晴耕雨読

淡々と日々の暮らしを立てるために働き続け、木々の緑、雨音、枯れ枝に架かる雪を密かに楽しむ。
老いては老いを楽しみ、若者の成長に目を細め、良い人生だったと感謝しつつ旅立つ。
こんな当たり前の人生が許されない世にはして欲しくありません。

 

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投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その63byにいのり
さて一つの比喩的なイメージとして、『晴耕雨読』という名の、ある篤志家の運営される公園のような場所があるとしまして、そこへ行くとちょっとした広場があり、休憩のためのベンチなどもいくつか置いてあると。
そこのベンチの一つでは、何が気に入ったのか、得体の知れない男が頻繁にやって来ては、ギターをかき鳴らしながら何やら歌うのを日課としていると。
オーナー様は半ば苦笑いしつつも、他の皆様に多大な迷惑を与えない限りはまぁ黙認しておいてやろうかと寛大な心で見守って下さっている。
ただし公園の維持管理には、雑草の下苅りから始まり剪定だって疎かにはできないのであり、そういう労苦には一切貢献も配慮もせずに、ギターをかき鳴らしては好きな事を歌って帰るだけの人間など、いい気なものと言えばいい気なものなのだ…
そんな想像をめぐらせつつも、勝手な利用者側としてはベンチの棲み分けもちょっとさせていただきたく思い、次回より『クロスオーナーシップ禁止を法制化』と書かれているベンチに移り、今しばらく唄を歌わせていただきたなどという、これまた勝手な願望を抱いている次第です。
こんな我が儘をもうしばらくの間お聞き届け下さいましたら幸いに存じ上げます。
投稿者:北斗七星
愚民化政策

この愚民化は先ず何に向けて行われたか?
言わずと知れた学問の府から始まった。その学問を修めた人間がメディアに巣くっているのだから。

マタイ15-14
盲人が盲人を道案内すれば二人共に穴に墜ちる。

ルカ18-8
人の子が来るとき、果たして地上に信仰がみられるだろうか?。

マタイ10-34
私が来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらす為に来たのだ。
35:わたしは敵対させる為に来たからである。人はその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに
36:こうして自分の家族のものが敵となる。

私注:この矛盾した言い方は、弟子たちは悟っていない。という意味だろう。

パセーナディ王の思い。

いまや諸々の国王は国王と争い、王族は王族と争い、バラモンはバラモンと争い、資産者は資産者と争い、母は子と争い、子は母と争い、父は子と争い、子は父と争い、兄弟は兄弟と争い、兄弟は姉妹と争い、姉妹は兄弟と争い、姉妹は姉妹と争い、友人は友人と争う。
ところが、わたしがもろもろの修行僧を見るに、彼らは和合し、ともに喜び、争うこと無く、乳と水の如くに融和し、互いに愛情を込めた眼でみながら住している。
ゴータマ・ブッダT(中村 元選集第11巻 春秋社)

安国論奥書 

去ぬる正嘉元年〈太歳丁巳〉八月二十三日戌亥の刻の大地震を見て之れを勘ふ。其の後文応元年〈太歳庚申〉七月十六日を以て、宿谷禅門に付して、故最明寺入道殿に奉れり。其の後文永元年〈太歳甲子〉七月五日大明星の時、弥々此の災の根源を知る。

文応元年〈太歳庚申〉より文永五年〈太歳戊辰〉後の正月十八日に至るまで九ケ年を経て、西方大蒙古国より我が朝を襲ふべきの由牒状之れを渡す。又同六年重ねて牒状之れを渡す。既に勘文之れに叶ふ、之れに準じて之れを思ふに、未来亦然るべきか。

