「世界の争いごとは、自分の欲得を実現するために意図的に起こされています」
その他
あなたの理想は、“彼ら”との過酷な言論闘争や政治闘争に勝利しなければ近づくことができないものなのですからつづきます。
>そもそも「人の活動原理」というおおざっぱな概念をもち出しながら、それにあたるから無理だというこじつけに、議論のつまらなさ、浅はかさを感じませんか?
だから、あなたがいう「私物化意識」ではないひとの活動過程性としてどのようなものがあるのかと問うています。
(今回は押し付けるという表現が加わったので少しニュアンスが変わりますが、それでも自然物や動物そして人に対して、「自分の思いどおりにしよう」としそれを押し付けるという要素は残ります。納得し切れていない人にも、「とにかくこうやってください」と言ってやってもらう局面もなくならないと思っています)
>現在の「人の活動原理」のうち、的を絞った形の「私物化意識」と言っているでしょ。それは、私が既にそのようなものではないかと説明しています。
その上で、子どもへの暴力や殺人一般を「私物化意識」に還元して説明することはできないと思っています。
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>「私物化意識」のない社会はどういったものかもある程度提示してるでしょ。
>その社会は人が活動しておりませんか?ヘタなこじつけ、我を押し通そうというその配慮のなさに、私は今後の議論をしていこうとする気すら萎えました。
>そもそも私は人を追い込むことに、意味を見出していないというのがおわかりになりませんか?
あなたがひとを追い込むことに意味を見い出しているとは思っていません。
あなたが説明している「私物化意識」がない社会というものもよく見えませんが、あなただけとは言いませんが、ひとの観念としてならありえても、実在はしないと思っています。
人がひとを強制することは大きく減少するし、子どもに対する暴力も殺人も大きく減少するとしても、それらが絶滅することはないと考えています。
既にその方法も少しは考えていると言われた、「私物化意識」の解消方法を提示されるのを楽しみに待っています。
>こちらの質問にはまともに答えようとせずに、自分の土俵だけを意識し、相手の言葉の使い方等を指摘し、本筋をつかもうとせず、気に入らないと排除しようとする発展しない心。それは同じところを常に居続けようとするむなしいものであることに気づきませんか?
おいおい、ふざけるんじゃない!
あなたの質問には真摯に答えようとしてきたと思っています。
「私物化意識」に集約するために積み残した答えを除き、まともに答えようとしなかったあなたの質問は何なのか明示してください。
あなたが子どもの虐待や殺人などは「私物化意識」が問題要因だと認識を共有しなければ議論は先に進められないと言ったから、私は、その理由も説明して「私物化意識」に原因を還元することはできないと言い、議論は続けられないと言っているだけです。
あなたと議論する意味を見い出せないと言っているだけで、あなたを阿修羅という場から排除するつもりはまったくありません。
▼あっしらさん
【「すべてが現実」という理解はしていますが、「すべてが正しいもの」という理解はしていません。
私にとって「正しい」とは、合目的性や合理性を基準に判断するもので、価値判断は含まれていません。
そのような考え方をしていますから、世界には「誤り」が溢れていると思っています。
(ほとんどの人はできるだけ楽に心地よい日々をおくりたいと願っているように見えるし、それが可能な現実的条件があるのにそのような人々の願いは実現されていないことでもわかります)】
>それは究極の理解だと言っているでしょ。
「究極の理解」ってどういう意味でしょう?
>自分が合理的に悪と判断してもそれを排除できないこともあるでしょう。それらに頭を悩ませるよりも、すべては正しいこととすることが前向きなものの見方ではないですか?
