今日は時間があるから、「自殺してはいけない理屈」これまで考えてきたことを書いてみる。
まず、自殺したいきっかけを考えてみる。
借金、死別、三角関係、暴力、心理的な抑圧、性的暴行、仕事、
忙しすぎる、退屈すぎる、面倒くさい、悲しい、難しい…そんな気持ちになるのかな、
絶望、悲観…「さようなら」ということもあれば、「死を以って訴える」こともありそうだ。死んでわからせてやりたいとなれば、攻撃性の強い行動と言わざるを得ない。
被害者として、死に追いやられる場合は多いかもしれない。
だけれども、その自死が多くの人を傷つけることを少し知ったほうがいい。
自分の家族や友人、あるいは加害者 多くの人が自殺した知人を思い、心を痛めるだろうし、悔やむだろう。その時点で、もぅ十分自分で死んだ人もある意味加害者になる。
自殺しなければ、そんな悲しみを味わうことのなかった人たちが沢山いる。
親しい人が自殺する悲しみを背負わされる必要はあるのだろうか?
家族や関係者は「どうしてあの人は死んでしまったのか」「死なずに済んだのではないか」「自分に何かできなかった」とそれぞれ十字架を背負う。
だけれども、死にたくなるほど苦しいときってあると思う。
私も思ったことが無いわけではない。死んでやろうと攻撃的なことを思ったこともある。結局は死んでない。
泣いたり怒ったり、ぼんやりしているうちに、眠ったりトイレに行ったりお茶を飲んだりする。私の場合はテレビの電源をつけるくらいの元気があるから良いのかも知れない。
「お笑い番組」みたいなものが流れていたり、テレビタレントがふざけていたりする。時間が経てば、ちょっとクスっとおかしくなる。その瞬間、わたしは「負けた」と思う。やっぱり、生きていれば楽しいこと笑うことがある。もぅ何も無いと思っていても、一個でも笑うことがあったのならば、きっとこれからも笑っちゃうようなことがあるだろうと思う。
悩みが深刻ではないと指摘されるかもしれない。深刻の客観的なレベルなんてものは通常あまりない。小さいお子さんであれば、大人の悩みのほうが複雑で困難なものが多いと言いたいが、ちびっ子にとっては如何ともし難いきついものかもしれない。
死にたいと思ったことの無い子どもでも大人でも、強くなろうと生きなければならない。子どもの悩みを通り過ぎても、人生で起きる悩みはどんどん複雑になることのほうが多い。子どものころ自殺しなくても遅かれ早かれ自殺するでは困る。子どもの自殺の周りへの衝撃は大きいけれど、大人の自殺で傷つく人はまた多い。
さて、自殺してはいけないのは、自殺は「迷惑」だからというのは大きな理由だといえる。傷つける以上にもっと広い範囲の多くの人に手間をかける。
死因を究明したり、遺体の収容や建物への影響、葬式、周囲への事情説明。
人が亡くなった場合、自殺にせよ自然死であるにせよ、それなりに手間がかかるが、立派に往生を遂げた人だけにして欲しいと思う。
私は看護師だから、死の場面に立会い、亡くなった人の体を清め着物を着せる。このような仕事は大変厳しいものだ。できれば免れたいという気持ちがある。
人の死に関わる人はそれが生業としても多かれ少なかれそういう思いはある。
だけれども、患者さんの場合は 長い苦しみから解放されたり、立派な人格を維持したり、家族としての立場や役割を全うしたり、病気と闘い治療に耐えたり、それぞれの人生の最期をようやく終えようとしているのであり、そこには深い尊敬の気持ちをもつ。敢えてそう思う努力をしなくても、その生きることが精一杯でぎりぎりな姿は、我々全ての人の心を打つものなのだ。
苦しくても 痛くても 辛くても 亡くなる少し前に ふわっと意識を取り戻したり、にこっと微笑んだり、みんなに感謝したりすることがある。
最近私が感じていることは、「これで天国にいけるのかな」ということ。
死ぬまでには 実は沢山の忍耐や苦しみがある。その中で うろたえる人荒れる人混乱する人 あるいは じたばたする過程があると言った方がよいだろうか…、その最中に死んでいく人は殆どいない。
あるとき、ふわっと仏さまのように なるような気がする。そのとき、この人の苦しみは解放されていて、もぅ 逝っていいのだよと言われているように思う。
随分頑張ったね、十分頑張ったね、立派だったねと 全てがもぅその人を旅立たせる時は、自然にやってくる。
また、生まれながらに障害をもっていたり、沢山の治療を受けている人をテレビやなんかで見ることがある。その人が生きるためには、多くの手助けや努力が必要で、だけど、なんとか生命をつなぐ、毎日を迎える、言葉を話す、肌に触れる、微笑む。死ぬために生きているのではなく、新しい時間を作ることが当たり前だから前に進んでいる。
こうした命を見ると、自分で自分の命を絶っていいはずが無い。
まして、身体的にも物理的にも生きながらえる環境が欠けていないのならば、その肉体や知能や心を、みんながみんなで生きるために動かして欲しいと思う。
草むらにいって、誰の目にも触れず、誰の疑問も誰の悲しみも引き起こさず、ひっそり死ねるわけではないのだから、人間だからこそ 死んではいけないのだと思う。
看護師として、亡くなっていく人々を見るのは辛くて厳しいことだけれども、もし私がそこから得たものがあるとしたら、苦しみから解放されるまで 人として生命を全うし、諦めず、怒らず、人格を保つという偉大な人々を見たということ、その人の最期の幾日かの間に沢山声を聞かせ、微笑んで安心してもらえたということ、苦しみから解放される時が自然に訪れるまで自分もしっかり生きなければいけないのだというその「縁」のような場所が今の自分から遠くにあるということがわかったこと。
自殺した人からはなにを学べばよいだろう…、何を共有できるだろう。
お釈迦さまが悟りを開くみたいに 涅槃にいけるような、
極楽浄土に生まれ変わるような、
宗教的には色々表現はあるかもしれませんが、実際に人の死は 自分のコントロールできるタイミングではなく訪れるもので、それがみんなにとって自然で偉大なことなんだろう。
笑っちゃうことや嬉しいことや有り難いことが絶対にあるから、生きておけ、死ななくてよい。
人の役に立とうなど大きなことを考えなくても、「おかしい」「おいしい」「暑い」「嬉しい」そんな自分の感情を持つことが生きていることであり、ただ存在していれば、生きているだろうという当たり前の期待に応えていることになり、死ぬより全然ましなんだろう。
ちょっと元気になったら、生活を充実させれば、自分も周りもまたさらに楽しくなれるだろうし。死んだらもぅなにもない。周りには苦労や悲しみが残るし、うまーく死を迎えないと、うまーく天国にいけないような気がする。
私としては、健康が長生きさせてくれれば、いろんなことが起きて体験できるかなーと。そのためにできることがあればやりたいなーと思う。


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