晴耕雨読

淡々と日々の暮らしを立てるために働き続け、木々の緑、雨音、枯れ枝に架かる雪を密かに楽しむ。
老いては老いを楽しみ、若者の成長に目を細め、良い人生だったと感謝しつつ旅立つ。
こんな当たり前の人生が許されない世にはして欲しくありません。

 

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投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、そういう訳の分からないゴシップ編集長やら、いかにも烏賊臭そうな右翼作家を擁護するぐらいしか経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その5byにいのり
そこで、長年に渡る慣習/悪弊を、これでもかという形で暴露されてしまった『文春』側、編集長の公式の言い訳をみてみることとする。
全体を通して読んでみると、「等」だとか「など」という語が妙に引っ掛かってくる、今時の拙劣官僚が起草し会社の経営陣と広報とでこねくりまわしたかのような愚劣な文章だが、『週刊文春』編集長名でリリースされているのだから文責は編集長に属する事になるのだろう。他人事ながら恥ずかしい文章をリリースしたものだ。
致命的なのは「ポストトゥルース」をめぐる『新潮』側の繰り出したカウンターパンチの意味に気づいていないらしい鈍感さ、あるいは気づいてシラを切っているのだとしても、非公式性の内にありながら最低限踏まえられるべきモラルに基づく闘争における踏み外しを『情報戦』という一語を持ち出す事によってかわそうとしている点にある。
『情報戦』の一語が顔を出すくだりを引用してみる。
(引用開始)
私たちは毎週、締め切りギリギリまで全力で取材にあたっています。その情報収集の過程で、他メディアの動向をつかむことはしばしばあります。そうした「情報戦」は、さまざまな形で新聞やテレビなどのメディアも行っています。
(引用終わり)
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、そういう訳の分からないゴシップ編集長やら、いかにも烏賊臭そうな右翼作家を擁護するぐらいしか経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その4byにいのり
ところがここに来て『新潮』側が、「もうそういう事はいい加減やめないか」と、赤裸々な次元でのリアルを記事化する事で暴露/告発してみせたことになる。
どんなに一枚岩に見える組織や集団でも路線闘争はつきものだし、まして会社組織が違うなら尚更だろうという見方もあるだろう事は承知の上で言っているのだが、今回の『新潮』vs『文春』騒動は、"保守ロンダン"の外的イメージ、マスイメージに決定的な亀裂が生じる可能性を繰り込んだやり方に『新潮』側が踏み込んでみせたという意味で、「メディア論」的には「産経vs朝日」みたいな一方がルサンチマン全開でくってかかる様相となるヒエラルキー型闘争よりも遥かに興味深いものがある。
具体的には、当該記事はその『朝日』の従軍慰安婦誤報騒ぎをきっかけとして、元『NHK』の人気ジャーナリストを狂言回しとしていかに用いるかという『新潮』『文春』双方の思惑や記事化の交錯から始まっているのであり、「事実」を中心にしているように見えて実は事実はそっちのけ、事実の深堀りや分析、解説や解決という本来的なジャーナリズムの在り方よりも、プロパガンダの巧拙(ポストトゥルースの所有権)をめぐって蠢く人や組織の闘争劇として眺められる点が興味深いのだ。(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、そういう訳の分からないゴシップ編集長やら、いかにも烏賊臭そうな右翼作家を擁護するぐらいしか経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その3byにいのり
経緯の詳細については、『新潮』側の記事をみていただくしかないが、事実関係も類推に関わる部分も、それなりに信憑性の高いものである事は伝わってくる。
