■ 近代経済システムを根源的に規定する「供給→需要原理」
「貨幣経済」は、お金がなければ必要な財や欲しい財を手に入れることができない現実を日々再生産することで経済社会に決定的な規定性を与える。
その決定的な規定性とは、「供給→需要原理」である。
それは、供給がどのようにして行われるものであるかを考えるとすぐにわかる。
供給活動を行うためには大量のお金(資本)が必要であり、資本は、生産手段・原材料・労働力を購入する手段になるものだから、そのまま他者にとっては需要である。
「供給活動がなければ需要もない」は、欲しい財の存在性だけではなく、このような意味を含んでいる。
供給活動がそのまま需要であるという理解は、「近代経済システム」(産業資本主義)を認識するための要諦である。
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この意味で、(新)古典派が尊重する「セイの法則」は、正しく理解すれば極めて重要な経済原理である。
セイの法則の基礎は、「供給はそれ自身が需要をつくる」というものである。
これを「供給した量だけ需要は発生する」と誤解してしまうと、現実に合わないあやしい御託宣になってしまう。
セイの法則は、「供給活動に投じた金額が需要になる」と理解することで生き生きとした現実論理になる。
グローバリズムは、国民経済という枠組を基礎とした認識では見えにくかった「セイの法則」をスッポンポンのままで白日のもとに晒すことにつながる動きである。
国民経済的視点では曖昧だった「世界で供給活動に投じられた金額が世界の需要になる」という論理がリアルに見えるようになる。
「世界で供給活動に投じられた金額が世界の需要になる」のは“最善値”であり、高額所得者や優良企業は所得や利潤の一部を財やサービスの需要に支出しない性向があるので、「世界の需要は、世界で供給活動に投じられた金額を最大値とする」と言ったほうがより妥当である。
供給活動に投じられた金額ほどの需要もないということは、一部の企業は利益を上げられるとしても、企業全体としては“赤字”になることを意味する。
これが、「産業資本主義」が終焉する基本論理である。
「供給→需要原理」を簡単な論理的モデルで考えてみる。
【前提条件】
経済主体Aのみが貨幣的富を蓄蔵しており、他は、現物資産や活動力しか保有していない無一文者である。
企業所有者は労働者でもあり給与を得る。
【経済活動過程】
● 経済主体Aは、消費財を供給しようと考え、蓄積していた貨幣的富1000単位を資本化した。
資本となった貨幣1000単位の用途は、生産手段550単位・労働力300単位・中間財100単位・土地建物所有者賃貸料50単位という内訳だとする。
● 機械装置製造者である経済主体Bは、Aの発注で得た前受け金550単位で、製造に必要な労働力350単位・中間財200単位を購入した。
● Bの機械を製造するために必要な中間財(鉄鋼など)を生産する経済主体Cは、Bから得た200単位で労働力200単位を購入した。
● Aが消費財を生産するために必要な中間財を供給する経済主体Dは、Aから得た100単位で労働力100単位を購入した。
※ ここまでの説明で、供給(活動)が需要であることがおわかりいただけると思う。
1000単位の資本金を持つ経済主体Aが供給活動を始めようとしたことで、B・C・Dという経済主体に需要が発生し、土地建物所有者への50単位以外はすべて労働力の購入に向けられたことになる。
(労働力購入:A300単位・B350単位・C200単位・D100単位:合計950単位)
Aにとっては財(モノ)に支払ったように見えても、内実は人々の活動力に支払っているのである。
GDPの構成要素である付加価値も、この例では1000単位である。
● 消費財供給経済主体Aは、1000単位のお金で購入した生産手段・労働力・中間財を使って消費財を500個生産した。
【消費財市場】
A以外はお金を持っていないという前提だから、消費財の需要額は、いろいろなところで供給活動に従事した人たちに支払われた950単位(A300単位・B350単位・C200単位・D100単位)と土地建物を貸したひとに支払われた50単位の合計1000単位である。
これは、消費財供給の経済主体Aが供給活動のために投資した金額そのものである。
消費財が必需品で500個が不可欠の量であれば全量が売れる。そのとき財の価格は、1000/500だから2単位になる。
経済主体Aは、供給活動で投じた金額1000単位をすべて回収できる。
【再生産過程と消費財市場】
経済主体Aは、再び500単位の消費財の生産にとりかかった。
すぐにわかるように、生産手段は耐久財だから、次の生産サイクルではメンテナンス費用しか支出する必要がない。
