晴耕雨読

淡々と日々の暮らしを立てるために働き続け、木々の緑、雨音、枯れ枝に架かる雪を密かに楽しむ。
老いては老いを楽しみ、若者の成長に目を細め、良い人生だったと感謝しつつ旅立つ。
こんな当たり前の人生が許されない世にはして欲しくありません。

 

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投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その95byにいのり
但し、そうはいってみても虚しく響かざるを得ないのは、国民の選挙結果に基づきまがりなりにも議院内閣制の範囲内で正式に活動しているはずの安倍内閣なるものが、政治にかこつけて何をやらかしているのか大体察しのつくところまで暴かれてみれば、普通の知性と倫理を有している国民なら、もう「前列踏襲硬直官僚」でも「動機もなければ責任も負えない推論機械(AI)」でも何でも結構だから、「一味」と呼ぶ以外呼びようのない何をするにも濃厚な犯罪臭を漂わせずにはおかない異様で異常な集団がのさばろうとするのを阻止してくれと思わず吐き捨ててしまいたくなる状況というものが間違いなくあるからなのであり、それを当人らも察してはいるのだろう、選挙制度上の対戦相手が準備不足でもたついている間に説明責任も何も一切はしょって冒頭解散に打って出ようというのだから、恥知らずもここに極まれり、これはもうお互い減量に失敗して「まともな試合」を見せられる状態ではないド三流ボクサー丸出し同士でありながら、一方は体重制限などどこ吹く風、「早く試合しちゃおうぜ、前売り券はもう売り捌いちまったんだしさ」とうそぶいてみせているのと全く変わらないという事だ。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その94byにいのり
「AI」に政治を任せてしまいたくなるのと同様のメンタリティという意味で象徴的なところでは、文科省の前事務次官が安倍政権下の国家戦略特区疑獄に関連して、「行政がねじまげられた」と静かな怒りをたぎらせながらあえてメディアの前面に立ってみせたわけだけれど、「アベノ劣悪政治」を糺すという側面では「おっしゃる通り」と思わず手を叩きたくなってしまうのだが、政治部門(選良側)の劣悪性のレベルが甚だし過ぎるゆえにそうなってしまうのであって、本来なら私たち普通の国民側は、「官僚(や専門家・学者ら)からの政治のポピュリズム批判」というものを簡単には許してはならないはずだったのだ。
にもかかわらず、「官僚」だの「AI」だのの発する「御託宣」が無二で不二の「正しさ」や「正義」や「解決策」に見えて来たりもするとすれば、そこになくもがなの「神話化作用」を私たちがやはり認めてしまっているからという側面も間違いなくあるのであり、「原発は安全である」という「神話」がいかに嘘と誤魔化しにまみれていたか、そういう直近の事例を簡単に忘却しないほうが自分のため/身のためになるのに簡単に忘れてしまうから、悩ましい事に事態は混迷を深めたりしてしまうのだ。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その93byにいのり
その意味で、「棋界」に「救い」がもたらされたのは、奇しくも、若き俊才と彼を見届けて引退を決めたユニークな老将(?)とが、一気にメディアの前面に躍り出てみせた事だった。
また、その少し前には、夭逝した棋士の実話に基づいた映画なども、将棋の「文藝」的側面をクローズアップしてみせてくれていた。
こういう事に、なぜ、わたしたちは時に食事も忘れるほど、あるいは中学生棋士が何をお昼に食べたのかすら気になって仕方がないほど、気もそぞろになる事があるのかといえば、それが滅多にない「人間劇」だからだろう。
結局、将棋や囲碁やチェスにしても、興業としても確立した良く出来た「知的スポーツ」なのであり、人間がAIに勝てない事が分かったからといって大騒ぎするようなものではない。人類最速の100b走200b走にしたって、時速にしてみれば36`/時付近の攻防に過ぎない。だが、生身の人間がやってみせているからやはりそれらは面白いのである。
商人は、商売になっている内はそのようなものについて、「コストガー」とかあまり言わない。
AIAIこうるさい連中は、開発者本人では決してなく、煽り商人連中なのだという単純な事実をわたしたちは見落とすべきではないのだ。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その92byにいのり
この言い方は「書記体系の発明」で何がもたらされたかを説明するには非常に分かりやすい説明であるのは確かだろう。
