劇場版「CLANNAD」が名作がそうでないかということを考えるうえで、いろいろ思い馳せることがでてきたので、そのことを書いてみたいと思います^^
劇場版「CLANNAD」が、とくにネット関係で、悪評または酷評を受けています。
でも、少なくとも僕には、それらの評価が妥当だとはどうしても思えません。
それらの評価を読んでみると、どうも劇場版が自分の思っていた内容ではなかったということが大部分のようです。とくに、自分のお気に入りのキャラクターが出ていないことに腹を立てている人が多いみたいです。
前にも書きましたが、映画という媒体の限られた時間を考えると、登場人物が少なくなったことも、シナリオが短くなったこともどうしようもないことだと思います。
「CLANNNAD」のあの膨大なシナリオの全てを映画の中に盛り込むことは現実問題として不可能であり、ましてやキャラクターの1人1人に見せ場を作ることは、神様にだって無理ではないでしょうか?
しかし、そうした評価をされる方の気持ちも、僕はわかるつもりです。
僕も、正直に言いますと、原作ゲームあった朋也が渚に告白するシーンが別の形に置き換わったことは、劇場版の最大の痛恨事だと思います。しかし、映画の限られた尺の中で、あのシーンを再現することは事実上不可能だったとも思います。
おそらく、多くの人が自分の「CLANNNAD」を持ち、それを大切になさっていらっしゃるのでしょう。そして、そうした1人1人が自分の「CLANNNAD」を劇場版に期待してらしたのだと思います。にもかかわらず、そこには自分の望む「CLANNNAD」ではなかった。スクリーンに映し出されたのは、出崎統監督の「CLANNAD」だった。
確かに酷評したくもなるでしょう。しかし、またそうした気持ちこそが、「CLANNAD」がそれほど多くの人々に愛されているかということを証明するものでもあります。
では、なぜ僕が、劇場版「CLANNAD」を評価するかというと、劇場版にしろ出崎版にしろその作品が「CLANNAD」の雰囲気を壊してないと思うからです。いえむしろ、実に「CLANNAD」らしいと思うからです。
「CLANNAD」という作品の雰囲気を一言でいうのは難しいですが、それでもあえて一言でいうと、幸せと表裏一体の切なさではないでしょうか?
原作ゲームで、雨の中バスケットボールを抱いて朋也を待っている渚が、このまま死んでしまうのではないか、と心配した人は、たぶん僕だけではないと思います。
もしかして選択肢を間違えたのでは、と、データロードしようとした人は、きっと僕だけではないでしょう。
渚という少女は、可憐で、優しく、健気で、朋也でなくても思わず守りたくなるような少女です。しかし、彼女の笑顔の裏には、常に悲しみとそして死がつきまといます。
そうした何とも言えない切なさ。いつか失われるとわかっていても愛さずにはいられない葛藤。
劇場版「CLANNAD」は、そうした雰囲気が少しも損なわれていないと僕は思いますし、だからこそ劇場版「CLANNAD」は僕にとってやっぱり「CLANNAD」なのです。
僕は、マルチエンディングのゲームを一本のストーリーにすることは基本的に反対です。しかし、やっぱり好きなゲームがアニメになると嬉しいものです。
たとえ、それが僕の望んだ形でないとしてもです。
僕がいろいろ不満を言いながらも、アニメ版「School Days」を観続けているのは、ゲーム版の「School Days」の雰囲気が壊れていないからです。いえ、むしろ「School Days」そのものだと思います。だからこそ、観続けているのです。「君が望む永遠」しかり、「ダ・カーポ」しかり、「SHFFLE!」しかり、「Kanon」しかりです。むしろ、「SHUFFLE!」と「Kanon」に至っては、原作以上に「SHFFLE!」であり「Kanon」だったとさえ思います。
一方で、そうではないな、と思った作品もあります。それは「つよきす」です。アニメ版の「つよきす」は、あのほのぼのとしたアニメは、明らかにゲーム版の雰囲気とは全く違います。
今後とも、マルチエンディングの物語がアニメ化されていくでしょう。そのストーリーが僕の望む形であることのほうが少ないと思います。
しかし、僕はそのアニメが原作のもつ雰囲気を大切にしている限り、支持していきたいと思います。
(⌒▽⌒)ノ"

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