補助することで、実質的な授業料無償化を実現している(私立高等学校あんしん修学支援金)。この支援制度の利用は年々増加しており、制度の3年目となる2011年度はおよそ30億円に達し、さらに今後も増えていく可能性は高い。
 このように国や府の手厚い授業料助成(事実上の教育バウチャーである)によって、家計の所得に関係なく、自由に学校を選ぶことができるようになったと評することができる。しかし、私学経営者の中に、こうした授業料というハードルを下げることを歓迎しない声が一部にあるらしい。その理由は、「授業料をもらって、公立とは違う授業をするところに、私学の意味があるのだ」というもので、公立との差別化ができないから困る、というものらしい。

 うちの学校の生徒としゃべっていて、何がきっかけだったか忘れたが、授業料の話になった。高いよねぇ(だからちゃんとがんばろう)みたいは話ではあったが、彼らは授業料がタダになることには反対だったので、ちょっとびっくりした。「タダになったら、公立と一緒やん」というのがその理由である。
 自分たちは、小学校の時から塾に通ってこうして私立中学校に通っている。自分たちをちょっとした特別な存在として認識するにあたっては、授業料というのはわかりやすい指標なのだろう。あるいは親からそう言われているのかもしれない。
 夏休みのアメリカへのスタディツアーの企画があって、50万円ほどするのだが、募集人数をはるかに上回る応募があって、こちらがびっくりしてしまった。正直、数人程度かなぁ、と思っていたので、出せるご家庭がそれだけあるということだ。
 
 こういう財のことを、上級財というんだったろうか。嗜好財だったっけか。

 一方で、ある学校の校長先生に聞くと、多くの生徒が実質授業料無償化の対象となっているそうで、しかも、隣県から通学する生徒にはこの制度が適用されず、同じ授業を受けていても、家計の所得や、居住する府県の違いによって、納める授業料が変わってくる。担任が所得証明を持ってこさせて集めて、事務がチェックする。それはいかがなものだろう、という話であった。それもその通りだと思う。

 「私学に通う」ということには、単に教育を受けて学歴を手にする以上の付加価値がついていたり、あるいは逆に、公立ではサポートされない教育サービス(そういう教育には大抵手間暇がかかる)を手に入れるということであり、むしろ教育というよりも福祉的発想が必要な場合もあろう。

 私学の授業料が反映しているものは、いったい何なのか。そして、私学の授業料は、どうあるべきか。適正かどうかは、どうやって測ることが可能なのか。
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高大連携による生き残り戦略  私立中学・高等学校について

 毎日新聞の1面トップは、浪速中高と関大が連携を解消したというものであった。
http://mainichi.jp/kansai/news/20120224ddn001040002000c.html

 この学校、元住金マンで、大阪府立高校初の民間人校長として、いい意味でも悪い意味でもいろいろやって、その後、浪速中高の理事長校長として、こちらでも、いい意味でも悪い意味でもいろいろとやった人である。
http://benesse.jp/berd/center/open/kou/view21/2005/09/04shido_01.shtml
http://edugarden.blog50.fc2.com/blog-entry-1175.html
http://t-kimura.blogspot.com/2007/06/blog-post.html

 少子化の中、大学は学生確保のために高校との連携を強化し、私立高校もまた、大学との連携を生徒募集の売りとする。公立との差別化として手っ取り早いのは、宗教教育とクラブ活動の強化と大学進学実績あたりを売りにすることだし、大抵の学校はそのいずれかに取り組んでいる。
 すでに高校は日本中で事実上の全員進学状態になっているので、生徒を確保しようとすれば、県内で他校から奪い取るか、他県から引っ張ってくるか、海外に目を向けるかくらいである。あるいは、まだ拡大の余地のある中学校を強化して、そちらで数を確保するかだ。それでも生徒は減っていくので、いつかは政策によって権力的に学校規模を一斉に縮小させるか、それができなければ淘汰に任せるか。
 こうしているあいだにも、パイはみるみる小さくなっていく。この調整方法に対するコンセンサスはないままに、各校はいつ果てるともない「生徒確保競争」の中にある。
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今の日本の学校経営組織改革をどう見るか?  私立中学・高等学校について

