晴耕雨読

淡々と日々の暮らしを立てるために働き続け、木々の緑、雨音、枯れ枝に架かる雪を密かに楽しむ。
老いては老いを楽しみ、若者の成長に目を細め、良い人生だったと感謝しつつ旅立つ。
こんな当たり前の人生が許されない世にはして欲しくありません。

 

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投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その33byにいのり
(さて、本編?に戻らせてください)
幕末に起きた事を纏めた「幕末史」とされている"説明"にしても同じだ。
私たちはもう、痒いところに手の届かない"説明"や都合の良い"解釈"、あげくの果ての"理想化"にはうんざりしてるんですよ、と言うべきではないのだろうか。
正直言って、ペリーという黒船に乗った「まれびと」の到来以降というもの「夜も眠れず」状態になった私たち日本人の各地の動きを改めて追ってみると、それはまるで今日の中東イスラム圏の縮小版でも見ているかのようなのであって、各地域の"部族"が、昨日の敵は今日の友だが、明日の話をすれば鬼が笑う?みたいな様相を呈しており、「日本国内で日本人の政治集団が自律的にしていること」という視点から少し引いた位置に三脚を置いてみれば、実は全く違った「情報戦」の実態が見えて来るのではないだろうか。
つまり、現在のイスラム圏で、無関心な異教徒にしてみればまるで仲間同士で内ゲバでもしているかのようにしか見えない彼らの引くに引けなくなった事情には、実はそういういさかいを拡大すべき"インセンティブ"を巧みに投入してみせる外部勢力がいるところまで、今の私たちには視界に入っているだろう、ということ。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その32byにいのり
(あれあれ?「週刊新潮」の6/22、29号ともにもう弾切れなのか、「文春」糾弾特集どこにも出てないよ?ダッセー(嘲笑)
新潮さん、これじゃあ、あんたがた売れるわけないじゃん(爆笑)
まぁ、今の右翼なんて、所詮はこの程度なんですよね。一昔前の右翼と言えば、根性ぐらいしか取り柄がないかわりに、その根性だけは負けまいという決意のようなものはうかがい知れたものだが、今の右翼ってのはその根性すらないですからね。もう、どうしようもない。
いやはや、あんまり右翼右翼言ってると、連中「我々は右翼なんかじゃない、右翼右翼呼ばないでくれ」とか言い出すんだろうなぁ、きっと。日本会議の連中とかも同じメンタリティなんだろーなー。みっともないですよね、彼ら。
それに比べれば「我々はまだマルクス主義を手放さない」と頑固親爺ふうのところも見せる共産党の方がむしろ「立派な保守」に見えて来てしまうわけです。
最近のこういう「逆説的政治情況」って、ほとほとうんざりしてるんですけどね。
にしても、「逃げるは恥だがナントヤラ」を地で行く「文春」の「逃げ得、ほおっかむり得」(失笑)をこのまま許してあげるんですか、新潮さん。
惨めだねぇ、もうやめちゃえばいいのに)
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その31byにいのり
江戸300年の長きに渡って大陸や半島との通路に位置しながら、幕府の外交方針によって形成された国内的地政図において、日本の辺境の地、僻地の地位に甘んじてきた(そして自分達が権力を握った後も、素養、教養の欠落ゆえに江戸幕府の描いた地政学を本質的に塗り替える事の出来なかった)薩長、とりわけ長州出身の人々。
彼らには、「尊皇攘夷」を叫びながら呆気なく挫折して結局は開国したあげく、西洋の文物を片っ端から闇雲に取り入れ、あたかも最初から西洋風の国家として出発したかのような振りをする「似せもの国家」(地政学的には当然の事ながらハチャメチャな「似せ=ニセ国家」)を建設し「現世御利益(カーゴ)」の到来に賭けるより他に術がなかった…それもこれも彼らには「日本を日本のまま近代化する」ための地に足のついた素養、教養が圧倒的に欠落していたからだ…今、落ち着いて考えるならそのような評価を下す他ないのではなかろうか。
「和魂洋才」なるスローガンがいつ頃から叫ばれたのか知らないしさして興味もないが、この言葉自体「和魂漢才」という言葉に「似せた」パロディ(ニセモノ)である事自体が、それをまともなスローガンだと思い込めた人々の底の浅さを物語ってやまない。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その30byにいのり
だが、下らぬ、低レベルの自己愛と、その程度に相応しい地を這い回るような薄汚い自尊心とを(いわゆる右翼のみならず、自分も、自分たちも紛れもなく所持していると自覚しながら)丁寧に、かつ慎重に拭いつつ、現実を直視して行きさえすれば、案外、冷静に受け止める事は可能なはずではないかと思っている。
