ムラはずれの「さいの神」が持っている二つの感覚、@
ムラの境界で、外から入る邪悪なものを塞ぐ役目と、A
人の生死にかかわって、男女和合のことも含めた習俗の信仰が、原初から一つのものであったのか、あるいは後に習合した習俗信仰なのか。三郎次にはおよばない論であるが・・・。
ムラが外からの脅威とか不都合邪悪なこととして防禦しなければならないことは、具体的に見える形の侵入だけでなく、不幸・災害・疫病・飢饉などはこれに襲われたら防ぎようのない恐ろしさとして、信仰習俗のなかに大きく位置づけされてきました。
「さいの神」が持つムラの
境界管理・守護の信仰は、単に二次元としての地理上の境界だけでなく、気づかないうちに身辺に侵入してムラの平穏を脅かす外来のこのような災悪不幸にたいする三次元・四次元の世界での境界の感覚も担わされている。
生命の存在を意識して、
命がどこから来てどこに逝くのかと、それぞれに
別の世界を感じたときその
境界も「さいの神」の感性の中に委ねられる習俗信仰に成長することになります。
命の誕生にかかわる信仰は、生命の発生にかかわる
男女和合が、命の生まれ来る世界につながること気づくならば、ここにも異なる世界とのかかわりに「さいの神」が
性の和合として女神男神の信仰となってくる。
栃尾の奇祭とされる「ほだれさま」信仰もまさしく「さいの神」信仰の一つのかたちあろう。
また
死の世界との境界にも、そこにかかわるのは「
この世とあの世」を遮る境界として「さいの神」の感性がある。
塞の河原・三途の川をつかさどるのは、「さいの神」の属性に、
仏教からの「お地蔵さま」の信仰が習合してきました。
「さいの神」と「お地蔵さま」がムラの出入口にならび立つ感覚は、
ムラの外で異界としての死の世界に通じていることの感性になります。八郎場の「さいの神」で、ムラの外のお墓に参ったとき、ムラの入口で「地蔵さま」と一緒に手向けをしてくる習俗は、
死の世界からムラの平穏を区切ることのから感性をみることになります。
「さいの神」は現実的なムラの外の世界と内の世界の区切りを管理する習俗信仰であるだけでなく、
ムラの時間、「時」の流れにも区切りをつけ、またそれをつなぐ感性も含むことになります。小正月行事の「さいの神」信仰は、一年をくりかえす「時」の感覚をそなえて、過ぎ去る「とき」と、新たに迎える「とき」のつながりにかかわる習俗信仰となるわけです。
今日の
「さいの神」はこの習俗信仰がもつさまざまな属性をムラの人びとの心底に深く沈めて、なお「とき」の区切りのなかで過ぎ去る「とき」を整理し、迎える「とき」に平穏と豊かを感じとろうとするムラの習俗であるわけです。

1