●西洋文明とアジア文明の支配者
西洋文明と東アジア文明。このふたつの文明は、ユーラシア大陸の両端で発展した。地理的な距離が両者を大きく隔てていたため、ふたつの文明の違いは、際立っていた。その中でもとくに異なるのが、支配に対する寛容さである。
たとえば、アジアのほぼ全域に渡って支配したモンゴル帝国は、侵略での残虐行為がよく指摘されるが、その半面服従した国にはとても寛容だった。征服された民でも、才能のあるものは積極的にとりたてられ、要職につくことができた。
モンゴルがとくにすごかった点は、征服したあの広大なアジア一帯の治安を守ったことである。帝国内の交通網を整備し、商工業を積極的に保護したため、首都カラコルムには、世界各地からさまざまな人々が訪れた。
後に後継者争いから、帝国は分裂したものの、それでも各国間の交通は保たれていた。マルコ=ポーロが、各地を回り見聞できたのも、陸路や海路の交通網が整備され、一帯の治安が守られていたお陰だった。昔の旅は危険であり、ある意味で命がけにも近かったからだ。
モンゴルは、あらゆる宗教を差別せず公平に扱い、決して押しつけることはなかった。支配者が、支配地の民衆に合わせて改宗するぐらい柔軟性を持っていた。
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宗教の寛容さは、アジア支配をなしえた重要なポイントである。
アジアでは、「武断政治は、愚かな支配者がすること」と見なされていた。
この民衆の意識のために、支配者は徳を持ち寛容でなくてはならなかった。
民衆は支配される代わりに徳治政治を求め、無茶苦茶な専制や搾取がくり返えされると、一揆をおこして国を滅ぼした。アジアでは民衆と支配者の間に、ある種の共存関係が生まれていたといえよう。
モンゴル帝国が崩壊すると、後にチムールやムガールといったチンギス=ハンの系統を自称する帝国が作られた。後の清帝国も、モンゴルの後継者を名乗っている。もしモンゴルがただの破壊者か、略奪と搾取だけの武断政治をおこなっていたら、絶対にその名が使われることはなかっただろう。
中国では、徳治政治からさらに一歩進んで、法治主義と科挙制度による官僚制を支配の基盤にした。いまでは当たり前の話しだが、厳格な身分制度があった当時としては、平民でも国家試験による平等が与えられ、支配者(官僚)への道が約束された画期的だった。ヨーロッパ諸国は、中国に学び真似をするが、それはずっと後のことである。
このように、さまざまな支配がくり返される中で、支配者の側も歴史の中から学びとり、民衆との共存をはかる道を探っていた。とくにモンゴルなどの異民族による二重統治政策は、現代でも学ぶべき点が多いのである。
一方、ヨーロッパの支配者は、ほとんど民衆との共存を考えていなかった。イタリア統一のために君主論を書いたニコロ=マキャベリは、支配者について興味深いことを述べている。「国家を統一するためなら、君主はモラルに反しても良い」と武断政治を正当化した主張である。
これはイタリアのおかれた特殊な国情から生まれた理論だったが、国益のためなら君主の資質や手段を問わない考えは、後の支配者に利用され、武断政治による一方的な搾取がくり返される結果になった。
この力による搾取が、人々に強い自主性を持たせる結果につながったが、戦乱の絶えなかったヨーロッパでは、自分の生命と財産を守るため、やむなく強欲な支配者を受け入れていた。
後に古代ギリシャの民主政治が復活したのも、自分の利益しか考えず、民衆との共存を模索しなかった支配者の怠慢にあった。西洋文明の支配者は、長年に渡る支配からほとんど何も学んでいなかったのである。
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西洋文明の常識 森川 明氏著
本論文は以前ホームページ上で公開されていました。
大幅に加筆されたものが工学社によって出版されています。
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