此の書は徴(しるし)有る文なり。是れ偏に日蓮の力に非ず、法華経の真文の至す所の感応か。

「未来亦然るべきか。」

日蓮聖人の弟子たちも悟ってはいない。という意味だろう。




投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】番外編XXXXXXbyにいのり (スミマセン、番外編として、もう一回)
『このテの問題は法や倫理の問題とする以前の問題なのであり、そういう問題について「問題にあたらない」と表象する事自体が甚だしき問題としなければならない』という私の言い方は、一見ややこしく聞こえるかも知れませんね。
再度野球に例えてみます。
例えば、とにかく目先の勝利にこだわってどこぞの叩き上げを監督に据え、勝ち続け始めた球団があったとしましょう。何だ何だ、何で勝ち続けられるんだと思って試合の様子を観察してみると、件のチームの選手は打席で悪球が来ても絶対に避けようとしていない事が分かった。
対戦相手のピッチャーは対応に苦慮し、デッドボールとフォアボールの連発で自滅しては負けを重ねている。
おいおいおい、関係者、特にマスコミの連中は、これを誰も「問題」にしないのかと驚いて記者会見に紛れ込み訊ねてみると、「ルールブックには書かれていないそうだ。つまり批判には当たらないという事です、ハイ次」と木で鼻をくくったような対応をされるばかりで取り付く島もないと…。
こういう事を言わせ続けて軌道修正すら出来なくなった状態、それが今なのであり、これを放置しておくと、ルールの理念そのものがいつしか解体され廃棄されてしまうのだ。
(次、本筋へ)
投稿者:
青森〜鹿児島B29空襲で列島根こそぎ焼け野原&原爆2発で無条件降伏ギブアップホールドアップ日本が戦後わずか19年でよくぞここまで漕ぎ着けたのが昭和39年東京五輪だった。当時のスポーツ紙に鶴田浩二のインタビュー記事(太平洋戦争戦没者の御霊が今日の快晴秋晴れ開会式大成功となった)が載ったものだった。それが戦後72年、世襲三代目以下アホバカチルドレン横行&小沢一郎が政権交代お膳立てしてやった揚げ句がスッカラ菅・野ブタの寝返りで政権転落ドロ舟民進…有権者不在お子ちゃま政治ゴッコのこのザマだ。永田町のガキンチョ連中は↓の動画でも視ながら無条件降伏ニッポンの原点を直視してみろ。
↓1948年東京新橋渋谷湾岸をGHQが撮影した動画
http://himag.blog.jp/45875410.html
投稿者:北斗七星
帝釈天という神

釈尊の求道心を試した神様とありますから、ヨブ記に登場する神とサタンのコンビに似ています。結果的な違いは、釈尊は成道を遂げて神を従えて守護神とし、ヨブは苦しみのあまり神に従属する身となって、神の命令に従うのみとなってしまった。
その為、神の命令とあらば全く疑うということをしなくなって、何でもするようになってしまった。
創世記に出て来た神は、善悪知る木からその実を取って食べた後、我々の一人のようになった、と言いました。

「善悪知る」とは、善いことと悪いことを知り、それで悪いことをを行うようになった。ということでしょう。
投稿者:北斗七星
ニッポンの政治

これを将棋に譬えれば、もう日本は詰んでいる。多くのニッポン人が大切にしているものを取られているのだから・・・。

そして、その人材をあちら側に活用されてしまっているわけです。
中丸薫氏によれば、明治天皇は神道はユダヤ教である。と言っていたそうですから
ラブ・イズ・オーバーならぬ、ゲーム・イズ・オーバーなわけで、後はもう大梵天、帝釈天、大自在天に頼るしか無いんじゃないかと思うわけです。

ちなみに帝釈天について調べると

インド神話上の最高神で雷神であった。仏教では梵天王と共に護法の神となり、須弥山に住み四天王を従えて忉利天の主として三十三天を統領する。釈尊の修行中種々に姿を変えて、その求道心を試したが、釈尊の成道後は守護を誓った。(日蓮大聖人御書辞典 聖教新聞社)

このような記述を神話文学と捉えることも良いのですが、人々は意外に宗教的であって単に文学と割り切ることも出来ないひとも多いのではないでしょうか。
中国の天台大師は魔訶止観巻五に「心是一切法、一切法是心」を説き、これを「不可思議境」と呼びました。「心というものは普通の人では思議することが出来ない世界」だということですが、これは「一心法界」、「一念三千」と同じ意味であり、これを「同体異名」と言い、普通は「一念三千」という呼び名を使います。法界、三千、一切法は同じもので、今流にいうと全宇宙というところでしょうか。
ですから、こころが乱れると全宇宙が乱れる。

