「「終末医療」は健康保険制度赤字や財政不如意のなかで突き出された政策ということが問題」
医療・臓器移植
医療を否定するものではありませんが、50歳をとっくに超えているのに健康診断もまったく受けず、風邪や腹痛では通院はもちろん薬も服用しない(合成新薬は10年以上服用してしない)、抗がん剤治療は拒否、開腹手術はできれば(生への執着度合いによるかも)避けたい、死は惚れた女とセックスしているときに訪れて欲しいと考えているので、医療に関して多数が納得するような考えを打ち出せるとは思っていないことを最初にお断りさせていただきます。
まず、他者の手による「安楽死」は、善悪は別として殺人行為だと判断しているので受容できません。
自殺や延命措置をやめて死へ向かう状態を放置することに問題はないと考えています。
他者が手を施さずとも安楽に死ぬ人もいれば、他者が手を施しても苦しみもがかなければならない期間を経て死ぬ人もいるという現実はそのまま認めるしかないと思っています。
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「終末医療」は健康保険制度赤字や財政不如意のなかで突き出された政策ということが問題投稿者 あっしら 日時 2005 年 10 月 15 日
この時期に政府が打ち出した「終末医療」制度は、個人の生死と国家社会の関係に関する共通的な考えを基礎にしたものではなく、健康保険制度の赤字化や国家財政の不如意状況から突き出されたものだと考えています。
医療分野で国家機構が使えるお金が不足するなかで、現状を維持するためには利益を出している企業や高額所得者から吸い上げなければならない事態になることを“憂い”、それなりの規模で切り詰められる分野はどこかないかという発想から出てきたものでしょう。
しかし、ある時期までは、医療分野従事者にお金を回すためとは言いませんが、保険制度も機能しており国民の健康と延命のために国家がお金を使うことは善だと理解してもらえるから歯止めをほとんどかけていませんでした。
(ある時期までの地方都市で中心部が離れた場所で目立つ建物は、“町医者”の自宅兼診療所といっても過言ではありませんでした)
言いたいことは、国民の死生観と国家の関係を棚上げして、使える資金の多寡や負担(可能)者の変動のみから、国家がサポートする医療の内容が考えられているという問題です。
「終末医療」という表現は、一鍼多助さんも言われているようにあまり好きなものではありません。
人は生れ落ちたときから休むことなく終末に向かって歩んでいるわけで、その歩みがどこで終わる(どこで終わらせるか)は天のみぞ知る(膨大な医療を施したとしても)というものです。
医者が診断して「余命は○ヶ月ほどです」と説明することにも疑念を抱いています。たとえ死期が近いと判断しても、「このような医療が可能です」とか「私に治癒させるだけの医療法はありません」と説明して、その後の判断は患者ないし家族に委ね、結末は天に委ねればいいことです。
医者が余命を語る必要はありません。医者は生や健康について語る立場であり、死の確認はするとしても将来の死を語る立場にはありません。
(余命を知って残りを悔いのないように生きたいとか生きるというワガママに付き合う必要はありません。人は生れ落ちたときからそれほど長くない余命しかないのですから..)
「終末」とは、死が不可避の身体状態にあり医療行為を続けてもいつ死を迎えるかが違うだけで医療の継続にはそれほどの意味はない、あとは本人と家族が残る時間をどう意味あるものにするかだと判断された時期だと思っています。
そうであるならば、「終末医療」は医療そのものではなく、死生観を基礎とした生き様=死に様の問題であり、医療は過度の痛み(不安も?)を除去する役割に限定されるはずです。
死に際くらいは、国家社会がコストを負担してでも少しでも穏やかで安らかなものにしてあげるべきと考えるか、どうせ死にゆく人に国家社会がコストをかけるのはムダだから、どのような死に際になるかは本人ないし家族の心がけや財力によると考えるかが大きな分岐点になると思っています。
私自身は、家族ではなく国家としては生き続ける人を優先した政策判断を是としつつも、死にゆく人も含めた国民の営為で成し遂げた国力で可能なサポートは行うべきだと思っています。
人口が1億3千万人で毎年何百万人も死んでいますから、それほどのサポートはできないのですが、貧乏人(現役時代末期の所得が500万円未満)でも終末期に家族から“そろそろ逝ってくれないかな”と思われることが少ない条件は提供できるはずです。
財力が乏しい家庭の人はそこそこの、財力が豊かな家庭の人はけっこう満足できる終末を過ごすといった差異はあるとしても、あまりにも惨めで疎まれ続ける終末を過ごす人は国家の力でなくすことを望んでいます。
「終末医療」問題の基本は、医療そのものではなく、死に向かう身内を看取る家族をどうサポートするかにあると思っています。
そして、「終末医療」は、究極は国庫金の問題だとしても、個人の生死と国家社会の関係性(その基礎には諸個人の死生観)をめぐる議論を通じて決められるべきだと考えています。
★ 参考投稿
「『
医療改革』について一つの方向性」
町医者さんには私の終末も看取って欲しいとちょっぴり思っています(微笑)。
達観できない俗人ですから、私も生に執着して醜態を晒す可能性があると思っています(笑)。
>できれば、外泊を許可して、好きな女を抱かせる・タバコを許可する・今わの際に飲酒を飲ませるなどしてあげられるといいですが、チーム医療の観点から、他の医師・看護士などからの反対などもあり、現実的にはまだまだ難しいです。
生を絶対的な善とする思潮が多数派だと思いますから、たとえ一日でも一時間でも長く生きさせることを優先した判断に傾くことは理解できます。
このへんの問題は、死生観の変容に期待するのではなく、自由を求める患者の運動(ワガママな主張)によって解決するしかないのかもしれません。
>>「終末医療」問題の基本は、医療そのものではなく、死に向かう身内を看取る家族をどうサポートするかにあると思っています。
>第一に患者をどうサポートするかをすべてに優先すべきです。でも、家族の受けを良くしてないといけないのも事実。死人に口無しで、後日訴訟を起こしかねないのは家族だからです。
町医者さんから「患者第一」という言葉をいただき喜んでいます。
国策としては金銭面を含めて看取る家族のサポートを何より考えるべきだと思っていますが、医師には患者を何より優先してもらいたいと思っているからです。
(死にゆくさいには、少しでも家族から暖かい目で看取られたいと思い、経済的負担もかけたくないと思っている人が多いのではないでしょうか)
医療訴訟はたいへんですねとしか言いようがありません。
(個人的には、悪意や低レベルのミスでなければ、そのような医者にかかってしまったのも天命だと思うので恨んだり非難したりしません(笑))
>患者が癌末期で苦しんでるのに、農作物の収穫までは葬式などする暇もないから、なんとかして死なさないで欲しいとか言われる事もありました。悩みました。結局延命策をとってしまいました。家族が自分を訴えなくとも自分を自分で苛めましたが、、。
そのような問題も、死に向かう身内を看取る家族をどうサポートするかに含まれるものです。
延命処置をされたことは、現実をうまく収めたと思われたらいいのではないでしょうか。
姥捨て山に自ら行った人もいるようですから、その方も、自分の延命で農作業の邪魔にならなかったことで少々苦しんでも恨んではいないはずです。
町医者さんには私の終末も看取って欲しいとちょっぴり思っています。
7/10/4

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