●西洋文明とつき合うための第一歩
ヨハネの福音書には、「はじめに言葉ありき」と記されている。言葉は神の象徴であると同時に、契約を交わすための重要な手段でもあるからだ。
神との契約を履行するために契約を守って生きるのが、キリスト教徒である。
人々は聖書を読むことで、人生をどのように生きていけばいいのか学んでいた。
聖書に記されている言葉は、ひとつ一つ重要な意味を持っている。実際、言葉は契約の一種と考えてもいいだろう。
西洋文明では、ほとんど言葉だけで意志を伝え合い、言葉で取り決めた契約によって、社会を守ってきた。そのせいで、どちらかというと言葉に頼り過ぎる傾向がある。絶えず言葉を用いて自分を主張しなければ、だれも認めてはくれないのである。欧米には、相手の気持ちを察するような、言葉を使わずに意思の疎通をはかる文化がないことに注意する必要がある。
日本では、言葉だけで、意思を伝え合ったりしない。信用社会では、言葉より信用で判断するからだ。日本人があいまいな言葉を頻繁に使うのも、すべてを言葉で解決しようとしないせいだろう。
言葉のあいまいさは、寛容にもつながり、決して悪いことではない。だが、西洋文明とつき合うときは、言葉の扱い方に注意しながら、自分の考えを正確に伝える必要がある。「相手はわかってくれる」では、完全に失格である。
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欧米人の言動を見れば、言葉がいかに重視されているかが良くわかる。責任のある立場の人間になると、あいまいな表現や誤解を招く表現は一切使わず、適切な言葉を選びながら、ひと言一言かみしめるように話していることに気づくだろう。また、相手が少しでも誤解したと思えば、すぐに訂正するところにも注意が必要である。
発言の中でもとりわけ重要なのが、だれがどういったと著名人が使った文句を頻繁に引用することである。言葉の独創性を高く評価すると共に、だれが何を主張したかを重視する文明で、いい加減な言葉を使うなど許されないことだ。
少し前の話しだが、日本で外国人を外人と呼んでいることが、かなり大きく報じられたことがあった。日本人にしてみれば、単純に言葉を省略しただけのことが、言葉の扱い方に厳格で、しかも差別語に敏感になっている文明では、思わぬ誤解を受けてしまうのである。
西洋文明は、言語文明であるといっていい。あいまいでも許される信用社会と何でも明確にしなければならない契約社会とでは、言葉に対する社会の認識と取り決めが、まったく異なっている。言葉こそ、欧米社会のすべてだからだ。
●欧米企業と日本企業の違い
日本企業が欧米企業と取引している姿を見ると、大半は信用を求めているように思う。取引してもう長くなるので「先方は信用してくれているはず」とつい自分勝手な錯覚をおこしているのではないだろうか。
カエサルがブルータスに裏切られ、殺される有名な故事がある。これはたとえ「どんな人間でも、信用してはならない」という教訓である。「カエサルを裏切ったブルータスは間違っている」という教えではない。
欧米とつき合うなら、最低でも契約社会を前提にする必要がある。契約関係で成り立つ人間を相手にするなら、それに即した対応をするのが当然だろう。
契約がすべての基本である文明では、結婚でさえ神の前で交わされる婚姻契約がある。もちろん、家族やとくに親しい友人との間には、日本に近い信頼関係も見られるが、基本的に信用社会ではないため、夫婦の間でさえ信頼関係が弱くなると、あたかも契約にしばられて一緒に住むようになる。
夫婦関係でさえそうなのだから、もし長年取引してきた会社からいきなりそっぽを向かれたとしても、別に不思議でもなんでもない。その理由は間違いなく、取引を続けていてもメリットがない、儲からないと判断されたからだ。契約取引は、信用取引と比べると確かに合理的だが、その反面人情に欠け非常にクールである。
個人主義の文明では、契約関係の方があっていることは事実だが、すべての信頼関係がなくなってしまうと、ものすごく殺伐とした住みにくい社会になる。現実に、人々の間に信頼関係がなくなってしまったアメリカでは、失った信用を取り戻すべくさまざまな試みがされている。
たとえば、他人を信じられなくなった人々を集め、互いに秘密を明かさせることで信頼関係を回復する試みである。おかしく聞こえるかも知れないが、この方向性は正しいのである。なぜなら、高度な信用社会を作り出した日本でも、つい数十年前までは、秘密を作ることを悪いことだと思っていた。いまではかなり変わったが、元々これほど異なる文明がつき合っていたから、貿易でも問題は絶えなかった。
日本の会社は、信用社会を前提にしており、欧米の会社は、契約社会を前提にしている。社会の基本構造から異なっているのだから、取引の仕方から労使関係さらには経営全体に至るまで、さまざまな違いがあって当然だろう。ではその違いは、具体的にどこから生まれているのだろうか。
欧米の会社が、日本と根本的に異なるのは、株主が会社の経営権を握っている点である。投機家で占められる欧米の株主は、目先の利益にしか興味を示さない利益至上主義の権化である。株主にとって会社の株価が上がることが自分の儲けになるので、株価を高くすることが会社経営の基本方針になる。
