悪と善の序列 から続きます。
>今の私の好きな組み合わせは、こんな感じです。(理解不足で、的を得ていないのかもしれませんが、宜しかったら、いじめて下さい・・・)
>●「悪と知りながら悪を為し善を知り、善と知らず善を為し本当の善を知る。」な感じです。
私の「悪と知りながら悪を為し、善と知らず善を為す。」が好きという思いを少し説明させていただきます。
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悪を知れば、善を知る必要はない。投稿者 小魚骨 日時 2004 年 6 月 12 日
● どうこういっても、人は悪を為すものであると思える。(だからこそ、どこにもどの宗教にも「禁止条項」や罰がある)
● 悪を知っているのなら、悪ではないこと(善とは限らない)を知っていることになる。
● 悪と知って行う悪なら、人が身を置く世界を変えることで減らすことはできるはずだ。(悪は為さないほうがいいという前提)
● 善をことさら持ち込むと、それは思念的結論だから、悪も善と言いくるめることができることを意味し危険である。(同じ行為を言いように悪いようにも説明できることを考えただけでわかる)
● そのような性格である善をことさらあげつらうのは、不道徳な政治家が愛国心を煽るのと同じで、いかがわしい意図をもった連中だ。
● 善は善と考えて為すのではなく、感じるままに為すほうがいい。
● 人は、支配―被支配構造から抜け出せば、感じるままで善を為す存在者であるはずだ。
悪を知れば、善を知る必要はないということです。
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>小魚骨さんこんにちは、いつぞやはお気持ちを察することができず、しゃしゃり出てしまい大変申し訳ございませんでした。
いつのどのことか明瞭ではありませんが、しゃしゃり出ていただくのは大歓迎です。
気持ちや状況を察しないままの対応も、自分自身の常でもあると思っているので、お気になさらないでください。
(明瞭ではないが、ひっかかるものがあった記憶があるということです(笑))
ざっくばらんに言いますと、この間の“学習効果”で、まともなやり取りができない投稿者のリストを内に持っています。
それは別に、人格否定でもなければ、固定化したものでありません。
(その方々の投稿は読ませてもらっていますし、貴重な参考にもさせてもらっています)
私にとって、今現在はやり取りしたくない人という意味でしかありません。
(どういう人をそう思うのかは、ここ数週間の雑談板や議論板そしてここ数日の空耳板での投稿を参考にしてもらえればご理解いただけれると思っています。
現在は精神的にだいぶ立ち直ってきていますので、リストが短いものになっています(笑)
これも、未熟で不徳である己のなせるワガママですのでご容赦いただきたいと思っています。(やり取りしないのならわからないことだから、赦すも赦さないもないという声が飛んできそうですが..(笑))
>いつでも私の過ちを、小魚骨さんの鋭く客観的な、的を得た眼力でご指摘下さることを素直に真摯にお待ちしております。
的を得たレスをしたいとは思っていますが、それとて客観的なものでありません。
私の感応を言葉で表現したものでしかありませんが、現在の世界で必要なのは“攪拌棒”だと思っていますので、やり取りができると勝手に判断させていただく方には気分を害されることを承知でレスをさせてもらうつもりです。
(迷惑な方はご遠慮なくそう言ってください)
>私も旅の途中(勉強中)の為、暖かく見守って頂ければ幸いです。
>今後とも宜しくお願いいたします。(良き関係でありたいと心から願っております)
人は旅の途中で死んでいくものだと思っています。
的を得た嘲笑や罵倒は良き関係の現われだと思っていますので、不愉快な思いをさせてしまうと思っていますが、こちらこそよろしくお願いします。
(私は、理に適った嘲笑や罵倒を大歓迎していますから、筆致はお気遣いなく。調和人さんはそのようなことをされない方だ思っていますが、感応が高ぶったときには...(笑))
善なる観念や基準を持ち出し始めることで直観では出てこない悪を為すようになった。投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 12 日
調和人さん、レスありがとうございます。
(元のメインのHNに勝手に戻らせていただきます)
謙遜も躊躇も不要ですよ。
たぶんですが、悪や善を認識することについての見方の違いがあると思います。
人は悪を直観的に認識できるが善は思念的にしか認識できないものだと思っています。
(動物もそうであろうという思いがあります)
たとえば、善とされることも、悪を避けるということで説明が可能です。
(困っている人を放置するのは悪であるとかの類で、動物でも行っていることです。調和人さんが考えられている善のほとんどは、こういう悪は避けるべきだということで説明できませんか?)
そして、人々はことさら善なる観念や基準を持ち出されたことで、直観では出てこない悪を為すようになったとも考えています。
(先制攻撃の戦争を善としてしまう論理もたやすく紡げるものです)
思考力(思念)が悪だと言いたいわけではありません。
思考力によって将来悪につながるかもしれない愚行を回避することもできます。
思考力が悪用されているのが善なる観念であると考えています。
善は不要だとするのは、「人は、支配―被支配構造から抜け出せば、感じるままで善を為す存在者であるはずだ」という確信によるものです。
ですから、私が生きているうちにそれが実現されて(まずムリ)、人が感じるままでは善を為さないことがわかれば、前言を翻して善なるものの必要性を主張します(笑)
「人は支配―被支配構造から抜け出せば感じるままで善を為す存在者である」という確信は、今現在揺るいでいません。
最後に、悪でないものが善であるといういい加減な規定の善であれば、善の必要性を受け容れます(笑)

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