しかし、「計算(推論)」は人間の知的能力の『決定的に重要な部分』とは言い切れないはずだという"最も肝心な点"をこの著者はあえて(?)見ない事にしている…ような気がする、なにしろまだ本文を読んでいないので(笑)。
そもそもが、この著者がなぜ『サピエンス全史』なる著作をものにしようと思ったのか、その「動機」こそが人間の思考にとって『決定的に重要な部分』ではなかったのか。近代以前なら「啓示を受けた」とか「お告げがあった」などと言っていた部分だ。
この著者は、[人間]における[サピエンス全史]と呼び得るような[世界視線]的記述を私が手掛けてみようという気の遠くなりそうながらもわくわくするような想念が自分の中に湧いて来たとき、これこそが人類の未来を考えるために必要な知的発想だと自ら自負したはずだろう。
「書記体系」は、人間がそこから先に考察を進めるために"決定的な手助け"になるものではあろうが、「書記体系」自体が「思考」を開始する訳ではない。
「推論機械」は勝手に「動機」を持つことはない、残念ながら、あるいは幸運な事に。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その91byにいのり
自動車開発のレベルでみなすならやっと時速30`越えして「マラソンランナーに勝った勝った!」と欣喜雀躍している段階でしかない。
勿論、テクノロジーの発展速度というのは、わたしたち外野の想定を越えて来たのも確かだろうし、自動車なら時速30`でノロノロやっている段階から時速300`でレースが可能になるまであっという間だったかも知れない。
だが、10秒で時速300`に達しヘアピンを60`で曲がる日常生活を私たちは今までもこれからも送るつもりはあるまい。
つまり、[特定のテクノロジーで可能な夢のような事]は、人間のごく日常的な身体性を越えてしまった領域にあっては、例えば自動車ならサーキットという名の特殊な空間で「見世物」として営まれる他ないのだ。
この辺りの事情…まだ購入したばかりでこれから読むのだが(笑)、『サピエンス全史』(河出書房新社)の上巻「書記体系の発明」のところで、著者は、「思考」の実態について次のような象徴的な言い方をしているのが目についた。
(常人には読解しがたい相対性理論の煩雑な式を示しておいて)『彼ら(※数学者や物理学者ら)の思考過程のうち、決定的に重要な部分は頭の中ではなく、コンピューターの中や教室の黒板の表面で展開する』(168頁欄外)
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その90byにいのり
恐らくAIなら、文字通り血も涙も不倫もなく(すなわち自ら非線形のカオスに耐えるという苦痛を引き受けることもなく)"最適解"を導き出すために"不純な"要素については容赦なく切り捨てに走ってくれる事だろう。
AIを生み出す真っ当な開発者的視点では、それこそがAIの"限界"だと認識して苦悩するのに、AIを利用/悪用したい側や振り回されて悲鳴を上げてしまう側は、それをAIの凄さ、凄みなどと賛嘆してみせる。
その点で、新進気鋭の中学生プロ棋士の登場で話題の将棋界だが、程度の低いAIの神格化に協力させられてしまったのは痛かった。
というのも、人間が諸力の特定の「力」を特化する事に成功した機械というものは、だからこそ「人力」も「馬力」も当初の段階から凌駕する形で存在を開始している訳で、蒸気機関車から電卓まで「飛脚よりも速い!そろばん名人よりも速い!」と言って大騒ぎしても詮のない事なのだ。
最中にルールが変更される事が絶対にないチェスや将棋のようなゲームにあっては、それゆえにこそ、「計算機」の延長であるAIとやらが、「将棋名人」に勝利するのはむしろ当然であり、それどころか、私たちは「やっとそのレベルなのか」と嘲笑すべきですらあるだろう。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その89byにいのり
これは偏見の謗りを受けるだろうと思いながらもあえて言うのだが、やれ「政治」だ「法」だ「経済」だと、いわゆる「社会=科学」なるコンプレックスにまみれた学問を振り回す連中というのは、こうした事情にとんと無自覚、無頓着で、あるいはそもそも理解できる感性や頭脳を所持していそうにない点で、きちんとした理学を専攻し自分の頭で考える能力を獲得した者も含め多くの人間を苛立たせる。
そして、苦笑せざるを得ないのは、「政治家」であるはずの女性代議士とその"不倫"相手とされている人物との関係性の方がむしろ"文藝"的であり、「文藝」の名を冠した出版社の発行する週刊誌の記事の方が、とことんまで"政治的"だという逆説的状況だろう。
