晴耕雨読

淡々と日々の暮らしを立てるために働き続け、木々の緑、雨音、枯れ枝に架かる雪を密かに楽しむ。
老いては老いを楽しみ、若者の成長に目を細め、良い人生だったと感謝しつつ旅立つ。
こんな当たり前の人生が許されない世にはして欲しくありません。

 

おすすめ

それぞれ属するカテゴリーに関連記事が有ります。 ============================== 日本はなぜ負債大国になったか 平和時に政府が借金を増やす理由は、富に対する課税を怠ったことに起因する。 ... .. ============================== 年金問題」の本質:“高齢化社会”が問題なのではなく“供給活動投資額”が問題 “少子高齢化社会”という人口構成の変化は、「年金問題」とはまったく無関係なのである。 ... .. ============================== 寄生性と知的謀略 寄生者は、自分たちが寄生者ではないこと、自分たちが求める取引形態は正当であること、自分たちの価値観はまともなものであることなどを宿主に認めさせよう(錯誤させよう)と努力します。 ... .. ============================== 抜け出す第一歩は「隷属の認識」 国際寄生者は、巧妙に「知的謀略」を駆使して、宿主構成員(我々)が奴隷であることや隷属していることを感じたり認識しないよう... .. ============================== 今後の世界と日本 “新世界秩序”は米国の一極支配をめざすものではない  戦後世界こそが米国の一極支配構造であり、“脱戦後世界”は、それとは違った新しい支配構造がプランされているはずです。 ... .. ============================== 米国政府の対外債務返済能力  米国政府が、個々の債務証書に書かれた内容ではなく、グロスの債務について日銀やその他の経済主体に返済することはできないと.. ..

過去ログ

RSS
この記事へのコメント一覧
※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。
投稿者
メール

 
コメント
URL
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その131byにいのり
社会全体が腐り始めているのだから、社会の一機能体としての行政府を無視するのではそれもおかしなことになるが、社会の事は行政府に全てお任せというこれまでの社会主義的な定型思考にとらわれがちになっていた社会観を反省的に検討し直すべきだろう。
「社会改革」を目指そうとするあまり、目的と手段を取り違え、効率主義と官僚主義とを安易に採り入れ過ぎてしまうのは、一種の政治的トラップにかかる事を意味しており、社会改革というもののために行政府に権限を集中/強化し、一気呵成にやってしまいたいという急進主義は、結果として強権的中央集権政府(要するに独裁政府)を要求してしまう。
現在、与野党・左右を問わず、常套句/決まり文句/枕詞になっている「改革」なる言葉の連呼に違和感を覚えなければ、私たちはきっと無意識に近いレベルで、知らず知らずの内に「独裁政府」による「制度転覆」のようなものを要求している。
それが大衆的熱狂となって左振れすれば「革命」という事になり、右振れすれば「ファシズム、ナチズムの到来」という事になるのだろうが、招来しようとしている政治制度は瓜二つのものだ。
「改革」なる言葉に眩惑されない事を心掛けるべきだろう。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その130byにいのり
私たちは、"政治業界・経済業界"に参集して"君臨"したがるレベルの連中の、その圧倒的下品さを目の当たりにして、あまりの事に目をそらし続けたり、あるいは連中をくさす事にのめったりする事にかまけるのではなく、やはりそれを内省の契機とすべきではなかったか。
一時期"経済業界"の方から「トリクルダウン」なる、いかにも下品な連中が考えそうな、詐欺臭がひど過ぎて呼吸していられないほどの自称「理論」が口にされたりもしたが、もしそれでも「トリクルダウン」なるものを本気で唱えていたのだとすれば、それは「資本主義アナクロシステム」が自らのアナクロニズムの自重に耐えきれずに発した「断末魔」という解釈をしても良いのではなかろうか。
まるで「加齢におびえる女優が、訳の分からないオカルト臭いアンチエイジング理論に手を出し、自らも広告塔をつとめる」レベルのその醜悪さと同じような。
そういう決して反省だけはしない連中の"弱気"に気付いてあげるべきだった。
気をつけるべきは、これまで私たちは、アナクロニズムに浸った無能な行政府と野卑な民間企業のコラボによる社会的腐臭に気付くと、どうしても行政府を改善しさえすれば社会改革につながるという思い込みの中に入りがちだったという点だ。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その129byにいのり
(なんだかメンテナンスが延期になったようですので、もう少し)

