「開かれた地域共同体」での”合理性”
■ 『Re: 価値観問題や「開かれた共同体」の仕事や土地について』
まさちゃん:
1つは前半に出てくる“今風の合理的「システム設計」”、もう1つは後半に出てくる“根源的に合理的な社会”です。
この“今風の合理的”と“根源的に合理的”の間にはどのような違いがあるのでしょうか?
「今風の合理」:資本(集積され組織された貨幣)が増加するかどうかが判断基準となる合理性です。現在は、資本家のみならず雇われ人や国家機構も、資本の増殖を通じて、生存を維持したり生活の向上を達成するという状況に置かれています。「今風の合理」が嫌いであっても、それに逆らうと自滅することになります。私が常々書いている“経済論理”に当たるものです。
「根源的な合理」:一人一人が安心して生存でき、快適に気持ちよく生きていくことを判断基準に、それを達成するため、自分(家族)だけでは無理であったり非効率な活動を分業(交換)や協働を行うというものです。
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「開かれた地域共同体」関連のレス 投稿者 あっしら 日時 2003 年 12 月 29 日 より
さらに、最後に“人々は自然と社会主義(相互扶助的共同体主義)に向かうと思っています。”とあるように、あっしら様には、人間(あるいは人間社会)は時間がかかっても結局は合理的な答えに到達するという、人間総体に対する無条件な信頼感が伺えます。しかし、私には、周りを見渡して、いや自分の内面に照らして、そのようなことは信じられません。それとも、世界史は世界精神の自己実現過程であって(ヘーゲル)、
あたかも自然史的過程のごとく人間の経済関係は最終的に社会主義(相互扶助的共同
体主義)に到達して(マルクス)、歴史は終焉する(ヘーゲル、フランシス・フクヤマ)とお考えなのでしょうか?
まず、普遍的絶対的という意味での合理があるとは思っていません。
そのときそのときの合理性判断で動いていくもので、措定されたゴールに向かっていくという見方はしていません。
「人間総体に対する無条件な信頼感」はありませんが、欲望に突き動かされるものであるがゆえに合理的(目的達成的)な判断をするとは思っています。
「人々は自然と社会主義(相互扶助的共同体主義)に向かう」というのは、歴史と現実を眺めてきたなかでの判断です。
関係的な現実活動を通じて不都合なことを解消しながら歴史は刻まれていくものだと考えているので、提示されたような歴史観は持っていません。
岸田秀を持ち出すわけではありませんが、人間は、ある意味、本能の壊れた動物であって、本能のプログラムどおり、自然の循環の中に無理なく溶け込んで生きていける存在ではありません。
人間は生産手段まで造って必要なのをつくりだすという意味で、わざわざ迂回的な生存様式を採用している動物だと思っています。
そのために、頭の中であらかじめ結果を思い描き手順も定め、それに従って人々が協働し目的を達成する、そして、その過程と結果を反省し智恵を社会的に蓄積していく社会的動物です。
そして、それが人間という動物の“本能”だとも思っています。
さらに、人間自身が“自然”であり、神ではない人間がどんなに横暴で馬鹿げたことをしても、自然の循環の中の出来事でしかありません。
自身の生存と種の再生産に必要なもの以上の過剰な欲望を持つ(そしてそれが意識の根源になる)ことこそ人間の証です。
だからこそ、人々は、それを実現するために、頭の中であらかじめ結果を思い描き手順も定め協働します。
『人間が不可避的に持たざるを得ない過剰な欲望をどうやって制御するか?』
これに対する回答なくして、“開かれた地域共同体”であろうがなんであろうが、長
続きはしないと思います。(ちなみに、現在社会は、途中経過はいろいろあれど、最終的には自然への過剰な負荷(平たく言えば自然環境破壊)によって過剰な欲望は処理されています。)
今でも過剰な欲望どころかそれほどでもない欲望でさえ制御されています。
別に理念的な存在ではないのでは、「開かれた地域共同体」が長続きしないものであれば、別のものになるか移行することになるでしょう。
自然環境破壊が行き過ぎれば、生存できない人々が増えたり、類そのものが存続できなくなるかもしれません。人類がそれほど愚かな動物ではないと思っていますが、そうなったら、それはそれで仕方がないことです。(人間の優越性や不滅性が保証されているわけではありません)
それが、「人間自身が“自然”であり、神ではない人間がどんなに横暴で馬鹿げたことをしても、自然の循環の中の出来事」という意味です。
非人間的“自然”は“人間”的自然のために存在しているのではなく、“人間”が“自然”に働きかけて生存や欲求を充足させなければならないという関係性です。
このようなことは前近代までは当たり前に近い常識で、“人間”が“自然”とは別物で、“人間”が“自然”を支配して思うがままに対処できるという錯誤を持つに至ったのも「近代」の特性だと思っています。
聖人君子以外の、過剰な欲望を抱き、愚かな判断しかできない99.9999%の人間の群れが破滅への道をたどらないようにどのように統治するのか?