なにしろ後者は、『この記事で幹事長撤回』と、「政治/政局の一部」と化した事に御満悦の体なのだから始末に負えない。
いったい、わたしたちは、「政治家」なる存在に、人間性(を含めた全体性)を求めているのか、それとも市場万能主義者らが信奉しがちな社会の自動調節機能を粛々と実行し得る機能性と効率性のみを求めているのか。
後者なら、なるほど、わたしたちは、AIとやらに問題解決も裁定も全て委託、委嘱すべきなのだろう。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その88byにいのり
(以下、引用)
語彙の多様化と明晰化とは、言語の内的な構造を分裂させ、一方では、幻想性はますます言語の内部で、この機能化と能率化に疎外された本質を抽出してゆく。はじめは、言語を自己表出と指示表出の構造をもった球面として想定できるとすれば、この言語の現在性は、自己表出と指示表出との分裂した歪みとして想定することができる。
産業語・事務語・論理の言葉、そして日常生活のある部分で、言語が機能化してゆけばゆくほど、わたしたちの心的な状態のなかで、じぶんが心の奥底にもっている思いは、とうてい言葉ではいいあらわせないという意識はつよくなる。言葉が機能から遠ざかり、沈黙しようとするのだ。
(引用終わり)
[角川文庫『言語にとって美とは何か』U巻、250頁]
この部分は、ポリティカル・コレクトネスといったそれなりに熟考された明晰な"良識"の蓄積が、なぜ、その意図するところとは裏腹に、社会の住みやすさや豊かさや寛容さの実現にうまく接続していかないのかの、言語レベルの秘密を自ずと解き明かしているとも言える。
(すなわち、それら機能化と効率化に予め支配された言語使用法を内奥でわたしたちは拒否しているのだ)
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その86byにいのり
私のような不見識な人間は、このような珍走、暴走しかする事がなくなり、暇潰しをこじらせた恥さらし集団を指して、〈ペンでダーツを始めるキ印集団〉とでも形容してあげるしかないのだが、勿論、そのような輩というのは左右だの、保守革新だのを問わず出現するのだ。
それは、〈近代〉あるいは〈現代〉という時代を特徴づける産業上、経済上の要請、またはそうした要請に応えようとして歪み、醜悪化する/ヘドロ化する環境型の問題、公的なレベルで解決を模索すべきという意味である種の「公害問題」であり、ある意味では「メンタルヘルス」あるいは民間療法的エネルギーの噴出としての「新興宗教/カルト宗教」上の問題でもあり、そういう"諸問題"に言論が侵食を受けている状況として観察すべきなのだ。
そして、このようなことは米国において、メディアというものそれ自体が政策対象にならざるを得なくなっているのと通底している。
こういう"言論"、すなわち「言語の用い方」が、言語にとっての美あるいは価値であるものからどんどん遠ざからざるを得ない様相というものを吉本隆明は、次のように記述してみせる。
未だに新鮮さを失わないという意味で、刮目すべきではなかろうか。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その85byにいのり
こういう連中の始末に負えなさというものは、これ以上ない程の決定的証拠写真を突きつけられてもシラを切り、盗人猛々しくも反論かまして虚勢をはりつつも、とっとと頬かむりを決め込み、そんな危機的状況下にあるにも関わらず、ヤクザと付き合っていた訳でもない(それほどの実績をまだ残した訳でもない)女性議員をストーキングしパパラッチング(?)した"経緯"を自称"スクープ"に仕立て上げ、やれ「日銀砲」だそれ「文春砲」だと囃し立てては猿を木に上らせその気にさせ、社会全体の急進的劣化を目論む囃し屋集団相手にガッツポーズを決め込むという度しがたき恥さらし行為をしてまるで無自覚、平気の平左な点にある。
この連中の恥ずかしさというものは、こういう触れたこっちが赤面の余り顔を覆いたくなるほどに無自覚この上ない点にあり、この度の女性代議士の"不倫"報道をするにあたっても、(恐らく編集部がつけたのであろうサブタイトルに)『この記事で幹事長撤回』などと書いてしまうほど、政局に影響を与え得る記事である事を自信満々に"告白"して御満悦の体なのだ。
当人らは、間違いなくこの手の記事を「スクープ」だとあられもなく思い込んでいるのだろう。(かわいそうに)
(つづく)
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