このため、経済主体Bに支払う金額は10単位になり、経済主体Cに対する需要はゼロになった。
2サイクル目の供給活動に投じられる額は、460単位と初回よりも540単位も減少した。
Aの供給活動により、再び500個の消費財が供給された。
経済主体Aは540単位の貨幣を使わないまま保有しているが、他のひとたちが手にしているお金は460単位しかないのだから、供給する財を全量売ろうとしたら、単価は0.92単位になる。
経済主体Aには「そんなバカな!前回と同じ2単位でしか売らない」と叫ぶ自由はあるが、そうしたとしても、無い袖は振れないのだから、消費財は230個売れて460単位のお金を回収できるだけである。
消費財が腐敗するものなら、経済主体Aがなにがしかを消費するとしても、残り270個のほとんどを捨てるハメになる。
どうしても単価2単位で全量を売りたいのなら、自分のお金で残った270個買うしかない。
これが、「セイの法則」の基本である。
モデルに他の消費財経済主体や競争関係にある消費財経済主体がないからそうなるのではないかという疑問が提示されるかもしれない。
他の消費財経済主体の存在はこのモデルに影響を与えない。経済主体Aが何でも屋で様々な消費財を供給しているのと同じである。
それぞれの消費財経済主体が供給活動に投じたお金の合計が需要になることに変わりはない。
もう一つの競争状況は、確かにモデルに影響を与える。
【競争状況】
消費財供給経済主体Xが存在し、経済主体Aと市場で競合する財の供給活動を行なうとする。
両者がともに供給する財の需要量が700個しかないときに、Aが500個でXが500個の合わせて1000個を供給しようとする。
生産性の悪い経済主体Xは供給活動に600単位投資し、生産性が高い経済主体Aは460単位投資した。供給額(=需要額)は1060単位である。
経済主体Aは単価1.2単位で販売しようとし、経済主体Xは単価1.5単位で販売しようとした。
この場合、Aは500個を全量売り600単位を回収し、Xは残る需要量200個だけを売って300単位を回収するできるだけである。
(総需要額は1060単位だから、両者が回収した金額の合計である900単位はその範囲内であり、供給額>=需要額(需要額は供給額が最大値)という原理に適合している)
Aは140単位の“利潤”を獲得し、Xは300単位の損失を被ったことになる。
(Aの“利潤”はXの損失から得たものだから、XからAへの貨幣的富の移転である。国民経済的には貨幣的富は増加していないという意味)
潜在需要額として160単位が残っているが、両経済主体が絶妙な価格設定(Aが1.4単位でXが1.8単位だとか)をしていれば、Aが700単位を回収し、Xが360単位を回収できる。
この場合、Aは240単位の“利潤”を獲得し、Xは240単位の損失を被ることになる。(供給活動を通じて、XからAに貨幣240単位が移転したことになる)
Xが損を覚悟でAの価格に合わせて販売すると、両者がそれぞれ350個を売り、420単位ずつ回収することになる。
無闇な価格競争で両者が損失を被ったわけである。
(Aの損失は40単位、Xの損失は180単位。Xはこのようなかたちでも全量を売るほうが損失は少なくて済む)
消費者(=供給活動従事者)は、このサイクルで220単位をお金を手元に残すことができる。しかし、AとXは次の再生産過程をこなすことができないから、次の所得が得られる機会を失うことになる。
(※ 消費財の需要量が1000個でAとXが1000個を生産している場合は、価格差はあっても全量がきちんと売れ、供給に投じたお金を全額回収できる)
「規制緩和」や「レーガノミックス」の誤りは、このような現実を生み出すことを考慮していないことにある。
「規制緩和」で供給活動が増え一時的に需要が増加することは間違いないが、新たな供給活動=需要でない限り、破綻企業を生み出して終わる。
サプライドサイド経済学は持続的な経済効果を生む理論ではなく、うまく立ち回れる金融家だけが利得を手にするだけで終わる理論である。
(金融家の利得の後ろには損失を被った人たちがいる)
※ 参照投稿
『「
規制緩和」や「民営化」の末路は米英の歴史的経験から見えてくる。』
ここまでの説明を整理すると、
● 供給活動に投じたお金が供給された財に対する需要額を決定する。
● 近代の供給活動に必須の機械装置(固定資本全般)に対する需要は、財に耐久性があることから“一過性”である。
この二つが、「近代経済システム」(産業資本主義)を貫いている根源的な論理である。
しかし、外部に経済社会が存在する国民経済という枠で考えたときは、ある条件をつくりだすことで、この二つの規定性(制約)から逃れることができる。