「利潤なき経済社会」という予測を提示してしまったのだから、今さら躊躇う必要もないのだが、現状の経済問題を解消することが第一義だと考えている“微温主義者”としては、提示する政策が一人歩きすることを危惧しておりグランド・デザインを示すことに なお躊躇いがある。
それは、「利潤なき経済社会」では経済学が通用しないと書いたように、「近代経済システム」と「利潤なき経済社会」では経済論理が根底的に異なるからである。
(現実向けの主張と未来向けの主張が混同されて論議される事態を避けたいという思いがある。「おまえは精神分裂病(統合失調症)か」と思われるほどの落差なのだから...)
これから書く内容は、現実のことではなく、あくまでも将来のしかも“まともな”「利潤なき経済社会」を想定した説明であり、現実の「デフレ不況」をめぐる政策提言とは無関係の内容であると受け止めていただきたい。
(内容を読まれれば、なぜ書くのを躊躇っているかもご理解いただけると思っている)
現在はグローバルな経済システムのなかで経済(生存)活動を行っているのだから、そのような現実を無視して、日本のみが「利潤なき経済社会」の経済論理に移行できるとは考えていない。
(そのような“軽挙妄動”は、軍事攻撃さえ覚悟しなければならないとまで考えている)
とりあえずは、「利潤なき経済社会」がどういう社会なのかをイメージする参考になればと考えている。
この段階では抽象にすぎる表現になっているが、能力の限界はご了承いただくとして、徐々に具体的説明を行っていくつもりである。
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「利潤なき経済社会」に生きる 「利潤なき経済社会」の“経済論理” 〈その3〉 投稿者 あっしら 日時 2002 年 9 月 10 日
■ 輸出超過は活動力の壮大な無駄である
これまでの書き込みでは、貿易収支の黒字こそが“真実の利潤源泉”と主張してきたが、「利潤なき経済社会」では、輸出超過(貿易収支の黒字)をめざすこと自体が愚かな所為となる。
輸出は、国民経済で供給できない不足を輸入で補うために行う経済活動であって、それを超える輸出を追求することは、国民の活動成果を外部に流出させてしまう愚かで無駄な行為である。
輸出超過になるのなら、その分生産活動を抑制し、休息するなり遊ぶなりするほうが、国民生活の満足度や資源の消費を抑えるという観点から見て好ましいことである。
もちろん、“必需財不足”に苦しんでいる外部国民経済があるのなら、そこのために喜捨的ないし慈善的に生産活動を拡大して輸出したほうがいいと合意されることもあるだろう。
また、エネルギーや鉱物資源を中心に、自前で調達できる資源の利用法開発や消費した資源の再生サイクルを追求することで、輸入の必要度合いを下げるべきである。
■ 市場原理の基礎が「供給=需要」から「需要=供給」に変わる
これも、「供給が需要を生み出す」というセイの法則まで持ち出し、供給=需要であり、供給の増加こそが需要の拡大であり「デフレ不況」を解消すると主張してきた従来の書き込みとは大きく異なる。
需要と供給が左右入れ替わっただけではないかと思われるかも知れないが、「供給してから需要を待つ」という構図と「需要があるから供給する」という構図は言葉の違い以上の根底的な変化である。
需要がなければ、供給(生産)されなくなり、無駄がなくなるとは思わないが、“過剰供給(生産)”はなくなる。
● 具体的な財種別による生産優先度の明確化
貨幣経済の普遍化は、「必需財」・「利便財」・「奢侈財」・「快楽享受財」といった財の需要性格区分を曖昧にし、売れる(利益が得られる)ものと売れない(利益が得られない)ものという二項区分に収斂させてきた。
その行き着いた先が、もっとも優先度が高い「必需財」であるはずの食糧の自給率が40%という日本の姿である。
「需要=供給」に変わることで、「必需財」→「利便財」→(「奢侈財」・「快楽享受財」)という財供給(生産)活動の優先度が自然と明確になる。
● 生産者(供給者)と消費者(需要者)の一体化
消費者もしくは生活者重視という言い方もなされているが、生産者と消費者という分断対立的意識情況は近代特有のもので、需要=供給になることで解消されていくだろう。
家族単位で考えれば、生産者(稼ぐ)と消費者(消費する)が同一であることは自明である。消費者重視というスローガンが持ち出されること自体が、「近代経済システム」が内包している矛盾の現れである。
● 経済活動は財的な欲求実現活動となる
まともな「利潤なき経済社会」では、GDP的経済指標を気にする人はいなくなるだろう。
経済活動は、通貨を獲得する活動ではなく、財に対する欲求実現活動や必要な用役の提供活動になるからである。