 昔書いた書類を探して、いろんなフォルダをまさぐっていたら、こんなレポートを掘り出した。2010年夏に大学院ゼミのリアクションペーパーとして出したものだ。

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 昨今のさまざまな日本の学校経営組織改革について感じていることを2点あげてみたい。

 第一に、「日本の学校経営組織改革」という場合、ほとんどの場合には「公立学校改革」を意味するため、「学校組織改革」と「(教育)公務員制度改革」とが十分に切り離されずに議論されているように思われることである。たとえば職制についての東京都の改革事例は、新たな職制を設置によらなければ待遇面での差をつけることができないという、公務員制度に固有の事情が背景としてあったと思われる。また、たとえば昇進について試験を必要とすることもまた、公務員制度に固有の事象である。つまり、たとえば教職員の異動・昇進・降格・出向についての柔軟な人事体系による経営組織改革は可能であり、それにはまずは公務員制度という制約を取り払った上で、さらに「学校・教員に固有の問題」について考える必要があるように思われる。事実、たとえば郁文館の経営改革の事例からもわかるように、公務員制度の制約を受けない「学校経営組織改革」は十分に成り立つ。
 かつて、中村圭介氏と油布佐和子氏の間で「教育公務員制度改革」について論争が行われたことがあったが(中村他2001、油布2002、中村2002)、油布氏の主張する「教職の特殊性」が「他の職種の特殊性とどう異なるか」という点はとうとう明らかにはならなかった。つまり、「学校経営組織改革」の前提となる「公務員制度改革」が劇的に進めば、「学校経営組織改革」は加速度的に進む可能性は高く、そのときはじめて、純粋に「学校経営組織に固有の問題」が浮上することであろう。
 ところで、公立高校と私立高校とは、同じく高校教育供給を担う主体として一体的に語られることが多いが、組織レベルで見た場合、両者の間には大きな相違点がある。もっとも大きな点は、公立高校が単一の巨大な行政機関であるのに対し、私立高校はそれぞれに独立した小規模な公益法人であることである。また、教職員の身分、管理職や経営者の性格などについても、公立高校と私立高校とでは異なる部分が多い。そしてこの組織としての性格の違いは、環境変化への対応方法の違いとして現れる。

 <公立高校の世界/私立高校の世界>
@通学区域
学区制/学区なし
A経営方針
地域の青年に教育を与える(機会均等)/建学の理念・生徒募集に失敗しないこと
B設置主体
行政機関/公益法人
C教職員の身分
教育公務員特例法・教職員は地方公務員/労働基準法・教職員は「中小企業の社員」
D管理職
校長は「支店長」/校長は「中小企業の社長」
E経営者
教育委員会・教育長/理事会
F人事異動
異動あり/異動なし(職場内の異動)・高い帰属意識(一蓮托生)
G他校の教員との関係
同じ組織の一員/同業他社(仲間だがライバル)


 ある環境の変化が生じたとき、組織としてのフレキシビリティに優れる私立高校が敏感に反応する。具体的には、生徒募集の方法や教育内容の変化として表れる。私立高校の動向は、公立高校に通学する生徒を通しての側に影響を及ぼすことで、新たな「教育行政」「教育政策」を引き出す。その結果としての公立高校の変化は、私立高校に新たな戦略の必要性をもたらす。公立高校と私立高校のそれぞれの世界は、相補的な関係を保持しながら、人口動態の変化、「低進学率の世界」の進学率の上昇、女性のキャリアパスの変容などのさまざまな社会の変動に合わせて、絶えず変化を遂げてきた。
 2010年、民主党政権によって「公立高校授業料無償化」がスタートした。これにより、公立高校と私立高校の間の格差は、授業料という面では比率の問題から質的な違いへと転換した。少子化の進行と相まって、各私立高校は生き残りをかけて改革に乗り出さざるを得ない状況に置かれている。私立高校の環境の変化は、必ず公立高校にも影響を及ぼし、日本の高校教育システム全体を揺るがすこととなるであろう。

