鳥の目と虫の目さん:
人間の身の丈にあった社会の仕組みに、どこから近づいてゆけばいいのですか。ご意見を伺わせて下さい。
私がこの講演録を引用して投稿したときに、漠然と頭の中にあったのは、人間の社会的分業の編成に果たす『ストック』の意味と言うことでした。
生身の人間は、どれほど身体能力が違ったとしても、大局的に見れば、ほとんど似たり寄ったり、同じ存在です。毎日飯を食わなけりゃいけないし、背のたけだって2メートル程度まで。
考え得ることだって、しょせんは、生物としての人間という基盤からは離れられないはずです。
そんな人間ひとりひとりが壮大な社会的分業を組んで、いま、我々の目の前にあるこの社会的現実を作り上げています。
たしかに現代社会が成し遂げている結果は壮大なものです。
しかし、その社会的現実を作り上げている端緒をたどれば、根元的な駆動力は、一人一人の生身の人間の意志に裏付けられた活動力に違いないですよね。
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もちろん、その社会的分業をくみ上げる上で、さまざまな物質的な媒介物がはさまったり、化石エネルギーで補完されたりしてはいます。しかし、間に挟まった媒介物は、みな意志を持たない、ただの物です。
だから、社会的分業を本源的に駆動させているのは、それぞれの場面で意志をもって現実に向き合っている、それぞれ、一人一人の生身の人間以外はありえないに違いない。そして、たとえその社会的分業の総体がどれほどに壮大であっても、それぞれの人間の意志は、生き物としての一人一人の身体の、その脳味噌の中にしかないものです。
上手く表現できないのですが、ようは、生き物としての人間なんて、みんなほとんど似たり寄ったりでしょ、という感覚と、その一方で、それぞれの人間の、その脳味噌の中につまった意志が、その意志の形を貫徹させて社会全体へ働きかけ得る程度において、天と地ほどに違う立場への分化している現実の人間社会の有様というものの、めまいを覚えるような格差の本源的な原因はどこにあるのか。そして、その落差を縮めてゆくための手がかりはどこに求めればよいのかということです。
どう考えても、現代の社会的分業の壮大さと、生き物としての人間のちっぽけさとの対比は、無理がありすぎるように思います。
しょせん、生きものとしての出自に構造づけられた人間の脳味噌の構造(たとえば喜怒哀楽とか、相手を疑ったり信用したりとか…)しか持たないはずなのに、想像も出来ないほど広範囲の社会的分業にたいして、その意志を届かせようとすれば、そこに関与してくる他人の命を命として関知でし得ないことに起因するさまざまな問題がふきだしてくるのは当然だと思うのです。
逆に、そうした動きへの対抗運動においても、それが逆方向での意志のかたちを、巨大な社会的分業のしくみ全体において実現しようとするものである限り、やはり同じように、人間の認知能力の限度を超えたことに起因するさまざまなゆがみが出てくるに違いない。
社会問題を、それぞれの人間が、意志を働かせて、互いの意志を重ねて十全に舵取りをするためには、やはり動物としての群れ構造を大幅に逸脱しない程度を前提にしなくてはならないのではありませんか。
ビル・トッテンさんのご講演の大切なメッセージとして受け止めたのは、そうした生き物としての身の丈をゆがめる夾雑物としての土地と貨幣という『ストック』に、生き物に擬制した寿命をあたえるという対案、すなわち例外を許さぬ土地課税とマイナス金利という提案でした。
だれもが、生き物としての身の丈の態度と、同じ寿命という枠の中で競い合って生きていれば、今目の前にあるほどのゆがみは発生しないのではないでしょうか。
内田義彦さんが、『資本論の世界』(岩波新書)のなかで
「私有財産制度とは、一般に−つまり資本主義であってもなくても−生きた他人の労働の成果がなんらかの形で私有財産の所有者の手にわたり、その一部が蓄積される。そして、その過去の他人の蓄積された労働が、私有財産として他人に対立し、ふたたびなんらかの形で現在の、生きた他人の労働を吸収する制度である。それだから財産によって生活できる。」(内田義彦1966年)
と書いています。
私有財産制度ということばで表現しようとすると、なんだか色が付きすぎていて、こなれないですが、生物としての個人の意志の『巨大な拡声器』の仕組み、人間の生きのびようとする意欲と実践struggleがもたらす同盟関係と敵対関係を身の丈を超えて促進する本質的な原因である『ストック』の意味について、ぜひ教えて頂ければとおもいました。
あっしらさん:
経済(学)は論理ですからそれを熟知しているより、鳥の目と虫の目さんのように、人間観を含む社会観というか世界観がきちんとあり、現実の社会と自分の理念的な社会観の乖離が何に由来しているかを探るときに、経済(学)を利用するというものだと思っています。
鳥の目と虫の目さんが説明されている人々の生き様(=社会の在り様)が普遍的(超歴史的)なもので、経済学が対象とする近代社会(資本制経済社会)はその特殊な形態です。
似たり寄ったりの人々が、持てる認識能力と身体能力を相互活用しながら外的自然(物)に働きかけ、その成果を個々人及び“共同体”が享受することで個々人の生存や快楽が実現されるというのが人の世だと思っています。
どう考えても、現代の社会的分業の壮大さと、生き物としての人間のちっぽけさとの対比は、無理がありすぎるように思います。
