「産業主義近代」が終焉を迎えようとしている今、共同体性の瓦解とそれに代わる国家的貨幣媒介的統合の意味を踏まえつつ、「近代」の歴史的特殊性とそれを支えている経済論理を掴み取ることが重要だと考えています。
「産業主義近代」を「近代」とみなすなら、「ポスト近代」が、「金融主義近代」になるのか、「開かれた地域共同体」的“非近代”になるのかの岐路に立っていると思っています。
「金融主義近代」は、曲りなりに維持されてきた国家による共同体性さえ打ち捨てるものになるはずです。
人々の活動が金融利得者への“奉仕活動”になる、と認識されるより、なんとか生きていくためのお金を稼ぐために身を犠牲にする(実存性をあきらめる)人々が溢れる国家社会状況になると推測しています。
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「近代」そして「個人」と「自由」投稿者 あっしら 日時 2004 年 2 月 02 日
いまの農業・農村の現場には、実にたくさんの、誠実さとひたむきな努力が払われています。
しかし、一方で、「カネがすべてではない。しかし、カネがすべてを左右する」という現実を嫌と言うほど幾度も幾度も思い知らされてきたのも、現在の日本の農村です。
「カネがすべてではない。しかし、カネがすべてを左右する」は“痛い”表現ですね。
理念として「カネがすべてではない」と思っていながら、現実は「カネがすべてを左右する」ことがわかっている人の苦悩はただならぬものがあるはずです。
いっそ、「カネがすべてを左右する。だから、カネがすべてである」と現実認識と理念が一体化したほうが救いがあるのかもしれませんね(笑)
人々の関係性の媒介物(人々の社会的分業に基づく活動成果の交換手段)でしかないカネが絶対的な存在して立ちはだかっている現実が、人々を打ちひしがすとともに人々を金儲けに駆り立てていると思っています。
あちこちに矛盾があるのです。とりわけ大きな矛盾だと思うのが、「個人」や「自由」という言葉です。それらは現状の困難から抜け出そうとするときの、大きな一歩でもあり、同時に、我々を裸の存在へと追いやってゆく危険な言葉でもあります。
「個人」に先立ちというか「個人」がある「個人」になるためには、他者関係性が同時的に必須であると考えています。
他者関係性を捨象した「個人」という存在はないという見方です。
早とちりをされると、国家や社会という観念的存在を優先する“全体主義”の表明と受けとめられてしまう内容ですが、この人間観というか社会観は「近代」批判の根底的な立脚点になると思っています。
また、「自由」についても、根源的な意味での自由はないという考えをしています。
対象とする自然から受ける規定性や他者関係性で生じる規定性のなかで、「個人」はでき得る限り快適で楽しい日々を送る“自由”しかないと思っています。
有り余るほどのお金を保有していれば「自由」になれるという意識もあると思っていますが、それは、直接的な他者規定性を避けられる(嫌な状況に身を置かなくてもよい)とか、贅沢な生活ができるといったものでしかありません。
まあ、それを「自由」だと思うのなら、それが実現できるよう頑張ればいいとは思っています(笑)
(ユダヤ人が確立したとは言いませんが、デモクラシーは、隷属をほとんど意識させることなく隷属させ(隷属者が主人であるという錯覚を持ってくれる)、その結果生じた災厄の責任もとらなくてよい(無人称の国民全体の責任)という効率的で都合がいい支配制度を正当化する政治的価値観だと思っています。
このようなデモクラシーを持続する重要な条件は、メディアと教育をデモクラシー崇拝に染め上げることです。
デモクラシーの制度化は革命・武力恫喝・占領支配を契機としますが、制度化と同時にメディアと教育を掌握すると、それほどの強制力を行使しなくても持続できます。)
鳥の目と虫の目さんのような認識が徐々に広がり、世界支配層の「世界構造再編」とぶつかり合うようになるのが今そして今後の世界だと思っています。
最後は、鳥の目と虫の目さんのような認識が優位に立つと確信していますが、それまでの期間が長くなればなるほど嫌でおぞましい日々がだらだらと続くことになると思っていますので、少しでもその機関の短縮ができればと願っています。
世界支配層が「世界構造再編」に積極的に動き始めた現状では、それを保守するものではないとしても、国民経済主義(経済活動は国民全体がよりよい生活を実現するためにある)はそれに抗して多数派形成ができる“理念”だと考えています。
2006/11/29

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