臓器売買事件が投げかけるもの、秘匿されていること
小松美彦氏に緊急インタビュー 図書新聞Web2006年11月4日付(No.2796)は「緊急インタビュー 宇和島での事件を機に、小松美彦氏に聞く」を掲載した。氏は教育基本法改正との関係にも触れている。以下は主要部分の要約。
臓器売買事件が投げかけるもの
ではマスメディアが書いていないこととして、万波誠医師が1990年11月に脳死状態からの腎臓移植を実施したために警察の事情聴取を受けたこと(弟の万波廉介医師が岡山協立病院で腎臓摘出を行い、その腎臓を使って兄の万波誠医師が宇和島市立病院で移植手術をした)。
このほか1968年の和田移植以降、無いとされていた脳死臓器移植が裏では相当数なされていたことを1997年の太田和夫氏の座談会での発言も引用。
「以上のような臓器移植を巡る構造的な問題が、今回の宇和島の事態に繋がったのではないでしょうか。ですから安易に臓器移植法を改定して脳死のドナー数を増やすのではなく、今回のことを刑事事件の枠内で徹底的に追及すべきだし、今こそ水面下での移植の検証にも本腰を入れるべき。日本で脳死臓器移植の門戸をさらに開いても、「不足問題」は解消されない。今回の事件は氷山の一角。その根本問題は、従来一人の患者に焦点を当て、そこで完結した治療を行なってきた医学が、臓器移植という差し出す側と貰う側の二者を同時に対象としてしまったところにある。これをきっかけに、生体移植に限らず臓器移植全体の根本を省みるべき」と指摘した。
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人間の存在と意思を冒涜する改定法案
現行法では脳死判定と臓器提供に関して脳死者本人が“生前に”文書で承諾の意思表示をしており、かつ家族がそれを拒まない場合に、つまり本人と家族の二重の同意があって初めて、臓器摘出が認められています。
しかし、移植を推進しようとする人にとっては、これは厳しい条件です。そこで、厳しい条件を緩めてドナーの数を増やそう、というのが改定案の目的です。
改定案は、脳死を一律に死と定めるA案と、基本的枠組みを残して提供可能年齢を今の15歳以上から12歳以上に引き下げるB案、の二つが国会に上程されています。
通る可能性が高いのはA案です。衆議院の自民党議員は8〜9割がすでに賛意を固めたそうです。B案も問題ですが、A案は絶対に通してはいけない。
脳死が一律に人の死の基準、つまり脳死患者が一律に死体だと法律で定められてしまえば、本人や家族が拒絶しても認められないからです。
脳死者は健常者と同様に温かいし、脈拍があり、汗も涙も流し、妊婦であれば自然分娩もできる。四肢の滑らかな動きも少なからず生じる。
しかし死体に対する治療がありえない以上、家族が懇願しても、厳密に法律に従った場合、治療を続行してもらえない。医師も自らの使命を果たしたいと願っても、法律に縛られて叶わない。
さらには、臓器提供に関してもA案は、本人が拒絶の意思を示していない限り家族の承諾だけで認められる、としています。
本人がOKと言ったとしても脳死状態からの臓器提供には否定的ですが、本人の意思が不明でも家族の承諾だけで臓器摘出が認められるのでは、人間の存在、意思を冒涜すると思います。
ここで想起すべきなのは、冒頭の宇和島の事件です。提供者本人の意思がはっきりしていてもあのような臓器売買があったのなら、家族の承諾だけで臓器提供が認められるようになれば、一体何が起こるかわかりません。
しかも両案とも現行法では認められていない臓器提供の相手を指定できることを謳っているのです。
他方、B案は脳死を一律に人の死としていませんが、であればなぜ、生きている脳死者から心臓や肝臓などを取り出せるのでしょうか。取り出されれば確実に死んでしまうのに。
また、B案は提供可能な年齢を15歳から12歳まで下げるわけですが、提案代表者の公明党の斉藤議員と何度かお話ししたところ、12歳というのはあくまでも“当面”であって、徐々に年齢を下げていく意向だそうです。
幼児や乳児が臓器提供の意思を示せるはずはありませんから、B案はやがてはA案とほぼ同じところに行き着くことになります。繰り返しますが、脳死状態をどうして人の死とできるのかについて、満足のいく議論と答えが全くないままに、です。
