アンケート:将来住んでみたい社会 まっくすさんの回答
■こんな社会に住んでみたい
1.世界統一通貨、日本円以外に、それぞれの「自己愛」をまっとうするための「勝手にさせて」通貨がある。「勝手にさせて」通貨には利子は付かない。
「勝手にさせて」通貨は日本円と両替できるが、基本的に日本円より割安。都度のレートは両者の需給で決まる。
2.政治家が、「勝手にさせて」通貨の意向を尊重せざるを得ず、庶民がかなりえばっている。庶民は「風流」や「美意識」を反映しない公共事業には首を振らない。
たとえば、見苦しい電柱の地下埋設事業には大きな予算をつけるよう要求する。
3.空前の江戸レトロブームが起き、生活様式からけんかの仕方まで「東京」の「モダン江戸」化がビジネスベースで進んで、ことさら「エコエコ」いわずとも、人々はバーチャル江戸商品(実物系)、メンタル江戸商品(電脳系)の消費にあけくれ、重厚長大、資源消費型の商品がさっぱり売れなくなっている。
4.学校、役所、企業に「参勤交代」制が導入され、都会人と田舎人がお互いに住処を変えることが常識となって、国内のモビリティが高まっている。
5.古代史の書き換えが進み、日本人がメソポタミアあたりと血統的につながっている可能性が真剣に議論されている。
6.女帝が即位されている。そのせいか世の中全体が「たおやかで、みやび」な雰囲気になっている。
7.個人的には・・・・・
私は50を前に「隠居」し、都市と地方を往復しながら、電脳の海の刺激に疲れると、ぶらりと焼酎の蔵元、古い神社、温泉巡りで楽しいときを過ごしている。
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Re: アンケート調査「あなたは将来どんな社会に住みたいですか?」投稿者 まっくす 日時 2004 年 4 月 05 日
■共同体について−「くに」の概念
日本と西洋では伝統的に「くに」というものに対する観念が違うらしいんです。
吉本隆明というひとが有名な『共同幻想論』の序文で、うろおぼえですが、「西洋では国家が実体のない『観念』としてかんがえられている事実を知って青ざめた」というようなことを言っています。
何に青ざめたかというと、西洋では「くに」にNationとStateの二種類があって、Nationが現実の国土(郷土)、Stateが法体系など人間の頭の中だけに存在する国家。きっちり階層化されています。(日本の「くに」はどちらかというとNationに近い。)
どういうことかと言えば、Stateの方がNationよりえらく、神に近い。向こうは何でも抽象的なものほど高級ととらえる癖があります。
戦前日本に培われた吉本の「からだ」はそういう区別を知らないでいた。こりゃ、まずい。こんな理詰めで押してくる人たちに伍していくには、こっちも「自前の国家論」を打建てないとダメだ、と吉本は考えて『共同幻想論』という本を書きました。
「共同体」というとき、私がよく思い浮かべるのは、この吉本の「青ざめ」反応です。
私だったら、別の意味で「青ざめる」わけです。
「そこへいっちゃうかぁ」という驚きと言ってもいいでしょうか。とにかく、変な「近代」志向へ向かうんだろうなあ、という居心地の悪さです。単なる世代ギャップには思えませんでした。
苦労して読み終えた『共同幻想論』(うねうね難渋な文体が嫌い)。イヤな予感は当たって、案の定、吉本は「天皇制」を攻撃します。天皇は横合いから入ってきて原住民を侵略した「天孫族」で、そいつらが原住民を支配したのが日本だっていうわけです。
(この辺の認識は完全に、戦後の津田左右吉イデオロギーの囚人です。)
吉本は「天皇制」を解体しないかぎり、永久に原住民は浮かばれない「敗北の構造」があるといいます。その辺の「アジア的後進性」を払拭しないと日本は負け続ける、と。
これって一見、原住民(吉本用語では「大衆」)の味方を装ってるけど、実は原住民に対する蔑視なんですね。原住民にとって確かに「国家」は警察であり、役所であり、税金です。その限りでは「国家」はうっとうしい存在であり、吉本の議論はそんなにすれ違っていません。