(出版界やメディアというものにあらかじめそれなりの知的好奇心をもつ)「外野の一般読者」という立場からみて、このような記事が出た事の興味深さは、外から眺めているだけなら"一卵性双生児"のようにすら見えていた組織の少なくとも一方が、"個性を主張しようとした"あるいは"一緒にしないでくれという意味での差異化を試みてきた"点にあるとみる。
「保守寄りのメディア」としてはそれなりの歴史と権威(といっても週刊誌レベルのそれだが)を有している両誌は、端からみれば「スクープを競い合う間柄」というよりも、巷間の保守的人士(要は権威や権力に追従的で事大主義的なその辺のオッサン)が、どちらを気紛れに読んでも似たような内容の情報を小耳にはさむ事の出来るよう設置された保守右翼側のプロパガンダ装置ぐらいにしか見えていなかったのであり、実際、『文春』側にはそのような自覚があったがゆえにせっせと"産業スパイ"を繰り返し、「保守ギョーカイ、保守ロンダン」の論調の統一性を忖度し配慮していた可能性はある。(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、そういう訳の分からないゴシップ編集長やら、いかにも烏賊臭そうな右翼作家を擁護するぐらいしか経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その2byにいのり
その上で言えば、今回勃発した(たしかに週刊誌らしい下卑た争いには違いなかろうと)「新潮」vs「文春」騒動と呼ぶべき騒ぎは、「比較メディア論」的な視点から言って興味深い点があるのは事実だ。
仮に"騒ぎ"が、いわゆる情報スピンの意図の相当程度加味されたものだとしても、面白いものは面白いのであって、逆に言えばこの程度のスピンで他が疎かになるのなら、その程度の情報キャパシティしか持たない懐具合の社会をこそ問題とすべきであり、こういう下らないながらもそれなりの権威性のようなものをまとってしまった組織集団が、相互に牽制し合うのは談合するより遥かにマシだという意味でも、両誌に関する「比較論」的なものがそれなりのレベルで論じられても良いはずだ。
さて、ではその"騒ぎ"とは何だという事だが、『週刊新潮』5/25号の"スクープ"記事、『スクープ至上主義の陰で「産業スパイ」!新潮ポスターを絶え間なくカンニング!「文春砲」汚れた銃弾』と題された文章について話題にしようとしているのであり、新潮誌によれば文春誌は長年に渡り、『新潮』の中吊り広告を公開前にカンニングし、自誌の工作さに反映させていたということのようなのだ。(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、そういう訳の分からないゴシップ編集長やら、いかにも烏賊臭そうな右翼作家を擁護するぐらいしか経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その1byにいのり
「比較文化論、比較人類学」というような、ヒエラルキーを持ち込むことなしに「比較」によって複数の対象を論じながら何らかの種や類の客観性を見いだして行こうとする方法が、構造主義や言語学、あるいは広くシステム論、記号論、情報論といった形で近代後期に入って拡散普及するようになったが、「比較」という視点の導入は、「客観性」に自らは配慮しているつもりでも、対象を絞り込んでしまうことでともすれば「主観性や観念性」にどうしても傾きがちな人文系の学者や思惟者らには欠かせないスタンスになっているのは今や論をまたないと思われる。
その一方で、ポスト近代型の言説というものは、この「比較○○論」から始まり、同じ「比較」でも「差異」と呼ぶしかないような微妙で微細な「異なり」に着目して、「差異の様相」や「差異の機能」そのものを論じるようにさえなったのだが、「記号論的な差異の観念的操作」のような段階に達して部外者には了解不能性が高まり、「経済学」の方に秘匿的かつ脅迫的に応用されるようになった他は、内部的に崩壊していったという過程を既に経ているのも事実だ。
(つづく)
投稿者:【フランス人は、次の大統領候補にどんな人物を有力候補として見出だすべきかについて早晩大々的な国民的議論を開始すべき状況に追い込まれている現実から逃避気味だ。逆に言えば、今回の大統領候補など無視しその事について大いに議論すべきなのに、しそうもないのは何故か(別角度から言えば、フランス人権宣言の考案とその社会化の系譜に連なるべき人々は、いかにしてフランス社会のメインストリームからじわじわと排除されて行ったのか)または[極右]vs[極金]というおぞましき非対称性闘争について】その5byにいのり
