「「産業資本主義」の終焉」シリーズもそろそろ収束の段階に入ります。
補足的な説明は適宜加えるつもりですが、全体としてはレスでリストアップしている参照投稿をお読みいただいているという前提で説明させていただきます。
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長期化した「デフレ不況」の原因について、需要が不足している!という説明がある一方で供給が過剰だ!という説明も飛び交う。
原因に関して合意が形成されていないのだからまともな対応策が合意できるはずもない。
仮にうまく対応できたとしてもまぐれ当たりの結果オーライでしかなく、次の機会では外れてしまうだろう。
需要と供給は同じコインの表裏である。
需要不足に対して供給過剰だと言って反論するのは、貨幣表現の需要と物理表現の財供給量を比較してあれこれ言う算数レベルの誤りである。
同じコインの表裏というのは、他者の供給活動がなければ財やサービスを手に入れられないのだから供給なくして需要はないこと、ほとんどのひとは供給活動に従事しなければ財やサービスを買うお金を手に入れることができないのだから供給なくして需要はないことに拠る。
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「産業資本主義」の終焉:「貨幣経済」と「供給→需要原理」:経済問題を考えるための基本論理投稿者 あっしら 日時 2004 年 8 月 10 日
需要と供給は、分離できたり対立するものではなく一体なのである。
需要不足は一般的に金額で語られ、供給過剰は一般的に財の物理量で語られる。
需要不足なのか供給過剰なのかという対立は、一方は100兆円の需要では足りないと言い、もう一方は1億個の供給は過剰だと言っているようなものだから、議論の接点や共通の土俵がなく対立するものでもない。
金額と物理量という異質のものである、100兆円の需要と1億個の供給を比較してバランスがとれているかどうか判断することはできない。
(5個のリンゴと1000円はどちらが多いか少ないかを論じているのと同じだから算数レベルの誤りである)
100兆円の需要と110兆円の供給だとか、1億個の需要と1億100個の供給という同質の数値を比較するものでなければ意味はない。
供給には財の物理量だけではなく金額があることを失念しているひとが多すぎる。
「供給活動がなければ需要もない」ことや「貨幣経済」であるという根源的論理を理解しないまま経済問題が語られている現状は大きな悲劇である。
もっともらしい説明体系をまとめている“経済学”が、「供給=需要」であることさえ理解していない現状に驚くばかりである。
■ 「貨幣経済」の意味
「近代経済」の特質は、「貨幣経済」の普遍化である。
貨幣は前近代から存在しているが、生産活動が貨幣を得るための“商業行為”になったことが、「近代」と前近代を区分する指標であり、「貨幣経済」の普遍化事象である。
「貨幣経済」とは、生産活動が“供給活動”に転化した経済社会である。
農家などは生産物を自家消費しているが、生産活動が、自己(家族)のためではなく、お金を得るため、すなわち他者のために行われるようになったのが「貨幣経済」である。
前近代の商業は、大土地所有者や物納を受ける支配層などが保有する余剰の財と他者が保有する魅力的な財を交換することが主たる内実であったが、「近代」では、活動力しか売るものを持たないひとを含めてあらゆるひとが“商人”になることを強いられる。
(これが「法のもとの平等」の基礎でもある)
経済社会を「貨幣経済」に誘う制度は租税の金納である。
物納と労働力供与が基本だった租税が金納化されることで、農民にも“商人”的性格が求められ、「近代」=国民経済の扉を開く。
租税が金納になることで、生産活動が否応なくお金を得るためのものへと急激に変容していく。明治維新後の「地租改正」が日本近代化の入り口である。
売買の相手である他者なしで経済活動が成り立たない「貨幣経済」は、自ずと経済活動のGDP的連関性(社会的分業)を高める。
自己の経済活動が他者に影響を与え、他者の経済活動が自己に影響を与えるようになり、自覚しないとしても、見知らぬひととも抜き差しならない経済関係で結ばれる。
このような経済関係性が、国民国家的統合の強化を求め、輸送及び商業体系の整備を進め、貨幣的価額で分析し評価できる国民経済を確立する。
人々は、直接的で生き生きとした相互扶助的関係性や個別的実存としての意味性を剥ぎ取られ、経済論理に隷属した抽象的“経済人”や国家を構成する国民として位置付けられる。
目で見え確かな手触りが感じられる感性的な世界ではなく、抽象的な論理がひとり一人の在り様を規定する世界に置かれるようになる。
農民でさえお金なしでは生存できなくなるのだから、お金を手に入れることがすべてのひとにとっての基本的な生存維持活動となる。
このような「貨幣経済」の確立が“経済学”の存立基礎である。
「貨幣経済」ではなく、自己(家族)のために生産活動を行なうことが基本となっている経済社会では人々の有機的連関性が希薄で経済活動を貨幣的価額で評価することもできないから、“経済学”という説明理論体系は成立せずその必要性もない。
貨幣の基本機能は、「交換手段」と「富の蓄蔵」である。
「交換手段」とは、様々な供給活動で行っている人たちの活動力を貨幣を通じて部分的に交換することであり、GDP的連関の分節をつなぐという意味で近代貨幣の基本機能である。
米を生産している経済主体が米を販売して得たお金でビールや衣服そして家電製品を購入し、家電製品の供給活動に従事しているひとが給与として得たお金で、米やビールそして衣服を購入する・・・・という網の目がGDP的連関であり、表面的には財の交換のように見えても、内実は(供給)活動力の交換である。
「富の蓄蔵」は、それがまとまった「支払い手段」として固定資本(生産手段)や流動資本(人件費や中間財の仕入れ)として使われることに経済的意味がある。
株式会社や銀行制度の確立により、不特定多数の富の蓄積が、ある個別経済主体の資本に転化するようにもなった。
「近代経済システム」は利潤獲得を動因としているが、利潤の目的は贅沢や散財ではない。
資本の増殖すなわち固定資本の増大で生産性の上昇を実現し、より大きな利潤が得られる条件を手に入れることが利潤の基本目的である。
固定資本の増大こそが、競争に打ち勝つ唯一の手段であり、企業の存続条件である。
利潤の目的が成金趣味や贅沢を満たすものでもなければ、守銭奴的な自己目的的蓄財でもないことが、アダム・スミスの蓄財擁護論やマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」的論考の妥当性を支えている。
また、だからこそ、日本のような国家主導近代化や“開発独裁”そして「共産主義国家」といった“非市民社会”の経済的合理性を指摘することができる。