“日の丸”の淵源は古い。
江戸時代にこれがすでに用いられていたこと、著名であるけれど、それはほんの、最近の話。
中・近世といった、浅い歴史ではない。
八世紀のはじめの続日本紀、文武天皇の大宝元年(七〇一)の項の「(左)日像・青竜・朱雀幡、(右)月像・玄武・白虎幡」の記事に典拠を求める論者も存在するが、そんな“新しい”ものではない。
弥生時代の筑紫(福岡県)、古墳時代の大和(奈良県)その他において頻出する銅鏡(多鈕細文鏡・漢式鏡・三角縁神獣鏡等)、その役割は何か。
当然、“太陽の光を反射させる”ための儀礼用の器具である。
儀礼の場において、一つ、ひとつの銅鏡は、それぞれ、天空の「一個の太陽」を反射して輝いたのである。
真実(リアル)な太陽を“映(うつ)す”ことと、白地に赤く“一個の太陽”を描くことと、“器材”こそ異なれ、同一の精神の表現と見なす他ないのである。
その思想史的意義は同一なのだ。
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中国では、貴族の女性などの好んだ化粧道具の一つにすぎなかった銅鏡が、なぜこの日本列島では、おびただしくこのような使われ方をしたのか。
その理由は明白だ。
日本列島の旧石器・縄文にさかのぼる鏡岩、それは各地(たとえば、土佐清水市・西宮市など)に遺存している。
東方もしくは、東北・東南方に対面した、平面状の石英質の花崗岩類、それらは“一個の太陽”を反射して輝いた。
その輝きの中で、人々は太陽信仰の儀礼をもったのである。
彼等はただ、石器や土器作りといった“物質”生活だけに満足していたわけではない。
“人はパンのみにて生くるものに非ず”の名言は、イエスなどの生まれるより、はるかなる古えより、生きていたのである。
少なくとも、そのような縄文の精神生活を大前提にせずして、あの弥生・古墳期における銅鏡の盛況を “解説“ することは困難であるように、わたしには思われる。
さらに、現代においても、伊勢神宮をはじめとし、各神社において“鏡”を御神体とするケースの少なくない事実、これを説明することもまた、不可能なのではあるまいか。
要するに、“日の丸”の、日本列島という「海中の火山島”あるいは「海中の岩島」における歴史は、あまりにも遠く、かつあまりにも永い。
そう言い切って、わたしはあやまらないと思う。
これに対して、一種の論者がある。
「十五年戦争の中において、アジアの人々は『日の丸』を憎んだ。それ故、『日の丸』は国旗とすべきではない。」と。
然らば、問う。十八世紀から二十世紀にかけて、ヨーロッパの列強は、そろってアジアを犯した。
植民地としたのである。
その列強の国旗、たとえばユニオン・ジャックやたとえば三色旗など、それらはいずれも「独立」を願い、「反植民地主義」の志をもつ人々には憎まれたはずである。
憎悪の対象となったこと、疑いない。
では、それ故に、アジアの人々はそれらの列強に対して、「国旗の総とりかえ」を要求しているか。
聞いたことがない。
“日の丸”の “とりかえ“ を要求する人々は、もしその人々に同じき“良心”が存在するならば、“列強の国旗すべて”の “とりかえ“ を強く要求しなければ、およそ“すじ”が通らない。
それは単に“敗戦国”への “いやがらせ“ に堕するであろう。
誇りあるわたしたちは断じて “いやがらせ“ に屈してはならない。
わたしは“十五年戦争”とは言わず、「太平洋戦争」とは言わず、“大東亜戦争”と言う。
これが、歴史上、実在した名称だからである。
これが、あの戦争において当局者が“国民”特に青年たちに訴えた“大義名分”である。
そしてその“大東亜共栄”の“名分”とは裏腹に、中国を侵略し、アジアの人々、そしてアジアにいた世界各地の人々を或は“侮辱”し、或は“殺戮”した。
その現の証拠として、わたしはこの歴史的用語をあやまたず、忘れず用いたいと思う。
天空なる“一個の太陽”は、わたしたちの先輩の陥った、或はおとし入れられた、あの惨状の上にも、常に輝いていた。
あやまたず、見つめていた。
そしておそらく、未来の「真の共栄」の姿をも、深く照らしつづけることであろう。
わたしは“日の丸”には、その無二の証人となってほしいのである。
古田史学会報
1999年 8月 8日 No.33
日の丸」と「君が代」の歴史と自然認識について
−−−現代の政治家に寄す−−−
古田武彦
より抜粋

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