私たちは宇宙の果てのことなどわかりませんが、身近なことなら解ります。ここも宇宙ですから。
投稿者:北斗七星
>プロ野球と称して草野球

これはこれでJ・ハンドラーにとっては面白いのでしょう。大笑い芸人がニッポン政治を動かしている。その偉大なハンドラーには悟りがない。
こういう印象はぬぐえない。

稲田元大臣が辞任ハッピョウ後、晴れやかな顔して、心境は『空』ですね。

違うでしょ!。

担い切れない肩の荷を放り捨てて、やっと『空』荷になりました。
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】番外編XXXXXbyにいのり
何も小難しい事を言っているのではない。
要するにそこでまず「問題」として立てられるべきは、「プロ野球とうたってやっている連中が草野球やっててそれでいいと思っているのか?このままの状態で客は飽きもせずに木戸賃払い続けてくれると思っているのか?」という話なのだ。
この異常無能の官房長官は、違法スレスレの事ばかりやって来たからか、自分が木偶の使いっぱと知ってか知らずか、どうやら「問題」とは「違法か否か」にのみ集約されると思い込んでいる節がある。
繰り返しになるがそうではないんだよと、誰かが優しく懇切丁寧に教えてあげなければ、言っちゃ悪いが法政夜学出て共産党にでも入党しておけばこんなにひねくれはしなかったろうに、余計なお世話ながら、求めそして獲た地位に比して結局は暗く惨めで卑しい人生を送る羽目になってもう取り返しがつかなくなってしまっている憐れなルサンチマンの塊には理解が及ばないのだろう、本人は一生懸命守りに撤し名キャッチャーにでもなったつもりなんだろうが、「野球になっちゃいねぇんだよ野球に」と、そういう事なんだと。
(固定客で商売の出来るらしいジャイアンツだのヤクルトだの、凄い事になっているけどいいの?という話)
(番外編終り)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】番外編XXXXbyにいのり
下記に絡み、メディアの最低限の役割としての「問題設定」(=課題の共有)すら能わずに、「行政側の言い分垂れ流し装置」と化しているクズの政治部/官邸記者クラブとタッグを組んでいる感のあるあの菅なる尾籠の官房長官及び周辺の一味は、総理大臣安倍が加計氏とおごり/おごられの関係にあっても問題ないとの認識を示したとの事だ。
「いやいやいや、だからそういう問題じゃないでしょうに」
禅問答でも何でもない。
こういう事は、だから、法の問題でもなければ、倫理の問題ですらないんですよという事を、仮に低能な為政者が目の前にいて、「最低限のレベルを共有できずにいたら」、知識人の端くれでもある報道者が「一定レベル以上の課題を共有しましょう」と諭してあげても「何ら問題ではない」だろう。
この菅なる低知能丸出しの官房長官は、「問題ない」という語を「法的に/倫理的に…問題とするには当たらない」と、まぁ、開き直ってみせているつもりなんだろうが、聞く側もそこで大人しく引っ込んじゃったり、あるいは食い下がるにしても法的に重箱の隅を突っつき始めたりしていたのでは、「問題の所在」は見失われ、「問題の設定」がされないまま「頬かむり」だけがむざむざと成立してしまうのだ。
投稿者:北斗七星
ヨブ記(その七)

もうヨブ記とは関係ありませんが。聖書の中で最も重要と思われる個所があります。

ヨハネ福音書16-12
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今あなた方には理解できない。13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなた方に告げるからである。14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなた方に告げるからである。15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。

キリストと言われたイエスには、残されているイエスに関する資料に無い空白の17年があるといわれています。
「イエスの失われた十七年」
(エリザベス・クレア・プロフェット/下野 博訳 立風書房)

この本に、イエスはチベットに居たと。

「自分から語るのではなく、聞いたことを語り」とは「如是我聞」。

イエスは仏教の父と一神教の神を結んだのだと思います。

大涅槃経に云く「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」等云云法華経に云く「衆に三毒有りと示し又邪見の相を現ず我が弟子是くの如く方便して衆生を度す」等云云。。(開目抄上)

観世音菩薩普門品に云く、応に梵王の身をもって得度すべき者には、即ち梵王の身を現じて為に法を説き、云々。

「邪見の相を現ず」ですから、表面だけを見れば邪見ですが、一神教徒に対する方便(教化方法)として「神」を用いていますがその中身は「仏」であろうとおもいます。それも「内なる仏」。

これで終わります。

早雲様、そして長文を読んでくださった方にお礼申しあ上げます。
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