書き込んできた
とび坂 の峠のことは、
「元禄12年の鰐口 」のことから滞ってしまった。
峠の茶屋での一休みか、それとも寄り道、回り道、横道にとそれたのか。まずは、峠の宗教的雰囲気に立ち戻らねばならない。そのためにも、先日の北陸路に遊んだ寄り道も無為ではなかったことにしたいのです。
所用の旅であったが、
福井県の大安禅寺を訪れた。

ここは越前松平家のご廟所のあるところと聞いていたのである。

精進料理をいただいて、ご住職の法話を聞くこともできた。
だが先ずは、裏山高台のご廟所の報告となる。
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段丘崖のような急なヒラを道はのぼる。途中でリタイァしたいほどの坂道でもあったが、やがて緩やかになると中世末の山城のような構えの石組の残る一隅に至る。

葵の紋が彫られた石の扉の前に立つとご廟所の正面に、福井藩祖結城秀康の墓石塔がみえてくる。

この正面手前の右側には第三代
忠昌の墓石であった。
徳川家康の次男、結城秀康が藩祖となった越前北ノ庄(福井)は、
越後高田藩松平家と深くかかわっていた。
江戸時代初期の魚沼は、おおむねその高田藩に属して、その支配の下で近世社会の基本が成立していたのである。
元和4年に、結城秀康の次男
忠昌が高田に入っている。
川口町中山の臨江庵(
林興庵:三郎次はこのお寺の檀家 )に残る同庵由緒書上げの古文書には、「 松平伊予守様御領主之則、石原九郎左衛門殿承ニ而、魚沼郡御縄入申し候 」と書き残されていた。この「松平伊予守」は忠昌のことであり、石原九郎左衛門は忠昌の奉行として、当時の魚沼地域にかかわる古記録にみえる人物である。
寛永元年には、忠昌が越前福井に移って、越後高田には忠昌の甥にあたる
松平光長が入って、約60年の長期におよぶ魚沼とのかかわりを持ったのである。林興庵の古文書に、領主の「松平中将様」とみえるのは、越後中将 と称した
光長のことである。
大安禅寺のご廟所では、近世初期の魚沼成立にもかかわったお殿様を偲ぶことになった。
さて、
とび坂 の三国街道であるが、その成立の詳細を三郎次の知ることではないが、中世から引きついだ道筋が江戸幕府の統治のもとで、大きく整備されたものであろう。それも一気に完成したことでなく、春日山、高田の歴代支配者による幾度かの改良整備によって、今日の我われが理解している近世街道筋が出来上がったことを、研究者などがしめしている。
慶長14年に、三国峠の難所の普請とか、あるいは翌15年に三国三宿場の立ち上げのことなどが知られている。また浦佐宿と堀之内宿を結ぶのは、古くは小出島を経ていたのが、
栃原峠越えとなって新道とされている。その開削整備に大門与兵衛のかかわりなどが伝えられるなどのことからすれば、この道筋の変化は松平光長の治世のころに当たるとされようか。
してみると、
とび坂の峠越えと
和南津舟渡し場が街道筋に組み込まれるのも、当初からではなく、おいおいの整備の過程で、この峠の道筋が成立していたのかとも考えられるのである。
高田から越前福井に移ることになった松平忠昌の魚沼支配の時代には、栃原峠越えの道は開通しておらず、とび坂の峠もどうだったであろうかと思案しながら、松平家のご廟所に、遠い昔のお殿様を詣でたのであった。
そしてこのお寺の古仏に対面したときも、八郎場の鎮守堂
「天當さま」のことが念頭をよぎることになっていた。
長岡たばこ タバコ

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