■第四章 西洋文化の常識
●暴走を止めるブレーキ
東アジア文明でも、思想の基盤になったのは宗教だった。その点では西洋文明と同じだが、仏教、儒教、ヒンズー教、イスラム教など複数の宗教が、互いに混在し影響し合う、独特な融合文化を生み出した点で違っていた。
仏教の教えの中で、すべての基本になっているのが、中庸(中道)である。ブッダが修行の中で悟った「何事も程々がよい」という教えは、仏教と融合した儒教でも、「過ぎたるは、及ばざるがごとし」と説かれている。
このような教えとは、正反対な道を歩んだのが西洋文明だった。何事にも限度というものを知らないため、ついやり過ぎてしまう。やり過ぎて暴走するのは、中庸という一番大事なブレーキがついていないせいだった。
文明を暴走させる原因は、限度を忘れさせる飽くなき欲望と競争にある。西洋文明は、欲望の固まりである金儲けを基準にして競争させるので、一度走り出すと止まらなくなってしまうのだ。
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競争とは、勝ったものだけが認められる、競争社会のことである。日本では欧米の競争社会のことを実力本位の能力主義と呼んでいる。確かに、本人の能力がものをいうことは事実だが、それが過当競争になると、勝ち残るためならどんな手段でも使う狡猾な人間だけが生き残るようになる。
西洋の競争社会は、恐ろしいまでに過酷である。人生のすべてが、競争の連続だからだ。もし途中で負けてしまうと、それでお払い箱になってしまう。そのため、人々はまったく息もつけずに勝者への階段を駆け上がらなくてはならないのである。
そのような競争がある一方で、社会の底辺にいる人々は、競争自体に加われない。奇跡でもおこらない限り、弱者は強者の搾取から逃れられないからだ。はじめから競争とは無縁で、ただ搾取されるだけの夢も希望もない人々がたくさんいる。目を凝らせば、実に多くの人々が見えてくるだろう。
進化論に見られる「弱肉強食」の論理も、西洋文明の常識を自然界にそのまま当てはめたに過ぎなかった。もし自然界が、自分の利益だけを求める競争社会だったら、間違いなく共倒れになっていただろう。本物の自然界は、共生や共存関係の中で、適度な競争原理が働いているに過ぎなかった。
本物の弱肉強食の世界では、共存も共栄もない。社会には競争で蹴落とされた人間や競争に加われなかった人々があふれている。また、競争社会に嫌気をさして、平凡な人生に満足しているような人も、同様に負け犬と見なされ、落伍者扱いされてしまう。
競争社会の文明で、負け犬と呼ばれるほどの屈辱はない。人々は強欲な野心を植えつけられているため、何かいい儲け話はないかと、絶えず機会をうかがっている。そして何も変わらず月日は流れ、勝者になる夢が叶わないと悟ったとき人生で何もなしえなかったことに悲観し、絶望感や劣等感を抱いてしまうのだ。
しかし勝者になれるのは、ごく一握りの人間に限られているのだから、これがいかに馬鹿げた夢であるかは、いうまでもないだろう。それなのに、勝つことが絶対視される社会では、勝者になれなかったことへの「不満」を永遠に持ち続けるのである。
夫婦関係がつまらないことでこじれるのも、満足を知らないせいである。現状に留まることに否定的なので、たとえ文句のない理想的な生活を作り上げたとしても、相手がそれに満足しているのか気を配っていないと、どんどん不満が募ってしまう。
相手の不満にも気づかず放置しておくと、驚くぐらい簡単に離婚である。だから相手がいまを満足しているのか、絶えず確認する必要がある。昔は満足していても、いまはそうなのかわからないからだ。
競争社会で生きる人々は、大抵自分の実力は、この程度ではないと信じている。
だから偶然にでもチャンスが巡ってくると、それまで築いた生活をすべて捨て去ってでも、チャンスをものにしようとする。自分の夢のために、家族まで捨ててもう一度やり直そうとするのは、過酷な競争社会が生み出した悲劇といえる。
満足を知らなければ、絶対に幸せにはなれない。物質文明は、まさに不幸の固まりである。「中庸」を知っていた我々の文明は、「倫理」で「欲望」を抑え、「満足」で消し去っていた。お金や物に左右されない倫理観を持ち、中庸を知っていたからこそ、満足することができた。
その結果が、質素や倹約と呼ばれるつつましい生活だった。他人の富を奪うことで極端に豊かになった文明から見れば、不幸な生活に見えたのかもしれない。
しかし我々の文明は、贅沢をすれば、それこそ限りがないことを知っていたのである。
もし人々が、際限ない豊かさを求め、自分の利益だけを追求すると、かならず大きな貧富の差を生んでしまう。逆に、利益の追求を一切禁じると、人々の労働意欲を失わせてしまう。どちらの道を選んでも、行き着く先は社会の荒廃しかないのである。
西洋文明は、中庸を知らないので、政治でも、経済でも、何をするのでも極端になる。資本主義は、その極致といえた。
ある程度の利益追求や競争が必要なことは、いうまでもない。だが、いまの資本主義のように、金儲けだけを基準にした熾烈な競争をさせれば、どんな手段を使ってでも儲けようとする卑劣な人間があらわれるのは当然だろう。
奴隷貿易ひとつにしても、あくまで儲かるからやっていた。極悪人になりたいと思ってやっていたわけではない。儲かりさえすれば何をしても構わなかったから、麻薬貿易でも何でもやろうとした。「利益追求こそ正しい」という文明の常識が、悪の道に走らせたのだから、一部の人間だけの問題ではないだろう。
共存を基本にした文明は、競争を制限することで、共に発展する道を選んだ。
たとえば一昔前にあった生まれによる職種の限定も、そのひとつである。職業が選べないのは、確かに不平等かもしれない。しかし決められていたお陰で、よその人間から自分の職場を守る防波堤となっていた。自然界でも、棲み分けは厳密におこなわれており、決しておかしなことではない。
一方、競争を野放しにした文明は、自分の利益のためなら周りがどうなろうが構わない人間が支配するようになった。儲かると思えば他人の領分に土足で踏み込み、好き勝手に食い散らかしたあげ句、うまみがなくなったらすぐに引き上げる。
一時的な利食いのために、崩壊した産業や元々従事していた人々がどうなろうが気にも止めない。自己の儲けのみを優先し、一国の政治を経済成長とかいう産業界から得られる利益だけで評価する。
西洋文明のビジネスとは、ここまで徹底していた。何でも損得勘定で考え、自分の利益になることだけに心血を注ぐ。異なる文明では、利益至上主義の文明を知ることはできても、理解することは容易ではないだろう。
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西洋文明の常識 森川 明氏著
本論文は以前ホームページ上で公開されていました。
大幅に加筆されたものが工学社によって出版されています。
西洋文明の常識
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