 第二に、学校組織改革を考える上でしばしば登場する「教職の専門性」とは何かという点が、実は今もって明らかではないことである。そして、仮に「教職の専門性」に基づく学校組織改革が行われれば、それは何をもたらすか、ということもまた、十分に明らかではないように思われる点である。
 濱口(2009)によれば、労働の形態は、働く内容に対して報酬が示され雇用契約を行う「ジョブ型」と、会社の一員となるという暗黙の契約を交わす「メンバーシップ型」とに類型化される。日本型雇用システムとはメンバーシップ型を前提として成立したものといえる。こう考えると、日本の教師の仕事は、一見「ジョブ型」に見えるものの、実際には教師は「学校が必要とする業務を何でも適宜適切にこなすことが仕事」といえ、むしろ「メンバーシップ型」の典型であるといえる。このことは、たとえば医師の世界において、旧来の医局人事が、病院が求める仕事を何でもこなす「メンバーシップ型」で運営されてきたところに、近年「ジョブ型」による(割り切った)働きをする若手医師が登場し、(産科・小児科・救命救急といった)「無制限・無定量」の働きを要求する部門において人手不足と医療体制の崩壊が始まったと解釈することが可能である。
 仮に日本の学校組織が「教職の専門性」(があるとして)に基づいて再編されるのであれば、学校組織は「メンバーシップ型」雇用から「ジョブ型」雇用へと移行することを示唆する。これは「若手のマインドが変わってきた」「教師の同僚性が希薄化してきた」という近年の職員室の変化と親和的な現象でもあり、その先にある学校像は、医療の世界を他山の石として考えられるべきではないか。

引用文献
・濱口桂一郎(2009)『新しい労働社会―雇用システムの再構築へ』岩波新書
・中村圭介(2002)「教育公務員の制度改革を考える―教育社会学者との対話を通じて」『日本労働研究雑誌』509
・中村圭介・岡田真理子(2001)『教育行政と労使関係』エイデル研究所
・油布佐和子(2002)「教職の理解に向けて―中村圭介・岡田真理子著『教育行政と労使関係』を読む」『社会科学研究』53-1
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コラボ  中3社会(公民)

 久しぶりに本業の授業の話を。

 現在、日本国憲法のくだりをやっているので(もっとも抽象的思考が求められるこの単元は、教科書では年度当初にやることになっているが、経験上、いちばん最後に回した方がいい)、家庭科の授業に合わせて「バリアフリー」を入れたり、「契約」の話をやったりしやすい。「死刑」の話なんかは、やってはいないが、宗教とのコラボもできそうだ。
 また、数学が高校新課程の統計をやっているので、そこでもコラボ。こちらは「計算はExcel先生に」とショートカットしたが、数学ではきっちりシグマを使って計算していた。今日は「錯視」のデータ集めの授業だったので、一緒に混ぜてもらう。次回、このデータを使って、標準偏差なんかの話をするそうだ。

 このあいだは、憲法改正案を作成し、国民投票を実施した。例年に増して、国家による国民の統制を強化すべしという案が多くて、「立憲政治と人権保障」の話を延々としてきた身としては、何を聞いていたのやら、とちょっと敗北感に苛まれる。

 来週からは、歴史の積み残しを引き受ける形で、1970年から2週間で一気に2012年まで到達する予定。

 もっともっと、コラボできる領域は多い。これを個人営業で進めている現状でよいのか、あるいは教科レベルで担当者が変わっても行えるようにするべきか。個人的には後者。それこそが「総合的な学習」なんじゃないの?
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私立高校とスポーツ留学  私立中学・高等学校について

 仙台育英高校の陸上部の監督が、成績不振を理由に退任して、愛知県の豊川高校に移るそうで、監督を追いかけて部員が大量に転校するつもりでいるらしい。
http://mainichi.jp/photo/news/20120221k0000m050093000c.html

 私立高校が実業団みたいなことをしていることが問題視されているらしいが、そもそも野球でもサッカーでもバレーボールでも、そういうことは現にあるし、文化系クラブでも指導者を求めて遠くの高校に通う生徒はいる。
 公立高校にはできない教育実践を行うのが私立高校なのだし、現実問題、日本のスポーツを私立高校が下支えしている(指導者の生活を、高校教職員として抱え込んでいる)という現実がある。
 これが褒められたものだとは思わない。
 しかし問題とされるべきは、まずは私立高校の経営姿勢ではなく、青少年のスポーツの場を、学校教育の内部に持ち込み、しかも多くの競技の場合、そうしなければプレーする場が保証されないという点にあるのではないか。
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