我が国・我が社会…私たちの国・私たちの社会にも「応援好き」がたくさんおり、折しも「総選挙」とやらで「応援風景」をストリートで観察する事が可能だったり、ネットでも「ネットサポーターズクラブ」なるどこぞの党派により組織された「応援軍団(?)」がステルス・マーケティング中(笑)のようだが、概して、私たちの国・私たちの社会における「応援のレベル」は低劣で、観賞に耐えないレベルのものばかりであるのが残念過ぎる。
結局、連中というのは、資本主義経済なるアナクロニズム、アナクロ経済システムの範囲内で、「てめえたちだけの腐った利潤・利益」のためのみに「応援/広告」をしているがゆえに目もあてられないみえすいたものとなる。(勿論、野党とやらを"応援"している連中も同族/同属に分類される)
私が「上原ひろみ」という固有名を出したのも、「こんな下らないアナクロな応援システムの一員になるくらいなら、上原ひろみを静かに応援していた方が、巡り巡って圧倒的に未来のためになるだろうと思うから」だ。
山口4区に政治的立候補をした黒川氏という固有名を出したのは、「ああ、こういう人なら、もしかしたら応援のし甲斐があるかも知れないと思ったから」だ。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その128byにいのり
今でも、「CSR」という概念が語られるようにはなって来ている。だが、これは、お仕着せの、綺麗事のレベルでとどまっている。行政が半ば強制している感も拭えない。
広告の中で、「木を植えています」と"自慢"する企業も現れている。
「木を植える」すなわち「樹木がすくすくと育つのを応援したい」んだろう。
「応援先の多様性」「応援のセンス」でどんどん競争しようぜ。
そう、提案したくなる。
「オリンピックのスポンサーになっただけで、やたらと誇らしげ」…本業評価もさりながら、そういうつまらない企業は、総合評価を思い切り下げる…そういう面白い社会の方がいい。
これまで「家族、家庭」というのは「血縁」中心、せいぜい「地縁」までだった。
今後は、「血縁」「地縁」「友縁(笑)」とともに、こなれた言葉ではないが、「嗜好縁」「目的縁」「需給縁」「危機縁」なども採り入れて、「縁」の多様化、多重化による「所有」の概念の乗り越えが起きても良い。
実際、自治体による「観光地周遊目的」の「自転車の無料貸し出し」のような事は実行に移されている。
官ー民各々による工夫の仕方はいろいろあるはずだ。

