こんばんは。大変ご無沙汰のmanganです。
病院ってWi-Fiないよね。
知ってる人はもう知ってると思うけど、入院しますた。
信号無視のトラックと衝突して、幸いにも(ドクターに3回くらい言われた)、見た目の外傷はあまり無いです。
まだ内臓のダメージが不明らしく(肺の出血と肝機能の低下)しばらくご厄介になる予定。
で、今日は加害者であるところの運転手の人が見舞いに来たのだった…。(回想)
自分を撥ねた相手であるというのに、特段の怒りを感じていなかった。
別に自分が寛大だとか相手を許しているとかそういうことでなくて、自分の中では既にこの理不尽な一方的な状況が受け入れられていたのだと思う。
約束の時間よりだいぶ早く病院にやってきたのはおとなしそうな人で、母親の言葉を借りれば愚鈍であるとすら感じられた。
その人は、全部自分の過失であり、補償は全て対応しますと言っていた。どうも交通事故を起こしたのも初めてだったらしい。
うちの母親は、なぜもっと早く謝罪に来ないのか(事故から5日経っていた)、仕事に出るよりも大切なことなのではないのか、と常時相手を責めていたけれど、僕自身は「この人はそういうことを誰にも教えてもらえなかったのじゃないか」と感じていた。
社会に出ることはとても簡単なことだ。学校に入るような能力試験があるわけでもない。
しかし、一度出てしまったなら、誰にも頼れず自分自身の力で眼前の問題を解決していかなければいけない状況は何度も訪れる。そういう問題解決能力は学校で教わるような勉強からは絶対身に付かない。
具体的にはコミュニケーション能力だったり他人と共感する能力だったりすると思うんだけど、社会の方針としてはそういう能力は前提として最低限身に備わっているもの(人間性とでも言うべきか)で、社会に出る前に「ほっときゃ身に付くもの」として考えられているそしてそれは概ね正しい。
僕らは家族や学校の集団生活を経て、知らない間にそういう能力を身に付けている。「学んでいる」と言ってもいい。身をもってトライ&エラーを繰り返して、怒られたり悩んだり許したり笑ったりしながら 「学習」していくわけだ。そしてその膨大な経験データの蓄積が個人の個性を形成していると僕は考えている。
確かにそれはかいつまんでしまえば「ほっときゃ身に付く」ように見える。日本人同士であればなおさらのことだ。
ただ今回の彼に関して言えば、そういう能力がやや欠けているような気がしたのだ。
その理由でバカするとか嫌悪するということは無いけど、なんか非常に興味を惹かれた。まあ既に轢かれてるし。
普段の生活や仕事でそういう人に接する機会ってままあるし、そういう場合は面倒を嫌ってこちらの都合で割り切ったり切り捨てたりすることが多い。
ただ今回に関してはむこうからぶつかってきたという点でも非常に興味深いのだ。彼はどうやって形成されるに至ったのだろうか?
仕事は真面目にこなしているように見える点がなおさら疑問を呼ぶのだが…。
で、その面会のあとに家族から「あんたは甘い」とか「ヘラヘラしすぎ」とか叱られたので、
次回の彼の雇用主であるところの社長の見舞いは心して迎えたいところである。なんかそんな感じ。

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