そうこうする内に(?)フランス大統領が決まり、韓国大統領もが決まってしまった。
仏大統領になった人間を観察するなら、かの人は、まちがいなく正真正銘のサラブレットとみなしてよろしいのではなかろうか。
サラブレット、すなわちプロの競走馬(笑)ということであり、気の毒に馬主がいるのはほぼ確実だろう。つまり「彼に関する権利の保有者」は実在するのだ、きっと。
選挙を競馬にたとえるのは余りに凡庸な比喩と言われればその通りなのだが、今日の選挙というものは賭場との差別化がまるでなされていないという意味において、比喩の領域から脱落し洒落にすらならなくなっている。
彼は比喩ではなしにサラブレットなのだろうし、私たちは比喩ではない賭場の恐ろしさというものにまだまだ疎く無頓着だ。
比喩ではない賭場にあっては、胴元が必ず儲かるように出来ているのに、私たちは選挙場がまだ賭場ではないはずだという幻想を抱いている可能性がある。
そんな幻想を吹き払うには、"良心的有権者"らは己れを一度新自由主義者に見立てて次のような要求をしてみるのも一興かも知れない。
「何票取ったか知らないが、大統領権限とやらを、一票10万ユーロ換算で証券化してくれないか」
つづく
投稿者:【フランス人は、今回どちらを選ぶにしても、それより次の大統領候補にどんな人物を有力候補として見出だすべきかについて早晩大々的な国民的議論を開始すべき状況に追い込まれている現実から逃避気味だ。逆に言えば、今回の大統領候補など無視しその事について大いに議論すべきなのに、しそうもないのは何故か(別角度から言えば、フランス人権宣言の考案とその社会化の系譜に連なるべき人々は、いかにしてフランス社会のメインストリームからじわじわと排除されて行ったのか)または[極右]vs[極金]というおぞましき非対称性闘争について】そ
そしてその「他者の世界」は、彼らにとってパラレルなワールドではなく、彼の生の実相を脅かし、時には否定するポテンシャルを秘めているがゆえに囲いこむべき(グローブすべき)ワールド、それが拒否されるなら殲滅すべき(殺戮しても良心の痛まないエイリアンの住む)排除すべき、または抹消すべき世界とみなされる。
その危険性と偏執性。
今"経済学"と呼びならわされているある種の「思考上の形式」は、そのような悪意や敵意や怨恨の渦巻く磁場の拡大のために奉仕しようとする体系(もしくはからくり)なのだと、一つの見立て(シミュレーション)をしてみるなら、なぜ彼らが、人々が当たり前に穏やかに暮らそうとするのを拒絶し忌避しようとし、人々を焦燥渦巻く無駄な場へ赴くのをけしかけてやもうとしないのか、その動機的側面が理解しやすくなるのかも知れない。
私たちは、彼らが煙幕のように私たちの前に示してみせる(善意の第三者の振りをした)「経済学の諸理論」と称するものに過度にこだわっている内に、[生活]に持ち込まれる観念的な悪意や敵意、怨恨といった一種の心理的な仕掛けとでも言うべきものに引っ掛からないようにすべきではないのだろうか。
(つづく)
投稿者:【フランス人は、今回どちらを選ぶにしても、それより次の大統領候補にどんな人物を有力候補として見出だすべきかについて早晩大々的な国民的議論を開始すべき状況に追い込まれている現実から逃避気味だ。逆に言えば、今回の大統領候補など無視しその事について大いに議論すべきなのに、しそうもないのは何故か(別角度から言えば、フランス人権宣言の考案とその社会化の系譜に連なるべき人々は、いかにしてフランス社会のメインストリームからじわじわと排除されて行ったのか)または[極右]vs[極金]というおぞましき非対称性闘争について】そ
そういうわけだから、競走馬になるしかないという憐れな生を先天的に受け入れざるを得なかった一方の存在は、ある種の負け惜しみとして、あるいは運命や環境への怨嗟込みで、自らの「実力」やら「強さ」というものを徒らに誇示し始めるというのが実態だろう。
その行き着く果ては、競走馬ならぬそれよりも遥かに過酷な闘牛としての実存だ。
「市場」という「闘牛場」の中で鼻息を荒げる、どう気取ったところで近寄りがたいほど野卑で、憐れなまでに興奮し/させられた牛たち…。
