「「停止状態」を悲観せず「始まり」として待望した“平等私有財産制共産主義者”J・S・ミル 上」
産業主義近代の終焉
自由主義の権化と受け止められているJ・S・ミルだが、産業資本主義の終焉を予測し、そこから自由主義を基礎とした共産制を始めることができると考え、終焉を悲観するではなく待望した共産主義者と言ったほうがいいようだ。
もちろん、ミルのそれは、ヘーゲル観念論を逆立ちさせたマルクス唯物史観的歴史決定論でもなければ、マルクス−レーニン主義的共産主義でもない。
ミルは、1806〜73年のあいだを生きた人で、『女性の解放』という著作も公刊している。
(ミルの父親は、ジェームス・ミルで、リカードの親友でありリカード派経済学とベンサム的功利主義の信奉者であった)
『私は、経済学をどう読んできたか』(ロバート・L・ハイルブローナー著:中村達也/阿部司訳:ちくま学芸文庫:1500円)のジョン・スチュアート・ミルの項より:
まずは、世界で最も成功した産業国家である日本の人々に心して読んでいただきたい箇所を引用する。
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「産業資本主義の終焉」=「停止状態」を悲観せず「始まり」として待望した“平等私有財産制共産主義者”J・S・ミル投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 29 日
【ミル『経済学原理』】
「すでに必要以上に富裕になっている人たちが、裕福さを表示するという以外にほとんど、あるいはまったく快楽を生むことがないところのもろもろの物を消費する資力を倍加するということが、あるいは多数の個人が毎年毎年中産階級から富裕階級へ成り上がり、あるいは有業の富裕者から無職の富裕者に成り上がるということが、なにゆえに慶ぶべき事柄であるか、私には理解できないのである。生産の増加が引き続き重要な目的になるのは、ひとり世界の後進国の場合のみである。最も進歩した国々では、経済的に必要とされるのはより良き分配であり、そしてよりいっそう厳重な人口の制限が、これがための唯一の欠くべからざる手段となっているのである。」
(ミル『経済学原理』からの引用:P.244)
(金融主義を賛美し「無職の富裕者」に成り上がることを美としたり、出生率の低下におののいている財務省官僚や政治家たちの愚かさ加減がわかるはずの一文であり、日本が為すべきこともわかるはずだ)
【ミル『経済学原理』】
「労働者層の給与が高く、かつ生活の裕かなこと、ひとりの人の生涯のあいだに獲得蓄積されたもの以外には、莫大な財産というものがないこと、しかし一方、ひとり荒々しい労苦を免れているばかりでなく、また機械的な煩雑な事柄からも―しかも身心ともに十分な余裕をもって―免れて、そのために人生の美点美質を自由に探求し、またより不利な事情のもとにある諸階級に対し、その成長のために、その美点美質を見せることができるような人々の群れが、現在よりもはるかに大きくなっていること。このような、今日の社会状態よりもはるかにすぐれた社会状態は、ただ停止状態と完全に両立しうるというばかりでなく、また他のいかなる状態とよりも、まさにこの停止状態ともっとも自然的に相伴うようである。」
(ミル『経済学原理』からの引用:P.245)
(世界で最も成功した産業国家日本は、このような社会に向けて歩み始めることができる条件を有している。いや、歩み始めなければ、停止状態は、人々に困窮と大災厄をもたらす怪物に変身することなる。くだらんレベルで「年金問題」をあれこれ言うことで政治をやっている気分になってもらっては困るのである)
【ミル『経済学原理』】
「資本および人口の停止状態なるものが、必ずしも人間的進歩の停止状態を意味するものでないことは、ほとんど改めて言う必要はないだろう。停止状態においても、あらゆる種類の精神的文化や道徳的社会進歩のための余地があることは従来と変わることがなく、また「人間的技術」を改善する余地も従来と変わることがないであろう。そして、技術が改善される可能性は、人間の心が立身栄達の術のために奪われることをやめるために、はるかに大きくなるであろう。産業上の技術でさえも、従来と同じように熱心に、かつ成功的に研究され、その場合における唯一の相違といえば、産業上の改良がひとり富の増大という目的のみに奉仕することをやめて、労働を節約させるという、その本来の効果を生むようになる、ということだけになるであろう。今日までは、従来行われたすべての機械的発明が果たしてどの人間かの日々の労苦を軽減したかどうか、はなはだ疑わしい。それは、たしかに従来よりもより大きな人口が従来と同じ苦しい作業と幽囚の生活を送ることを可能ならしめ、またより多数の工業家やその他の人たちが財産をつくることを可能ならしめた。それは中産階級の生活上の余裕を増大した。けれども、それは、人間の運命がその本性上、またその将来においてなし遂げるべきもろもろの偉大な変革については、まだそれを実現しはじめてもいないのである。ただ公正な制度に加えて、人類の増加が賢明な先見の思慮ある指導のもとに行われるようになったとき―ただこのようなときにのみ、科学的発見者たちの知力とエネルギーとによって自然諸力から獲得した戦利品は、人類の共有財産となり、万人の分け前を改善増加させる手段となることが得るのである。」
(ミル『経済学原理』からの引用:P.245)
● 産業資本主義の終焉を予測していたJ・S・ミル
「ミルは、いくつかの―現代の用語を使えば―「モデル」を検討して、人口や資本、技術が相互の地位を変化させた時に何が起きるかを類推し、また最終的に、人口と資本の量が増え続け、技術水準が上昇し続けた場合、どういう可能性が最も強いか、結論を出している。
このため、一見リカードウ風のシナリオによく似た結果になる。(略)
リカードウと同様、これは停止状態に近づくという見方であり、「商業上の激変」や予想外の新技術、あるいは安価な機械の輸入によってその動きは一時的に停止はするが、結局は、成長するだけの十分な利潤を生み出せない、資本主義制度の避けられぬ宿命に苦しむというのである。