“開かれた地域共同体”理論の中で私が一番知りたいのは統治論です。
““国家”がどのような存在になるかは、短中期的には存続するだろうが、その意義や役割は減少するというものです。”とあるように、あっしら様のお考えでは、政府や統治機構の役目は現在よりも軽くなるはずとのお考えですが、一体その根拠は何でしょうか?
多くの人はそれほどの欲望を抱いているとは思えません。つつましい欲望でさえ贅沢と考える人のほうが多いほどです。
統治機能の縮小問題はいろいろ説明してきたつもりです。
まず、「近代国家」ほど統治が肥大化した国家社会はありません。
「開かれた地域共同体」に到達する前の、国民経済主義に基づく国家社会のなかで統治の意味や必要レベルも認識されると思っています。
「一人一人が安心して生存でき、快適に気持ちよく生きていくことを基準に、それを達成するのに自分(家族)だけでは無理であったり非効率な活動を分業(交換)や協働を行うという」という考えに基づき組織化されている社会が、現在のほどの統治機能を必要とするとはとうてい思えません。
■ 『協働社会なりの弱者救済方法はないもだろうか?』
最大多数の最大幸福さんへのレスが思うところを簡単にレスします。
最大多数の最大幸福さん:
社会的弱者や人より活動力が劣る者は、やはり”生存最低レベル”で生活しなければいけません。
まさちゃん:
この考えにはやはり正直言って失望してしまいます。
ただし返す返す残念なのは、“開かれた地域共同体”(あるいは“協働社会”とでも呼ぶべきでしょうか)に固有のorならではのorでしかできない、弱者救済方法はないものだろうか?という点です。
現状の社会福祉やセーフティネットの最低レベルが上昇する、というだけでも満足すべきなのかもしれませんが、何か共同社会特有の新しい弱者救済の社会的位置づけ(あるいは弱者そのものの位置づけが質的な変化を迎えないだろうか)のようなものは生まれないものか?という思いがしきりに積もります。
ある条件を得れば活動が可能になる人には、その条件を共同体的活動でつくり出す方向に変わると予測しています。
「今風の合理主義」では、身体が十全に機能しない人を雇用することは不合理だと判断されるので、そのような人たちは社会的活動から排除されがちです。
また、身体機能を補完するものの開発や製造も、「今風の合理主義」=儲かるかどうかで判断されるので、そのようなものが手に入れば10万人の人が活動に加われることがわかっていても生産されなかったり、価格がべらぼうに高くて経済的に恵まれたごく一部の人しかその夢が叶わないという状況です。
「一人一人が安心して生存でき、快適に気持ちよく生きていくことを基準に、それを達成するのに自分(家族)だけでは無理であったり非効率な活動を分業(交換)や協働を行うという」という考えに基づいた共同体で、快適な生活を維持するために必要な活動時間が年間千時間ほどであれば、目が見えない人が安心して動ける仕組みを作ったり、手がないひとがものづくりに従事できる条件をつくろうという動きになると確信しています。
現在ほどの利己主義的な社会はないにも関わらず、ひとのために自己犠牲を顧みず活動しているひとは数多くいます。また、自分が行ったことでひとに喜んでもらうことで大きな喜びを感じる人も数多くいます。
5人掛かりで1年間かけてある身体条件を持つ人が共同体的活動ができるものをつくり、それによって10万人が共同体的活動に5年間(磨耗して使えなくなる期間)加わることができれば、「根源的に合理」的なのです。
そして、いろいろな身体条件やいろんな感性をもつ人たちとの協働は、それぞれの人にとっていろんな意味で楽しいものになると思っています。

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