秘匿される脳死の実態と医学的問題点 では、「脳死者は触ると温かい、脈も取れるし汗や涙も流す。女性で妊娠していれば自然分娩も出来る。
動いているう。滑らかに動くような状態なので、臓器摘出のために脳死者にメスを入れると血圧や脈拍が急上昇する。
移植手術どころではなくなってしまうので、暴れるのを防ぐために麻酔や筋肉弛緩剤を投与し、鎮静させて臓器を摘出します。
医学部の死体解剖で麻酔や筋肉弛緩剤を打ってから始めることはないわけで、こうした処置は脳死者が生きていることを如実に示している。脳死者からの臓器摘出は医療現場で行なわれている殺人に他ならない」。
「従来は脳死に陥ると4、5日、長くても1週間で確実に心停止を迎えると言われてきましたが、慢性脳死者、長期脳死者と呼ばれる、かなり長い年月にわたって脳死状態のまま生きている人々がたくさんいる。我々が省みなければならないのは、あまりにも脳の存在意義を過大視してきたこと」
「脳死者には意識が無い、と断定されてきた。「脳波が平坦になること=意識が無いこと」になっているが、その測定は、頭皮上に電極を当て、脳から出てきた脳波のうち頭皮まで届いたものだけを拾っているにすぎない。厚い頭蓋骨で遮られてしまい、探知されない脳波もあり得る。脳波が完全に無くなったからといってその人の意識が無いとは断定できない。救命すべき医師が、一見科学的な衣を纏って、実は非科学的な憶測で意識の有無を断定してはならない」
「脳死を人の死の基準とする科学的論理が破綻した後に、まさに驚愕すべき論理が出てきている。アメリカのハーバード大学の麻酔学教授ロバート・トゥルオグ氏は、「移植臓器の獲得のためには、時には殺人も認められる必要がある」という結論を、医学論文で言明しているのです。理念としても殺人を公然と認めるなら、我々の人間社会は崩壊に向かう。日本でも松村外志張氏は、死なせてよい幾種かの状態の人々を定めて、「与死」の概念を当てて、臓器や組織を取り出し、医学利用・産業利用していこう、こう提言する。そして与死の対象者の一つが脳死者なのです。これは、脳死者がまだ生きている事実を認めているからこそ、なしうる提言に他なりません。極め付けとして、雑誌の編集後記ではその論文を絶賛する移植医のコメントが付いています」
「延命効果」への疑問符
移植の成績は移植後の生存率何によって表されてきました。しかし、その人たちがもし移植をしなかったらどうなったか、という疑問がかねてよりありました。
というのは、「移植をしないと助からない」と宣告されて何年も待っていた人が、ようやく順番が来て移植をすると数ヶ月で亡くなってしまうケースが少なからず報道されてきたからです。
けれども、やはり人生をやり直すことが出来ない以上、移植をした場合としない場合は比較対照出来ないのではないか、したがって、移植による真の延命効果は知りようがない。
そう思ってきました。ところが数年前、心臓移植をした場合としない場合を比較対照した、アメリカの驚くべき統計調査を発見しました。
心臓移植が必要だと言われて移植の順番を待っているとします。
アメリカでも臓器不足で、すぐに移植が出来ないのです。こうして、9ヶ月間内科治療だけを続けてくると、その9ヶ月後の時点でさらに移植をしないまま1年間生きていられる割合が、移植をした人の1年生存率と同じになるのです。
9ヶ月を超えてさらに待った場合の1年生存率は、移植をした人よりかえって上がってしまう。
これは別の見方をすると、本当に移植をしないと助からない人の多くは、順番を待っている間に亡くなってしまう。
実際移植を受けられた人のかなりの割合が、移植をしてもしなくても同じ、むしろしなかった方が長生きできるということです。
しかし、この分析は救命のみに焦点を合わせており、かつ1年生存率だけの話です。
5年、10年生存率はどうか、生きている状態の質はどうか、という問題は残ります。
しかもこれは15年前のたった1本の、心臓移植に関してだけの論文で、厳密に言うと統計調査の処理の仕方にも少々の問題があると私は見ています。
「それでも脳死臓器移植で助かる人がいるのだから」というところに戻るかもしれませんが、移植の延命効果を厚生労働省や日本移植学会は責任を持って統計調査し公表すべきでしょう。なぜなら、「移植をすれば助かる」という前提自体が事実に悖るかもしれないからです。