例えば、「ペリー」という黒船に乗った「まれびと」が日本にやって来て以降、それに乗じて「尊皇攘夷」を叫び旧権力を打ち倒した人々はほどなくして何をやったか。
皇室を洋風/洋装に文字通り衣替えし、鹿鳴館を作ってダンスに明け暮れてみせた。(単に軽侮するのではなく、そのような煽動に近い鼓舞が必要だと考えるにいたった為政者らの内心の焦慮にまで思いを馳せるべきだ。)
勿論、本格的近代化に乗り出して様々な施策を成功させた地に足のついたレベルの仕事まで全否定するつもりは毛頭ないが、明治政府を建設した者たちは、これまで誉められるばかりだったのだから、後期近代も終わり戦後レジームとやらにも終止符が打たれようとしている現在、その宗教的・文化的に下世話過ぎる部分を徹底的に批判されても、今日の悲惨を払拭するためにはやむを得ないはずだろう。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その29byにいのり
ペリーとマッカーサーという「まれびと」の到来によって、私たち日本人がどのような振る舞いを始めたかについては、歴史を率直に振り返ってみれば「理解」は容易のはずだが、仮にその「理解」を困難にしているものがあるとすれば、それは私たちの中にある"信仰心"のようなもの、"自尊心"のようなもの、またそのような心性のコンプレックスによって練り上げられる"特殊な合理化に基づく理性"のようなものだろう。そしてそのような心性、理性は、分類的には「カーゴ・カルト」の範疇に属さざるを得ない事になろう。
その本質は招神信仰に由来し、神の使者にも擬せられる「まれびと」の属する圏の産物や生活様式をニセたもの、すなわち「ニセもの」を作り、それを象徴化すること(祈願祈祷の際の対象にしたり体感したりすること)にあるだろう。
だが、悩ましい事にと言うべきか、残念な事にと言うべきか、こういう現実を冷めた、あるいは覚めた/醒めた理性の次元で直視する事は、下手をするとアイデンティテイの崩壊(ゲシュタルト崩壊)のようなものにつながりかねないリスクをはらんでいるのであり、それゆえに「理解」が困難になりがちなのだ。いわば「知性」と「信仰」の利益相反のような関係性が生じるのである。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その28byにいのり
ペリーの時代はいざ知らず、日本研究がだいぶ進んだマッカーサーの時代ともなると、日本人には慇懃で紳士的な態度よりも、居丈高で強圧的な態度の方が効果的だとして意識的にそのように振る舞ったと確かジョン・ダワーあたりが明らかにしていたはずだが、彼らもそのような不思議な日本人の性向が、招神信仰と連関しているとまで分析していたかどうか。
今日、米国による日本研究がどの程度のレベルにあるのかについては勉強不足だが、例えば著名かつ知的な映画監督たちにしても日本趣味/研究を作品化する人は案外多く、特にあのスコセッシが日本では忘れられがちだった遠藤周作の小説を映画化するとは…噂に聞いてはいたが…やはり驚きだった。
少なくとも海の向こう側にあっては、「自己と他者」を見据えながら自分は如何すべきか、如何あるべきか見出だそうと誠実に努力している人々がそれなりの影響力をまだ保っている。
一方、この列島側はどうかと見れば「まれびとショック」が「まれびとコンプレックス」へといたり、遂には「サービル・スピリッツ」全開となって共同体の仲間を蹴散らし、ご主人様の覚え一番の目出度き奴隷たるらんとする倒錯者が、わらわらと湧き出てくる醜態とこれ相成ってしまった。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、そういう訳の分からないゴシップ編集長やら、いかにも烏賊臭そうな右翼作家を擁護するぐらいしか経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その27byにいのり
さて、近代化150年、戦後70年を過ぎてなお、私たちは「カーゴカルト型心性」から抜け出せてはいないように思われる。
この事は、Wikipediaの記述者がいみじくも言及していた「まれびと信仰」というものの素地が、私たちに未だ濃厚にある事が関係しているように思われる。
この信仰の形態と神道や天皇制との関係性など、私たちは自分たちの事をろくすっぽ知らずに、それゆえ、ネトウヨみたいに「無根拠な居直りが平気で出来るパッパラパー」をも大量に生み出してしまったのだが、私たちに「まれびと信仰」に傾斜しやすい心性があるのはほぼ間違いなく、私たちの「初期近代」と「戦後(後期近代)」は「まれびと」としての「ペリー」と「マッカーサー」の来邦によって始まっている。
この「まれびと」との関係性は必ずしも「信仰」と呼ぶことは出来ないかも知れないが、いわば観念上の「まれびと」が何か運命的なものを伴う実体として到来したようにしか見えないという意味で、「まれびと信仰」とは言わずとも「まれびとショック」という言い方は可能だと思われる。