私は、自分が「悪」だと判断したことをどうやったら減らせるかを考えます。
なお、「悪」は合理的に判断するものではなく、価値観で判断するものだと思っています。「悪」を減らす方法の可否や効率性は、合理的に判断できると思っています。
>すべてをありのままに受け入れるにはすべてを認めることではないですか?そしてありのままに認めつつも自分の望んだ方向(合理的だと思う方向)へ変えていこうとするのが人間でしょ。
「すべてが現実」という意味でありのままに受け容れていますが、すべてを「正しいもの」としては受け容れません。
「正しいもの」ではないと考えるから、反対したり、変えようとするのではないのですか?(あなたの言いたいことはそれなりにわかっているつもりです。「正しい」という表現は避けたほうがいいのではということです)
>逆に言わせてもらえば、あなたのような考え方をするから、多くのものの行為を受け入れることができずに争い事がおこるのではないですか?(前から思っておりましたが)
壮大な争い事を経なければ、あなたがいう「私物化意識」を徐々に希薄にする現実もつくり出せないと思っています。
世界の争いごとはそのようなことで起きているのではなく、自分の欲得を実現するために意図的に起こされています。
>人間の活動も、木々のゆらめきも、台風も、雨風も、太陽の日照りも、地球の動きも、細胞の動きも、電子の動きも、すべては同じ生命現象でしょ。それらが間違ってますか?
人間の活動を、抽象すればそうも言えますが、それは意味がない抽象だと思っているので、並べられた他の諸事象と一緒にして「すべては同じ生命現象」という見方はとりません。
(人間は、強欲で狡猾で破壊力にも富んだ自分を含む主体的な存在だからです)
>すべてはあるべき姿でしょ。生命の流れでしょ。素晴らしいものでしょ。
詩的表現としては理解できますが、論理としては冗談でしょ。
生命の流れであることは認めるとしても、それらがあるべき姿かどうかなどはわからないことです。
素晴らしいかどうかも、ひとり一人がそれらを目の当たりにしたときに判断すればいいことです。
>人間がどんな行動を選択しようが、それはすべての生命からみた場合一側面であり、一流れであり、間違ったものは何ひとつないことということがわかりますよね。
>間違ったものは何ひとつないが、そこからそれぞれの主体が「いかに生きるか」を考えひとつの生命の流れを決定していくわけでしょ。それぞれの主体が何を選択してもそれは自由です。人間全体がどれを善とし、どの方向へ進んでいくのか、その主体がどれを善とし、どの方向へ進んでいくのか。それがどこへ進んでいくにしろ生命の渦の中のひとつであり、間違っていることは何もない。違いますか?
あなたの気分や詩的表現としてはそこそこわかりますが、論理としてはまったく受け容れられないものです。
「こうなるはずではなかった」と思うことをしたのなら、人にとっては、間違いをしでかしたということです。
>人間が地球を破壊し、存続することができないとしても、それは全体の生命の吐息のひとつです。ただそこに存在する我々がどの方向へ進みたいのか善悪を判断するのは自由であり、その判断すら避けるのも自由です。何をするのも自由です。何をするのも生命の動きであり、間違っていない行為です。
>差異を認めるというのはそういうことではないですか?差異があることが間違っているのですか?決して間違っていないから認めること、尊重することができるのではないですか?
強欲で狡猾で破壊力にも富んだ人間という存在の活動に、「生命の動き」だから「間違っていない行為」という見方をすることはできません。
差異を認めるというのはそういうことではありません。
一人ひとりが好みややりたいことも違い、あることを行う能力にも違いがあるということを認めることです。
>以前あなたが言っていた「どうこういっても、人は悪を為すものであると思える。」と決め付ける方に問題があると私は思いますね。
私の判断が誤りで、悪が為されず罰の適用もない状況になれば何よりもいいことだと思っています。
人は、「善」と思い込みながらしゃかりきに取り組み、あとになって「悪」だったとうなだれることを繰り返しています。
人間は強欲で狡猾で破壊力にも富んだ存在でありながら、全知全能ではない存在ですから、これからも、「えっ、こんな結末になるんだったら、あんなことをするんじゃなかった」と反省を繰り返すだろうと思っています。

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