ただ、それが「天皇制の解体」へ直結していくと、庶民の「身体性」がどこかへ飛んでいってしまいます。庶民は日本の「からだ」なんです。「あたま」と切り離せない。
その接続点に「天皇」があります。「天皇」を「解体」すれば、あとはてんでんばらばらの「対幻想」か「個幻想」の塊に過ぎないことになる。それこそ絵に描いた餅ですよ。
私は「くに」というのは結果オーライだと思っています。かりに遠い古代に、天孫族による侵略があろうが征服があろうが、それはそれでいいんです。そうじゃないような国のほうがよほど珍しい。
重要なのは、そうやって文句を垂れる吉本を含めて、いまある日本人の基礎を営々と培ってきた「その後の日本」のほうです。
「くに」を考えるとき、私は「個人」を前面に立てると間違うと考えています。あくまでも「共同性としての庶民」が重要だと。
「くに」は土地であり、ふるまいのフレームワークです。血縁地縁がうっとうしくて都会が築かれたのも事実ですが、それもこれもフレームワークがあるから可能なことです。フレームワークはなるべくゆるいほうがいいとも思いますが、それは枠があることを前提にして、初めてそう言えることです。
明治期以前の日本では、「くに」は「日本国」じゃなく「地域」を指していました。
「くに」があちこちにあって、それが寄せ集まっている。真ん中には時の権力者が居座っていますが、その背後には、深遠な空虚が穿たれていて、そこに「天皇」がイマシます。「天皇」は「生身のブラックホール」であり、言いも悪いも、清濁併せ呑む深い"穴"のような存在です。そういう"穴"がある安心感はなににも変えがたいと昔の人は思っていました。藤原も源氏も足利も徳川も、権力者は移り変わっても、天皇はまるで定点観測点のように存続し続けてきました。
この"穴"は、個々の「くに」を勝手に生きさせつつ、全体を緩くまとめあげるという非常に耐用年数の長いシステムとして機能してきました。私はそこに優れた民族の知恵を見ます。
そういう伝統世界へ吉本のように「自前の国家論」を対置するのは、何と言うか、非常に無粋ですね。それこそ「からだ」に対する「あたま」の越権行為です。
西洋的なステートによる統治体系は、結局、「あたまでっかち」なシステムをつくるには適していますが、「きもちいい」システムづくりには向いてないんじゃないでしょうか。少なくても、私のような「原住民」のDNAはそう感じます。
■「開かれた地域共同体」のイメージ
「開かれた地域共同体」関連の話で、あっしらさんが、ロシアのミール共同体というのを出されていました。おそらく似たようなことを仰っていると思います。
(間違っていたら訂正してください。)
ミール共同体は共産化以降「解体」されたといいますね。
それは、クロポトキンのようなアナーキストにとって「連帯と自由」の彼方に憧憬される「いまはなき」世界だったのでしょうか。だとしたら、それはロシア庶民にとって確実に「くに」であったはずです。
日本の場合はどうでしょうか?瀕死の状態だが「くに」はまだかろうじて、片隅で「復活」のときを待っているんじゃないでしょうか?修復可能な範囲というか・・・・・
私のなかにある「開かれた地域共同体」のイメージは、つねに「懐かしさ」の感覚を伴っています。
西洋はキリスト教の受容、ルネッサンス=宗教革命など、「過去との断絶」を繰り返すうちに、この感覚を「博物館」や「歴史的建造物」のなかへ封じ込めました。
王朝が次々と打ち倒され、そのたびに歴史が「リセット」された中国「四千年の歴史」、「連続性」の点では非常にあやしいものです。
これに対して日本は「連続性の国」です。その象徴として「天皇」がおられ、私たちは「御先祖様」と地続きであることを、その気になればいつでも実感できる環境を与えられています。
ここから出る結論は非常に簡素で、「開かれた地域共同体」へ赴くとき、日本に「革命」すなわち「構造改革」は本質的に不要だということです。
「古代は現在も生きられている」ことが決定的に重要だと感じるからです。

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