社会問題を、それぞれの人間が、意志を働かせて、互いの意志を重ねて十全に舵取りをするためには、やはり動物としての群れ構造を大幅に逸脱しない程度を前提にしなくてはならないのではありませんか。
私も同じように考えています。
いわゆる共産主義国家も、共産党官僚が云々というより、この罠(無理)によってあのような国家社会に行き着かざるを得ない宿命にあったと思っています。(それに輪をかけたのが、封じ込め的国際関係のなかで戦時体制をとった(とらざるを得なかった)こと)
国民経済的社会的分業でも壮大なのに、グローバリズムという名の下、世界規模での社会的分業の濃密化が進められています。
いわゆる資本主義国家の人々は共産主義国家の抑圧性には納得しても自らの抑圧には少しばかり無頓着なようです。
社会的分業が壮大なものになれば、利潤獲得動機がもたらす弊害は別としても、それをなんとかして動かすために、制度及び支配−被支配の関係性が強大なものにならざるを得ないことにもっと留意すべきだと思っています。
利潤(貨幣的儲け)が経済活動の動因で、それが壮大な社会的分業世界で実現される条件になっていれば、少数の支配者(表に出るのはテクノクラートと企業経営者)が、ほとどんと言える大多数を機械や原材料と同じような物として管理していくかたちをとらざるを得ません。(倫理的善悪を捨象しても、論理的にそうならざるを得ないということです)
このようなことから、私自身は、「開かれた地域共同体」という在り方を一つの望ましい世界と考えています。
経済学的には効率(生産性)が下がるものであっても、心地よさが上がるのならそれでいいじゃないかというもので、地域共同体が消費するものはできるだけその地域共同体で生産するという考えです。
(人はお金にならないことにいそしんで大きな喜びや満足を得ることもできる生き物です)
物余りやデフレそして失業者の増加や余暇時間の増大という状況は、そのような社会の在り様を実現できる条件があることを示していると言えます。
しかし、「開かれた地域共同体」はすぐにめざすものではなく、そこに至る過渡期として、国民経済主義的国家社会が必要だとも考えています。
私有財産制度ということばで表現しようとすると、なんだか色が付きすぎていて、こなれないですが、生物としての個人の意志の『巨大な拡声器』の仕組み、人間の生きのびようとする意欲と実践struggleがもたらす同盟関係と敵対関係を身の丈を超えて促進する本質的な原因である『ストック』の意味について、ぜひ教えて頂ければとおもいました。
「生き物としての身の丈をゆがめる夾雑物としての土地と貨幣という『ストック』」というご指摘に魅力を感じるとともに、『ストック』概念として土地と貨幣は峻別したほうがいいのじゃないかと思っています。
端的には、超歴史的には『ストック』でなくてもいい貨幣が『ストック』としてのさばっていることが、生き物としての身の丈をゆがめている一つの要因だと考えています。
社会的分業の“媒介物”でしかない貨幣が、『ストック』しかも代表的『ストック』として考えられていることが大きな問題です。
貨幣は、土地(埋蔵資源を含む)や生産設備といった『ストック』を購入できる手段であっても、『ストック』である必要はないという視点が重要だと思っています。
そして、貨幣の『ストック』化を支えているのが、利息取得制度や様々な金融商品(取引)です。
マイナス金利という“消費促進策”を持ち込まなくとも、金利(利息取得)をなくせば、消費レベルだけではなく社会構造全体を変えるインパクトになります。
『ストック』には、自然的ストックと活動成果的ストックがあると考えています。
土地(埋蔵資源を含む)が自然的ストックで、生産設備・道路・住宅など人々の活動力で作り出した持続的な有用性享受という性格を持つものが活動成果的ストックです。
近代社会の特質は、後者(活動成果的ストック)のなかでもとりわけ生産設備が持つ意味が飛躍的に高まったことにあります。
引用された内田義彦さんは“マルクス疎外論”ないし“マルクス物象化論”の立場から生産設備の問題を捉えているようです。
物になった活動力と生身の活動力が結合する仕組みを大きくすることで、生産力が高まってきました。過去の活動力の成果を使うことで現在の活動が楽になる仕組みが飛躍的に発展したと言うこともできます。
(それを支えたのは急増大する生産力の成果(財)を国際交易を通じて売りさばき貨幣利潤を獲得できる“制度”です。それがなければ、デフレや生産過剰になるそのような仕組みの発展はありませんでした)
人々の関係的活動成果である「過去の他人の蓄積された労働が、私有財産として他人に対立し、ふたたびなんらかの形で現在の、生きた他人の労働を吸収する制度」になるかどうかは、社会の在り様如何に関わることであり、超歴史的なものではありません。
(内田さんもそれをご理解の上に書かれたと承知しております)
膨大な活動成果的ストックがあるというか、それを造り出し使いこなすことができる歴史段階になったことが、「開かれた地域共同体」への移行を保証すると確信しています。
Re: 人間の身の丈にあった社会の仕組みに、どこから近づいてゆけばいいのですか。投稿者 あっしら 日時 2004 年 1 月 31 日

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