では、リカードウとの違いは何だろうか。ミルは、こうした状態に達することを、終わりではなく始まりと見る。
それは、資本主義のダイナミクスが生み出す労働者の協同への出発点となるだろうし、またなりうると彼が考えるからである。」(P.238)
【ミル『経済学原理』】
「人間の精神は、単にその運動の法則を探究するだけでは満足しないものである。それは、さらに「どのような終点へ」という、いまひとつ立ち入った問題を提出せざるをえない。一体、社会は、その産業的進歩によって、どのような究極点へ向かっているか。この進歩が停止した場合、それは人類をどのような状態に置くと、私たちは予期すべきであるか。(略)
最も富裕な、最も繁栄せる国々は、もしも今後生産技術における改良がなされず、かつこれらの国々からいまだ開墾されていない、あるいは耕作が粗末である地球上の諸地方への資本の流出が停止したならば、たちまちのうちにこの停止状態に達するであろう。
このような、停止状態を終極的に避けるということが不可能であること―このような、人間の勤労の流れは終極は明らかな停滞の海へ不可抗的にそそがなければならないということ―、このことは、最近六十年ほどの経済学者たちにとって、たしかにはなはだ愉快でない、かつ希望を失わしめる、前途の見通しとなっていたのであった。けだしこれらの人たちの思索の調子と傾向とは、経済的に望ましいことのすべては、進歩的状態とまったくイクォールであり、かつこれとのみイクォールであると見るということであったからである。(略)
あの、絶えざる苦闘によってわれわれの宿命の日をどれほど遠い時期に延期することができたとしても、社会の進歩というものは「結局は浅瀬におわり、苦難におわる」ことを避けることができないものであるという学説は、多くの人々はいまもなおマルサス氏の悪意にみちた発明品だと信じているけれども、実際はそれどころではなく、氏の最もすぐれた先輩たちによって陰に陽主張されていたものであり、また氏の原理にもとづいてはじめて成功裡にそれに反対して戦いうるものである。」
(ミル『経済学原理』からの引用:P.241)
【ミル『経済学原理』】
「私は、資本および富の停止状態を、かの旧学派に属する経済学者たちがあのように一般的にそれに対して示していたところの、あのあらわな嫌悪の情をもって、見ることをえないものである。私はむしろ、それは大体において、今日のわれわれの状態よりも非常に大きな進歩となるであろう、と信じたいくらいである。自らの地位を改善しようと苦闘している状態こそ人間の正常的状態である、今日の社会生活の様式となっているものは、互いにひとを踏みつけ、押し倒し、押し退け、追いせまることであるが、これこそ最も望ましい人類の運命であって、決して産業的進歩の諸段階中の一つがそなえている忌むべき特質ではない、と考える人々がいだいている、あの人生の理想には、正直にいって私は魅惑を観じないものである。」
(ミル『経済学原理』からの引用:P.243)
【ミル『経済学原理』】
「 このような変化(引用者注:労働者が経済活動を管理するようになること)が進行するにつれて、資本を所有する者たちにとっては、漸次、ただ最も劣悪な労働者だけを相手とする古い体制の苦闘をつづけて行くよりも、共同組合組織に対してその資本を貸し付ける方が、有利となるであろう。しかもそれを貸し付けるにあたってはその利子率を引き下げることが有利になり、ついにはその資本を期限付きの年金に変えることすらが有利になるであろう。このような方法により、あるいはこれと似た何らかの方法によって、現存の資本の蓄積は、正当な方法において、かつ一種の自然発生的な過程によって、結局においてその資本の生産的充用に参加するすべての人々の共有財産となるであろう。」
(ミル『経済学原理』からの引用:P.244)
(国際金融家も、産業資本主義の終焉後には、ここに書かれている資本所有者と類似的な選択をするはずである)
「彼(引用者注:ミル)は「私的企業」が存在せず、したがって政府がその事業を引き受けなければならない実例を検討している。」(P.264)
(ミルは、停止状態において誰もが事業をやらなくなることも考慮し、その場合国家が責任をもって事業を進めることの妥当性を説明している)
● J・S・ミルの社会観
「快楽には高度なものと低級なものの両方があり、結局は正義と結びつく快楽の見方が良心からの承認をかち得ると主張した。良心の承認というのは、アダム・スミスが拠り所にした「魂の住人」による承認をミル流に述べた言葉である。」(P.216)
【ミル『自由論』】
「人類が、個人的にまたは集団的に、だれかの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛だということである。すなわち、文明社会の成員に対し、彼の意志に反して、政党に権力を行使しうる唯一の目的は、他人にたいする危害の防止である。彼自身の幸福は、物質的なものであれ道徳的なものであれ、十分な正当化となるものではない。そうするほうが彼のためによいだろうとか、彼をもっとしあわせにするだろうとか、他の人々の意見によれば、そうすることが賢明であり正しくさえあるからといって、彼になんらかの行動や抑制を強制することは、正当ではありえない。これらは彼をいさめたり、彼と議論して納得させたり、彼を説得したり、彼に嘆願したりする十分な理由にはなるが、彼に強制したり、そうしない場合に彼になんらかの罰を加えたりする理由にはならない。それが正当とされるためには、彼の思いとどまることが望まれる行為が、だれか他の人に対して害を生み出すことが予測されていなければならない。人間の行為の中で、社会にしたがわなければならない部分は、他人に関係する部分だけである。自分自身にだけ関係する行為においては、彼の独立は、当然、絶対的である。彼自身に対しては、彼自身の身体と精神に対しては、個人は主権者である。」
(ミル『自由論』からの引用:P.216)
8/1/19
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