自殺や安楽死についての明確な区別の基準がわかりません から続きます。
[質問事項への回答]
>@.医療従事者が医療現場にて、自殺を志願している人に自殺できる条件を整えること(自殺幇助)は、許容できるでしょうか?
法的根拠があれば許容できます。
>A.自殺を志願している人に、他人が注射等で「安楽死」を施してあげた場合はどうでしょうか?
医療従事者ではなく“他人”という一般論なので共感できる場合もありますが、“殺人行為”であり可罰対象にすべきだと思っています。
>B.医師が「安楽死」をするというバーチャルゲームが発売されることを許容できるでしょうか?
許容できます。
>C.いかに自殺者に喜んでもらえるような自殺環境を色々と考え出してあげるかというバーチャルゲーム(18歳未満可)が発売されることを許容できるでしょうか?
許容できます。
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質問への回答と「生」&「死」について投稿者 あっしら 日時 2005 年 10 月 24 日
>「死」を、外的要因がなく自分の意志だけで実現できると考えることができたのはなぜですか?自殺は外的要因無しに、「よし自殺しよう」ということが起こると思われるのですか?どんな場合にそのような事が起こるのでしょうか?
私の「「死」は、身体的ないし外的要因がそれを必然化しなくても、自分の意志で選択し実現することもできる」という部分への問いだと思いますが、身体的要因は病気や怪我を意味し、外的要因は他者から受ける傷害を意味しています。
「よし自殺しよう」は、この世界に関わって生きるなかで生じる意志ですから、様々としかいいようがありません。
>自分の意志が介入する自殺は、外的要因を受けてそして自殺を決意すると俺は思っています。その場合の意志は、「本当は生きたいのだけど、外的要因のせいで生きることはできない。だから死のう。」ということだと思います。これはどこか殺人行為という他者(外的要因)に殺されることに似ていることに気づきます。違うでしょうか?
「生きることができない」のなら、自殺にわざわざ踏み切られなくとも、死んでしまうはずです。
このような状況(状態)で生き続けたくないという判断が自殺に踏み切らせるのではないですか?
>また意志が肉体を滅ぼすのなら、肉体と意志の関係はどのような関係でしょうか?意志もあなたという自己にとっては外的要因のひとつと捉えることができる可能性はあり得ませんか?
意志が肉体を滅ぼすわけではなく、意志が肉体を滅ぼすことになる行為に向かわせるというものです。
意志に限らず感覚や思念の内容は、自己の意識と外的世界との関わりで生成されるものだと思っています。
意志そのものが外的要因だとは考えていません。
>>価値判断とはそのようなものです。
>>そして、それに意味があるからこそ、人はいろいろな営みに励んでいるのだと思っています。
>価値判断を必要としている人に意味があるわけであり、すべての人に意味があるわけでも必要なことでもありません。
価値判断は、必要といったものではなく、不断に行われているものだと思っています。
(あの女を抱きたいとか、ブスな女だなといったものも価値判断です)
>>「死」に対する観念は、死を“予定”されたものと考えている生きている人にとって意味があることで、死そのもの(死んでしまったこと)は、意味あるとしたら死後でしかなく、生きている時点では意味がないと思っています。
>「死」に対する観念は、死を“予定”されたものと考えている生きている人にとっては、意味があることでしょうが、ただしそれは「死」そのものを歪めて捉えてしまっているということです。
どう歪めているいるのでしょう?
死を“予定”されたものと考えるのは、「明日がやってくる」とか「大人になる」といったものと同じレベルではないのですか?
>また、「死」に対する観念は、生きている状況から発生するものであり、それは「死」に対する観念というより、「生きている」という状況に対する観念だと思っております。それらの観念は「死」と同じ次元で語られるべきものではないとも思っております。
「「死」に対する観念は、生きている状況から発生するもの」ということには異論はありませんが、「「生きている」という状況に対する観念」という説明はあまりにも抽象的なのでなんとも言えません。
「「死」と同じ次元」の「死」は生物学的死のことですか?
>>>「死」は「死」であり、「生」は「生」。それ以下でもそれ以上でもない、ただそれだけだと思っております。
>>そのような価値判断も問題ないと思っています。
>>ただ、「生」の真っ只中にあるときにはあまり意味のない価値判断ではないかという思いはあります。
>「死」は「死」、「生」は「生」とは、価値判断のつもりで書いたものではありません。
>そこに善悪は生じていないつもりです。
価値判断は善悪とは限りません。
「「死」は「死」であり、「生」は「生」。それ以下でもそれ以上でもない」という死生観を持っている人もいるわけですから、その表明には価値判断があると言えます。
>また何故意味のないものであるのかがわかりません。価値判断の無い人間は生きることはできないのですか?ただ生きて死んでいくだけの人は、生の真っ只中にはいないのでしょうか?
あまり意味のない価値判断と書いたのは、「生」の真っ只中にあるときに「「死」は「死」であり、「生」は「生」。それ以下でもそれ以上でもない」と考えても、自己にとって、一方は極めて蓋然性が高いが非現実で、一方は現実そのものという根底的な違いがあると考えるからです。
「生」が遮断されるのが「死」であり、「生」にとって「死」は最後の瞬間のことでしかないと思っています。
ひとは、「ただ生きていく」なかで不断に価値判断をしています。
>生まれたものは死んでいくと書いたものが、主観の表明とありますが、 あっしらさんは絶対に死なないものを知っているのですか?
極めて蓋然性が高いとは思っていますが、これからも絶対にそうであるとは言い切れないと考えています。
それは、「絶対に死なないもの」があるという意味ではありません。
>死が不可避なら、それは死が約束されており、避け難いものであり、必ず要するものではないでしょうか?
自分が死んだときに、自分の死は不可避だったと思うかもしれませんね。
>人は、生まれなければならないし、生まれたものは死ななければならない。なぜそんなことを繰り返す必要があるのか?という根本的な意味において使っております。
何度か表明していますが、「人は、生まれなければならないし、生まれたものは死ななければならない」とは考えていません。
「生まれてきたんだ」という思いと「死ななければならないようだ」という思いはあります。
>「なんで生きているんだろう?」→「なんで生まれたんだろう」って。
>だから「死ぬ」という選択をする者の気持ちはよくわかるつもりではいるし、ただ「死ぬ」ということに対しての世間の“悪”だとする観念に対して、果たしてそうなのかと思っているだけです。
「死ぬ」ことを“イヤなこと”と思う人は多数派でも、“悪”だとする観念はそれほどの多数派ではないと思っています。
(自殺も、キリスト教信仰者が多い国よりも日本は“寛容”に受け止める人が多いと思っています)
>>なぜ生まれたかは、生物学的な説明ならできるでしょうが、哲学的ないし宗教的に説明する意味はあまりないと思っています。
>>「生きる意味」の考察に意味を感じていません。
>「自殺」「安楽死」「殺人」等の「死」についての考察をしていこうとするなら不可欠な問いのようにも思えてならないからです。
「生きる意味」を考えなくとも、濃淡はありながらもこの世で「生きていきたい」と思うだけで、「自殺」「安楽死」「殺人」等の「死」について考えることはできるんじゃないでしょうか。
つづきます。

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