● 義務的労働従事時間は大幅に削減される
現在の「労働価値」(生産性)レベルでも、現在レベルの財や用役を供給するためであれば、週休4日でさえ可能であろう。
需要=供給になれば、どういう財が供給可能なのかという情報が必要なだけで、需要を喚起する活動である営業は不要になる。
(これは財や用役の供給活動に従事できる人口が増加することを意味するので、輸出入均衡と相俟って、一人一人に要求される勤労時間は大きく減少する)
まともな「利潤なき経済社会」では、人々の活動(生活)パターンが大きく変わることになる。
■ “余剰労働”の在り方
“余剰労働”とは、
1)子供・老人・病気・怪我など、労働ができないもしくは免除された人々への財や用役の供給活動
2)道路や公共施設などの社会的インフラやその他の国家的需要を満たす財や用役の供給活動(生産設備など生産財も、社会的インフラと考えられるようになるかもしれない)
である。
非就労状態の人々も当然のように供給を求めて需要を主張できるし、ある種の需要が満たされれば、それでまでできなかった労働(活動)ができるようになる場合も多いだろう。
とりわけ、用役の供給は、身体的条件で就労できない人々に対するものが優先的なものと考えられるはずである。
ここでイメージしている用役は、教育・医療・看護・“日常の世話”などであり、“日常の世話”は家族が第一義的に行うとしても、サブシステムとして、家族が負う期間や量の軽減をはかる用役の提供が必要と了解されるだろう。
社会的インフラの整備は、現在のように経済成長を促進する手段という性格は消え、地域維持にとっての必要性や利便性、さらには「開かれた地域」間の関係をスムーズに維持することを目的として行われることになる。
現在は“余剰労働”を税負担というかたちで提供しているが、まともな「利潤なき経済社会」では、活動力の提供に置き換わることになると考えている。
そして、自己(家族を含む)の必要(欲求)を満たす活動も“余剰労働”も等価の活動として扱われるだろう。
(余剰労働に従事すれば、自己が必要とする財や用役の供給を受けられるというイメージで受け止めて欲しい)
■ 通貨の性格変化
資本すなわち保有通貨の極大化を目的として動いている「近代経済システム」から、これまで書いてきたような経済活動を基礎とした「利潤なき経済社会」に移行することで、通貨の役割も、根底から変更されることになる。
● 通貨から蓄蔵手段が消滅する
通貨は、活動力の交換手段として位置づけられ、使われないまま貯め込まれるという“余剰通貨”問題は存在しなくなる。
人の活動力そのものが保存できないものだから、その表象である通貨も蓄蔵できないものとなる。
これは、「近代経済システム」においても同じ論理が通底しているのだが、愚かにも理解されていないだけである。
デフレ不況の根源要因である“余剰通貨”問題の発生は、基本的に、通貨の蓄蔵性に拠るものである。
供給(活動力)に見合う需要(通貨)がなければ、デフレ不況になるのは自明である。
デフレ不況になるということは、無駄な供給(組織された活動力)が行われていたり、需要を実現する条件である通貨的“富”が歪んだかたちで配分されていることの反映である。
(かつてそれが見えなかったのは、赤字財政支出でごまかしていたからである)
前述の“余剰労働”が十全に機能していれば、老後・病気・怪我などに備えた貯蓄も不要であり、将来の生活及び生存を支える手段としての通貨蓄蔵は意味がなくなる。
(住宅など個人ないし家族の活動力を対価としてはなかなか補うことができない大量の活動力を必要とする家族向け財の供給については別の機会に説明したい)
一般的交換手段という通貨機能はそれなりに重宝なものであるから、活動力の交換を行う手段として有効かなと考えている。
● 通貨の貸し出しを通じた利息は公的にはなくなる
一般的交換手段としての通貨が存在する限り、それを貸して利息を得るという行為はなくならないかもしれないが、公的には認められなくなるだろう。
(破滅的な性格で、借りてまで酒を浴びる人もいるだろうからね)
● 銀行は決済システムとしてのみ残る
貸し出しを通じた利息の取得が認められないのだから、銀行は、決済機能のみを担うことになり、現在の銀行とはまったく性格が異なる経済主体となる。
この他、土地や生産手段の所有形態問題などもあるが、所有と排他的占有の違いなどをきちんと区分けして説明したいと思っているので、ここでは、プライベートなものは私的な専有対象として扱われ、パブリックなものは、地域・国家など重層的な共同体組織が用途の違いで管理主体の位置に立つというレベルでとどめておきたい。
(河川・エネルギー・交通体系などで地域を超えて機能する部分のインフラは、地域ではなく、国家が管理主体となるべきである) 10/4