●自由と平等の後始末はだれがする
アメリカは、自由の国であり平等の国といわれる。確かに、民主主義の象徴は、素晴らしく聞こえる。しかし何でも自由に、何でも平等にしたらどうなってしまうだろうか。そんな無謀なことを実践してしまったのが、アメリカだった。
生活をするのも自由、仕事をするのも自由、犯罪道具を手に入れるのまで自由である。何でもかんでもすべて個人の自由にしてしまったため、ついにアメリカは無法地帯と化してしまった。
あるアメリカのリポーターが、アメリカは内戦状態にあると評していたが、冗談のような真実である。ただ道を歩いているだけで、撃たれたり、刺されたりするのだから、もはや国家としての機能を果たしていないのではないだろうか。
いまのアメリカは、国民の生命さえ守れない国なのだ。
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あるヒーローものの映画では、アメリカのおかれた現実を痛烈に皮肉った場面がある。映画の世界にすむ悪玉が、特別な魔法を使って現実の世界へ飛び出してしまうのだが、そこで彼が目にしたものは、たかがクツ欲しさのために街中で人が殺される場面だった。
それだけでも十分に驚くべきことだが、通りを歩く人々は、まったく無関心で騒ぐ様子もない。そこで試しに、悪玉も人を殺してみた。つまりとても悪いことをしたわけだが、それでもだれも気にも止めないこと驚き、喜ぶのだった。
映画の多くはフィクションであり、現実ばなれした架空の世界を楽しむものだったが、驚くべきことにアメリカでは、現実の世界が映画に追いつき、追い越してしまった。
自由という思想は、我々の文明にはなかった。欧米は、これを知って馬鹿にしたが、自由とはある意味で、無法にも近かった。なぜなら、好き勝手なことをするための大義名分として用いたからだ。自由の定義の範囲が、あいまいで非常に都合がいいことに注意して欲しい。
本来であれば、自由ではなく権利を主張すべきだろう。実際、自由の前に権利を叫んでいた時代があった。しかし権利の裏返しには、義務がある。権利を主張するなら、同時に義務という責任も果たさなければならない。
文明の中でも、とりわけ独立心の強かったアメリカの民衆は、だれかに強制されたり、束縛されることを極端に嫌う。そこへイギリス本国が、義務だけを押しつける植民地政策で圧迫してきたため、その反動から権利だけを求める自由が叫ばれるようになった。
義務から逃れるための自由だったから、いつかは暴走するのは目に見えていた。
アメリカも、昔からあれほどひどかったわけではない。少しずつ少しずつ、悪い方向へとエスカレートしていった。
一九六〇年代は、不寛容の時代から寛容の時代へと移行するアメリカの変革期だった。リベラルの新しい流れが生まれ、西洋文明としては画期的な多様性への寛容を見せた時代だった。
この変革の意義は大きかったが、西洋文明は何をやるのでも極端なのだ。何にでも見境いなしに多様性を認め、すべてを個人の自由にしてしまったため、みな自分のことしか考えない自己中心主義に陥ってしまった。
一方この改革は、社会的弱者だった女性にも大きな力を与えた。ウーマンリブ運動が全盛となり、男女平等を求める運動が、世界中へ広がっていった。皮肉にも、この運動がアメリカ社会を破壊した原因でもあった。もちろん、男女平等が悪いわけではなく、男女平等の考え方に誤りがあったからだ。このことが後になって大変な結果をもたらすことになった。
運動の先頭に立った女性は、男女平等とは「女性が男性と同じことをすることだ」と主張した。この錯覚が、大きな不幸のはじまりだった。男女の違いをすべて差別と見なし、女性が家庭で働くことを単純に不平等と決めつけ、社会に仕事をする権利を求めていった。
しかし社会へ活路を求めたのは、西洋文明そのものに原因があった。日本では一般に家庭を守る妻が財布の紐を握り、夫は仕事だけに専念するよう役割分担が決まっている。だから日本の夫は自分が稼いだお金でも、妻がやりくりする家計の中から小遣いとして受け取っている。
それに対し欧米では、家計も夫が支配するのが普通だったため、妻はすべてにおいて夫に一方的に従わなければならない不満があった。自立している女性が、男性に頼らず、自分の稼ぎで暮らしている女性であるのも、それなりの理由があった。対等になるためには、経済的にも独立する必要があったからだ。
さらに働いて稼ぎを得れば、夫にとやかくいわれず好きなものを買える魅力があった。このようなさまざまな思惑がからみ合い、自分の幸せを求めてどんどん 働きに出るようになっていった。
自己中心的に陥りやすい理由は、教育にもある。欧米の学校では、個性が重んじられ、それをのばそうとする。もちろんある程度まではいいことだが、現実には自己の概念を徹底的に叩き込み、自分を主張していくことを学ばせるため、他人の考えを素直に受け入れる下地が育ちにくいのだ。
日本では、一般にできるだけ個性を抑え、周りにとけ込むことを教えるが、欧米では、積極的に出すよう教える。
このような違いが生まれるのは、日本では、社会を重んじるため、「自分の意志を押し通すことをわがままと呼んで悪いことだ」と教えるが、個人を重んじる欧米では「自分の感情は素直に表現するのが正しい」と教えるからだ。
まさに文明の違いだが、個性を全面に出せば、絶えず個性同士の衝突がおきるのはいうまでもないだろう。自意識だけは非常に強いため、上司だろうが他人に頭を下げることを屈辱と感じ、たとえ自分が悪いと思ってもなかなか謝れない人が多い。そのような人々が結婚するから、問題は絶えない。
西洋文明の夫婦は、水と油の関係で考えるとわかりやすい。たとえばサラダにかけるドレッシングは、絶えず振っていないと分離してしまうだろう。変なたとえだが、それと同じで、絶えず意識して互いに親密さを保っていないと、すぐに夫婦の間に溝ができてしまうのだ。
夫婦の絆が育たないのは、極端な個人主義の結果である。とにかく「自分は自分」という意識が強くなり過ぎたせいで、信頼関係(とくに頼り合う関係)に基づく絆が育たない。だから何年一緒に暮らしても、ただの同居人の線を越えられないのである。
日本では、ごく当たり前の単身赴任も、欧米では、とうてい考えられないことである。「マダム・バタフライ」のような歌劇が好まれるのも、西洋文明ではありえないお話だったからだ。
家族としての絆が弱い上に、自己が強く、おまけに妥協することを知らない人々がひとつ屋根の下で暮らすのだから、その大変さは容易に想像がつくだろう。
何かあるたびに、すぐに衝突をおこすため、いまでは離婚が日常茶飯事になっている。
昔より簡単に離婚できるようになったのは、宗教の規制が弱まったことや、男性と同じ高等教育が受けられるようになり、女性の考え方が変わったこと。そして女性でも自立することが容易になったからだ。さらに自立した女性の新しい生き方として、離婚が勲章のようにもてはやされたことは大きかった。
女性が社会に進出していくと、やがて子育てや家事など外の仕事の邪魔になることはすべて軽視され、主婦業をして家庭にこもっている女性は、時代遅れの人間と見なされるようになった。
ついには、家にいると「どうして働かないのか」と非難するような風潮まで生み出し、後ろからは女性運動家が煽り立て、際限なく女性の権利を主張し続けたため、女性までが自己中心的になっていった。だが、女性が好き勝手なことをやり、家庭をないがしろにしたツケは、信じられないほど大きかったのである。
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西洋文明の常識 森川 明氏著
本論文は以前ホームページ上で公開されていました。
大幅に加筆されたものが工学社によって出版されています。
西洋文明の常識
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