株価を上げるには、コストの削減が一番手っ取り早い。経営における最大のコストは、人件費である。だから景気が悪くなって売上が下がると、余った労働者を解雇して利益を上げようとする。利益が上がれば株価も上がる。その場しのぎには違いないが、短期的に見れば有効な策である。
首切りは、短期間に株価を上げる魔法の杖である。労働者を解雇するだけで、何ひとつ努力しなくても簡単に収益アップが望めるのだ。目的は株価を上げることだから、それが確実にできる首切りがもてはやされるのは当然だろう。
もちろん、このような横暴は、労働者にとって死活問題である。おとなしく従っていれば、会社にいいように切り捨てられてしまう。だから自分たちの生活を守るためにも、労働組合を作り何としても阻止しようとする。日系企業に労働組合がないのは、労働者が満足しているからに他ならない。
株主から経営を託された社長は、邪魔な組合を押さえ込み、ひとりでも多く首を切ることに奔走する。いつまでも株価が上がらないと自分の首が切られるので長期的な視野に立った経営者はほとんどいなくなる。
労働者を大量解雇した倫理的、社会的責任が問われないのは、金儲けのためなら手段を問わない強者優先の文明だからだ。欧米人が頻繁に口にするビジネスとは、金儲けのことである。儲けるための作業だから、不要なものは切り捨てるのが鉄則である。
欧米型経営が、利益至上主義という強者のための契約関係であれば、異文明の日本では、共存共栄という弱者をいたわる信頼関係になった。
日本型経営は、欧米企業とは正反対の道を歩んだ。欧米が簡単にやる首切りをしない代わりに、それ以外のありとあらゆる方法でコストを削減し、利益を出すことを目指した。労働者とは対決せず、会社のために勤勉に働かせることで利益を上げようとしたのは賢明な策だった。
日本は信用社会であり、団体主義である。会社への帰属意識は、契約社会で個人の利益を最優先にする欧米と比べれば格段に強く、相互の信頼関係の基盤となる終身雇用制の採用は、理にかなっていた。
近年、急速に悪者扱いされるようになった終身雇用制だが、これは会社にとっても悪いことではなかった。雇用を保つことは、短期的には会社の負担になるが長期的には熟練労働者に育てあげ、そのまま自社に保てるメリットがあったからだ。
欧米に、とくにアメリカに終身雇用制がないのは、人件費を抑えるには、低賃金で雇える単純労働者の方が安上がりと考えたからだ。移民の国だけに、単純労働者ならいくらでも雇える環境にある。アメリカの労働者の質が低いのは、単に経営方針の違いからきていた。
また、目先の利益を追う観点からも、単純労働者の方が都合よかった。不況になれば首を切ればいいし、人手が足りなくなれば雇えばいい。そして、どうしても必要な熟練労働者は、よそから引き抜けばいいと割り切っていた。解雇される労働者を無視すれば、確かに合理的な方法である。
労働者の合理化は、いまにはじまったことではない。一五世紀末におきたイギリスの囲い込み運動は、合理化のはしりといえた。最初の囲い込みは、毛織物産業のため、二度目の囲い込みは、農業のためである。それまで働いていた小作人を無慈悲にも農地から追い出し、農業の合理化をはかった。このあぶれた人々が、行き場もなく都市へ流れ込み、後の産業革命の担い手になるのである。
しかし、そこも人々の安住の地にはならなかった。先の発展途上国で暮らす人々とまったく同じ状況に陥ったのである。産業革命期の搾取が、いかにすさまじかったかは、当時の労働者の健康状態、そして平均年齢にあらわれている。現在ではかなり改善されたが、欧米の労働者がこの延長線上にいることがわかれば、容易に理解できるだろう。
本物の資本主義では、弱者は常に搾取され、切り捨てられる運命にある。会社は、労働者を利用するだけ利用して捨てるので、労働者の方も、会社を自分のキャリアを積むための場としか考えていない。だからキャリアを積んだものは、少しでも給料のいい会社をと渡り歩こうとする。
近年では、頻繁な首切りと引き抜きと転職のせいで、アメリカの労働者からプロ意識が消えてしまった。どの会社も、進んで労働者を育てようとしないので、熟練労働者の数が減少し、逆に仕事に不慣れなものや、熱意の欠片もないものが増え、産業が底辺から揺いでいる。
文明に根本的な違いがあるため、どちらの経営方式がいいかは問えないが、アメリカの会社は、首切りをすることで一部の人間だけが儲け、日本の会社は、いくぶん労働者に妥協して、利益を分かち合っていたところに違いがあった。
日本型経営は、欧米の搾取型経営を日本に合わせて作りかえたもの、すなわち西洋文明の常識を日本の常識に作り替えて成功した数少ない例といえるだろう。
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西洋文明の常識 森川 明氏著
本論文は以前ホームページ上で公開されていました。
大幅に加筆されたものが工学社によって出版されています。
西洋文明の常識
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