偏差値、気にならないかい?聞けば「気にならないよ」って言いそうだね。
父さんの頃もあるにはあったけど、今ほど問題にならなかったんじゃないかなー。
受験勉強らしい勉強はしなかった。受験のための…というのが気に入らなかったんだ。
へそまがりなんだね。今度入る大学の
偏差値はどうだい。それは高ければ高いほど難関という事だから、尊敬すべき事象だとは思う。しかし、低いから価値がないか、と言ったら、それは違うと思う。
偏差値がすべてではないのは当然だし、人の価値は
偏差値だけで決まるだろうか。
偏差値か高ければ高いほど幸せになれるだろうか。
それは
否である。大事なのは自分の正しいと信じるものに、或いは好きな事に情熱を傾けられるかどうかという事ではないだろうか。
偏差値は良くも悪くも、その人のものであり、他の人を非難中傷したり、蔑んだりする道具ではない。自らの
偏差値を大いに分析してみるのがいい。
偏差値が低いのは大方はその科目の勉強時間の絶対的不足である。点数を上げる事に興味や必要を感じなければ低くなって当然であろう。学問的関心、興味の強さと
偏差値とは必ずしも符合するものではないと思う。寧ろ、反比例するものですらあるやも知れぬ。多くの宗教系や芸術系の学部の
偏差値が高くないのはその謂である。
偏差値を必要以上に上げることは障壁でさえあり、拘泥とも言うべきだろう。
医師や弁護士などのインテリは尊敬すべき人々である。然しながら、そうした人々が尊敬できる人々であるか否かは別問題である。半世紀を過ぎて10年足らず、残念ながら
偏差値が高い人々の中には尊敬に値しない人々のいる事実に愕然とする事が少なからずある。
総じて一個の人間の総体は同じようなものである。ある事に秀でていたらある事には疎かったりするものなのだ。あれが得手ならそれは苦手なものなのである。
偏差値にしたり顔の厚顔無恥な井の中の蛙たちには言いたい事を言わせておけばいい。若い人は大体にそうしたものなのだ。
その醜い若い人が若き日の父さんでもあったのだ。
だから相当の確信を持って言えるんだ。
偏差値は
偏差値そのものの数字であって、それ以上でもそれ以下でもない、ましてや人の価値などでは決してないんだよ。
息子よ、それだけは胆にしっかりと銘じて、常に夢と希望を持ち、広くて大きな幸せを求めて堂々と生きるんだぞ、いいか、わかったかな。これは本当に本当の話だよ。
人生は、世界は、人間はそんなに狭いもんじゃない。
偏差値は
偏差値に任せとけばいいのさ。

優等生や、
偏差値の高い者であっても、優等生であるがゆえの、
偏差値が高いがゆえの劣等感があるものなのさ。惜しむらくは、相当の確信でも、父さん自身が
偏差値が高かったか?と言うとイナバウアーなのである。
偏差値は一時的な、泡沫のようなものだ。人の世は泡沫とも言うじゃないか。