厚生労働省と関係の深い機関に日本臓器移植ネットワークがあるのですが、そこのサイトではレシピエントとなった人が何年何月移植手術を受けたか、亡くなった場合はその年月がずっと見られるようになっていました。
ところが今年の1月下旬に、レシピエントの死亡年月が一斉に消えてしまったのです。レシピエントの数が百数十に達し、統計調査が出来、移植の延命効果がわかる可能性が出てきたところで消されてしまいました。
脳死臓器移植に反対する者は、では代替医療を提示せよと追及されがちです。
しかし仮に代替医療が無くても、脳死臓器移植にあっては臓器移植の前に、まず臓器摘出によって脳死者の命を殺めているのが事実です。
事実だからこそ、「移植臓器の獲得のためには、時には殺人も認められる必要がある」といった暴言と呼んでも差し支えない発言や、「与死」などのウルトラ方便が登場するのでしょう。
臓器提供を待ち望んでいる方々には残酷に聞こえるでしょうが、「人を殺してはいけない」という人間社会の倫理の根幹は絶対に潰してはならない、と考えます。
代替医療はある程度あります。周知のように腎臓については人工透析器があるし、心臓や肝臓では別の外科手術や内科治療がある。ただそちらがあまり発達していかないのは、お金が注がれないからです。その主な理由は、そうした医療に投資しても、それに見合った大規模の市場が開かれないからでしょう。
より広く考えるべき社会的問題
脳死臓器移植における「臓器不足」という言葉を改めて考えてみると、それは脳死者が不足するということに他なりません。
ドナーとなる脳死者は救急救命医療が発達するほど少なくなるので、そこに脳死臓器移植の原理的な矛盾があります。
レシピエント側にとっても、順番が来ないと焦ってしまったり、誰かが脳死状態に陥ることを望んでしまうのは非常に不幸で残酷なことです。
これはブラックユーモアのような事実ですが、アメリカは自動車国家なので交通事故を減らすために高速道路の速度制限を厳しくした。それにより事故は減ったけれども脳死者の数、ひいては移植件数も減ってしまった。だから今度は速度制限を再度緩めようという議論が起こったのです。
そもそも法改定の主眼は、A案のように脳死を一律に人の死の基準にすることにあるでしょう。
脳死者の治療は現在の日本では保険治療で、1日に10数万円かかると言われている。
脳死を一律に死の基準とすることで、その人たちへの治療費、つまり保険負担費・税金が脳死者の人数×生きている日数分だけカットできる。
同時に脳死者の利用は臓器移植だけが有名ですが、それだけではありません。
新薬を投与し、効果や副作用を調べられるし、長く脳死でいてくれたら、例えば世界的に足りない血液をはじめ様々な成分を無尽蔵に作り出す工場になる。
さらに脳死者の精子と卵子を取り出して受精卵を作れば、様々な研究開発に利用できます。
こうして莫大な市場が開かれていく。費用をカットしつつ様々な利潤を生み出せるというわけです。
最後に、日本の場合は特に教育基本法の改定と連動している、と見ています。
現在の臓器移植法の改定にあって、A案とB案の提案者のいずれも「脳死や死の教育を普及しなくてはいけない」と力説しています。
「脳死状態で社会に迷惑をかけるのなら、自分から臓器を提供しよう」とか、「社会のため、国家のために臓器を提供する子はよい子」といったイメージ教育がなされかねない。
教育基本法が今の方向で改定されると、一人ひとりの児童や生徒が一個の権利を持った市民・国民ではなく、事実上“臣民・少国民”に変わってしまう。
国家のために奉仕する子どもたちを作る一環として、社会・国家のために臓器を提供する子どもが位置づけられていくわけです。
既に、誘導的な尊厳死・安楽死教育は小中高で広がっており、担当教員の授業パターンがほぼ決まっています。
植物状態や様々な闘病生活で厳しい状態にある人の映像を見せたり文章を読ませた後で、例えば「尊厳死や安楽死という方法があります、その上であなたはどう考えますか」と教師が問いかける。
こうして、やはり尊厳死や安楽死を選択すべき、という発想が生徒に涌出するように導いている。ですから教育基本法の改定に異議を唱えている方は、臓器移植を初めとした医療問題の先端で起こっていることにも視野や射程を広げていただきたいのです。
7/3/16