現に、ペリーは黒船にマッカーサーはダグラス機に乗り、日本の地にいわば衝撃的とも言える形で降り立ち、当時の日本人の心性にショックに似た強烈な印象を与えたのだ。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、そういう訳の分からないゴシップ編集長やら、いかにも烏賊臭そうな右翼作家を擁護するぐらいしか経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その26byにいのり
では「法文ひいては情報全般をカーゴカルトレベルでしか取り扱えない心性」とはどのようなものか。
まず、「カーゴカルト」とは一般にどのような"信仰"を指すものか、確認しておきたい。
Wikipediaの記述者は次のように説明しており、一般的に妥当な記述だと思われるので引用しておく。
(引用開始)
カーゴカルトとは、主としてメラネシアなどに存在する招神信仰である。いつの日にか、先祖の霊、または神が、天国から船や飛行機に文明の利器を搭載して自分達のもとに現れる、という現世御利益的な信仰である。
直訳すると「積荷信仰」。
「海の向こうから神が豊穣をもたらす」という信仰自体は、日本のまれびと信仰、琉球のニライカナ信仰など、アジアの島嶼地域の信仰としては普遍的なものであるが、近代文明の捉え方について独特の形態をとることが特徴である。
(引用終わり)
この記述者はかなり気を使って書いているが、「カーゴカルト」という用語は、白人中心主義的な目線による分類と命名というところから逃れがたい点はあるが、しかし、いわゆる白人文明とメラネシア地域の人々との接触が生じ始めた時、地域住民の間で生じた反応、宗教的合理化を説明する上では分かりやすいものと考える。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、そういう訳の分からないゴシップ編集長やら、いかにも烏賊臭そうな右翼作家を擁護するぐらいしか経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その25byにいのり
基本的には悪意のない国連相手の「情報戦」にすら次々と敗北を喫し続けるような連中に頼って、いったい私たちはどうしたいのだろう。
今からこれだけの負けっ振りを誇るのだから、今後も連戦連敗の惨めな敗北を喫し続けるだろう事は、太平洋戦争の先例を見るまでもなく容易に類推可能なはずだ。
戦後にしても、日本が工業化社会で優位性を示せたのは、主観上層部の経営力の賜物では一切なく、忍耐強く質の高い自生的中間層の厚みによるものであった事は火を見るより明らかだろうに。
その分厚い中間層を、「情報戦」に敗北し続けて倦まない惨めな主観上層の連中がまさかの第五列化によって"反国民"側に転じ、未来なき脆弱な層に"構造改革"した上、「自分ファーストのサバイバルゲーム」にうつつを抜かしている有り様なのだから目もあてられない。
さしずめ小泉が"新思想の普及"という意味で近衛的役割を果たしたとするなら、竹中だの西室だの第五列臭の濃厚なくさい連中が暴走を繰り広げ、今や安倍晋三なる者が岸ならぬ東條のエピゴーネンとして日本国の破滅的道行きに貢献せんと意味不明の奮戦しているというのだから、呆気に取られるなというのが無理な相談となるほかない。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、そういう訳の分からないゴシップ編集長やら、いかにも烏賊臭そうな右翼作家を擁護するぐらいしか経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その24byにいのり
この汚ならしい惨状を見る限り、日本人の一人として当然忸怩たるものはあるのだが、しかし、私たちは未だに「(近代)法」ひいては「情報」というものを自分たちの生活の道具として"普段使い"する事が出来ていないのではないかと懐疑せざるを得ない所がある。
以前私は自分のブログか何かで、日本人の「法」や「情報」の取り扱い方は、未だ「カーゴカルト」のレベルにあるのではないかと述べてみた事があるが、まさに「情報」の扱い方さえ心得ていれば、先の大戦時にもあれだけの実害を出さぬ内に「終戦処理」が出来たはずなのに、「情報」を形式レベルどころか「儀式レベル」で仰々しく扱う事しか出来ていなかった結果、これ以上ない形の無惨な敗戦にいたるまで「終戦」交渉が出来ないという恐るべき歴史的瑕疵を年表に刻んでしまったのである。
そんな連中の残党どもが、今また皇室(王室)を差し置いて、ルサンチマンの強度で一般国民を圧倒し、国民を抑圧下に置きながら野蛮な戦時体制を作り上げようと必死になっているのは見え見えな訳で、いったい私たちは多様な「情報」が入手可能な現代に至ってさえ、またぞろ自暴自棄の破滅的に汚ならしい連中と運命をともにしようと本気で思っているのだろうか。
(つづく)
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