闘牛場の中の牛がスマートホン片手に突撃先をどれだけ練ってみたところで、彼自身がスマートにメタモルフォーシスできるわけはないのだから、結局はただ単に突撃するだけ…どんなアルゴリズムを駆使しようと、最終的には一か八か突進する…それが義務づけられているという野蛮で残酷な生の条件が変わる訳ではない。
そんな憐れな狂牛どもが、牛の本来的な生活の相としての草原の丘の上でのんびりと草をはむ生活などというものは想像だに出来ず、所与のマトリックスを「全世界」だと思い込む時、マトリックス内の順列組合せにいかに長けたところで、あり得たかも知れないオルタナティブな生は、彼にとって「他者の住む世界」でしかない。
(つづく)
投稿者:【フランス人は、今回どちらを選ぶにしても、それより次の大統領候補にどんな人物を有力候補として見出だすべきかについて早晩大々的な国民的議論を開始すべき状況に追い込まれている現実から逃避気味だ。逆に言えば、今回の大統領候補など無視しその事について大いに議論すべきなのに、しそうもないのは何故か(別角度から言えば、フランス人権宣言の考案とその社会化の系譜に連なるべき人々は、いかにしてフランス社会のメインストリームからじわじわと排除されて行ったのか)または[極右]vs[極金]というおぞましき非対称性闘争について】そ
だが実際には、私たちは前者たるべくけしかけられ、あおられ、ふるいにかけられ、懐疑したり怖じ気づこうものなら人非人であるかのごとくどやされ、おどされ、背後で鳴りやまぬ鞭の音に首をすくめながら必死の体でまた走り出す。
そういうことの集約が今アメリカ国内に観察できる様々な醜悪な社会現象であり、その最も過激で尖鋭的な事象が銃の乱射事件だと言えよう。
可哀想に、アメリカに住む競走馬はアフリカの草原で走り回るシマウマを見て、「なぜだ、なんでライオンに脅かされているはずの連中の毎日が、あんなに穏やかで気楽そうなんだ、奴らも同じ馬なら脇目もふらず走りに走って仲間を蹴散らし一等を取れよ、一等以外は無意味のオレと同じ競走馬になれ!競走馬になって"闘え"よ!!」
そう喚き散らす。
勿論、なかには勘違いして走り出すどころか銃を手にするシマウマが出現することもあるのだ、実際問題。
だが、公平かつ公正に「馬としての良き生」というものがあり得るとすれば、それは「シマウマとして草原を自由に走り回る事」なのか、「誰かに権利を保有された(売買可能な)サラブレットとなり、仲間を蹴散らす事が即名誉であるような世界に生きる事」なのかは論をまたないのではないか。
(つづく)
投稿者:【フランス人は、今回どちらを選ぶにしても、それより次の大統領候補にどんな人物を有力候補として見出だすべきかについて早晩大々的な国民的議論を開始すべき状況に追い込まれている現実から逃避気味だ。逆に言えば、今回の大統領候補など無視しその事について大いに議論すべきなのに、しそうもないのは何故か(別角度から言えば、フランス人権宣言を考案しその社会化の系譜に連なるべき人々は、いかにしてフランス社会のメインストリームからじわじわと排除されて行ったのか)または[極右]vs[極金]というおぞましき非対称性闘争について】そ
まず、下記の標題、【私たちは、"政治が出来る"ことを望んでいるのではなく、"生活が出来る"ことを望んでいるはずです。いったい為政者(含む行政官)側に、本当にそれが分かっている人間がどれだけいることか】についてですが、「政治マニア」の皆さんには、何を言わんとしているのか、そもそも理解できないという方が多いのではないかと危惧しています。
そこで、最初の一文については、次のような言い換えをしてみれば、言わんとしていることが多少は明瞭になるのではないかと思い記してみます。
【私たちは、"お勉強が出来る"ことを望んでいるのではなく、"今、何をどうすれば良いのか的確に判断できる頭がほしい"と望んでいるはずです】
【私たちは、"(あたかもプロのアスリートのように)運動が出来る"ことを望んでいるのではなく、"体が健康でいられる"ことを望んでいるはずです】
【私たちは、"必要以上の金儲けが出来る"ことを望んでいるのではなく、"まっとうな商売(経済活動)と暮らしが出来る"ことを望んでいるはずです】
(この項、つづく)
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