(うーむ、書き殴りで、今日のところは、この辺が限界でした(笑))
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その127byにいのり
世にオリンピックのスポンサーと称してデカい面したがる企業群がある(笑)。連中が広告を打つ際の常套句も「○○を応援しています」だ。
「国威発揚」と同じく、アスリートを「応援」するのは、いろんなものの「発揚」に効く、と信じられているのだろうし、「大衆の意向に合致する」のだろうから、連中がスポンサーになりたがるのは理にかなっている面は確かにある。
ただ、オリンピックというのは、早晩、その性格を大きく変えるだろう事を見据えている企業はどのくらいあるだろう。
後もう何十年もすれば、恐らく「記録の更新」というのは途絶える。
そうなった時、恐らく、今のパラがメインになり、「記録」とは関係ない主としてボール競技は、ワールドカップのような個別大会に席を譲っていく。
そうなっても、現在の企業群は、新しいオリンピックのスポンサードを継続するだろうか。
彼らがどうするか…実は、それは私たち消費者(でもあり生産者でもある生活者)が、人でも組織でも、どのような姿勢にある存在を「評価」するかにかかっているだろう。
「応援の仕方を心得ている人や組織」「応援の対象がさすがだとしかいえない人や組織」…これらを消費生活を通じて「応援」出来れば、恐らく「応援」の好循環は成立する。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その126byにいのり
「共有と分配を促す経済システム」とは、別に綺麗事イメージではなく、そうした方が人生楽しいじゃないか、意気に感じるじゃないか、というそういうものだし、そうあるべきものだ。
そして、混合経済化を促す当面のキーワードが「応援」という事になるだろう。
世に「応援好き」な人は多い。
「応援」に、「時」も「財」も傾けてしまう人も結構多い。
時にはそれで人生を棒にふる人だっている(笑)。
「国家」を「応援」するのが生き甲斐になってしまって、「このナショナリスト!、右翼!」と罵倒されながらも「応援」をやめない人すらいる(笑)。
何だって物事には光と影の両面があるのだが、ともかくも「応援する人」が「合理的経済主体」である事は殆んどない(笑)。
というのも、「応援」するのに「合理的計算」なんかいちいちしていたら、とてもやってられないという事の方がむしろ多いから(笑)。
それでも人が「応援」をやめないのは、その方が圧倒的に人生が楽しく充実することを知っているからだ。
人間というのは、必ずしも「得」にならないのは分かっていながらも、「応援」という行為をどうしたってやめられない奇妙な生物なのだ。
だったら、ここに、ほんの少しの「合理性」を加味してみれば良い。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その125byにいのり
私たちは、ネットという「自己」そのものをメディアにしてくれるシステムを使って、興味本位ながらも「経験」や「感動」の「シェア」を始めている。
ここに未来の私たちの「生活システム」を左右する兆候を見るのは、比較的自然な流れだろう。
普通の感性の水準ですら、もはや行き詰まりつつある事が見えてきた貨幣を常に媒介しなければシステムとして稼働しない資本主義経済(共産主義経済もその意味では貨幣経済の変種でしょう)。
これを乗り越えるものとして「贈与経済」という事が言われるようになったが、どうやら「贈与」という概念を「交換」の一形式として用いている議論が多いようだ。
これでは袋小路に入ってしまうのではなかろうか。
むしろ、人間とは「シェア(共有と分かち合い)」出来る事に喜びを覚えてしまう生物という点に着目すべきだろう。
これは、「家政(家族経済、家庭内経済)」というものを思い浮かべれば、突拍子ないものではないはずだ。
おそらく将来的には、「交換」と「共有」の混合経済になって行くのだろうし、そうすべきなのだろうが、既存の経済システムが「独占と蓄財」を促すシステムだとすれば、新しい経済システムは「共有と分配」を促すシステムになると言えるのではなかろうか。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その124byにいのり
「幸福」という言葉を出してしまうと仰々しくなりがちですが、そもそもにおいて人間とは、人生を合理化したい、合理的な人生を生きたいと願って生きているわけではない、人生を楽しみたいと思って生きているんだろう。
余計な「苦」を負いたくない、負うにしても極少化したいという側面で、合理性も必要だと思っているだけで、力点は「楽」に置かれている人が多いはずだ。
人類に普遍的な「戒め」としてある「楽」だけでは生きて行けないというのは、「戒め」としてはその通りなのだし、それ自体はこれからも「人類の発見した真理の一つ」として当然尊重していくべきではあるのだが、そういう倫理主義に貨幣が介在する事によって資本主義が発展してきたというウェーバーの慧眼も、今でも有効性を保っているのは確かでしょう。
おかげで私たちは、楽しんでいる時も苦しんでいる時も、結局どっちにしても常に"貨幣に介在される"事に慣れっこになってしまった。(この文字通り身も蓋もなき事態に感性を研ぎ澄ますべきだ)
だが、ネットの登場は、そういう常態(あるいは感性的な不感症)に対して小さいながらも風穴を開けたのは確かでしょう。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その123byにいのり
さてそこで、当ブログが参加している運営サイトがサーバーのメンテナンスに入るとの事で、(毎年この時期恒例なのかどうか忘れてしまいましたが)これを機に、私の連続コメント投稿もあと幾つかをもって終了させていただく事になると思います。
このブログが、その辺のSNSにひけをとらない程の隆盛を誇ったのも今は昔という感じになってしまいましたが、それでもこのブログが日本のソーシャルネットワークのコンテンツ上の歴史に刻印されるべきものになったのは、ひとえに管理人である早雲様のお人柄と言論に対する感度の良さ/高さによるものと思います。
今でもニュース系で健闘しているブログ(ブロガー)等も散見されはしますが、総体的にみれば、無名の人々でありながらあるいはそれゆえに、切磋琢磨しながら高みを目指すあるいは高みを構築するという意味でのネットに対する期待感というのはだいぶ薄まる事になってしまいました。
けれどもネットの出現によって、人間というのは、貨幣を媒介させなくても、結構、労力も時間も費やしてしまうような存在なんだよというのは、かなり見えて来たのではないでしょうか。
この人間像というものは、明らかに合理的経済主体とは対立する、あるいは異質なものです。(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その122byにいのり
いや、だがもう時既に遅しなのかも知れない。
『こうして文明は崩壊していく』…僅かながらでも罪滅ぼしの意識があるのなら、自らをも崩壊の一翼を担った主要プレーヤーとして登場させ「不都合な真実」に斬り込む、そういうタイトルの「客観的レポート」でも今から用意しておいた方が良いかも知れない。
さて、少し話題が経済に触れてしまった途端、日頃の憤懣やる方ない思いが迸ってしまって(笑)話を膨らませ過ぎてしまったが、私が黒川氏、上原氏という二人の固有名を出して展開してみたかったのは、(もちろん経済上の概念としても関連してくるのだが)「シェアしたくなる」という人間の中に(恐らく普遍的に)ある強烈な「願望」についてだ。
これは「欲望」に限りなく近似しているが、むしろ「祈り」に似た人間の中に生じる「願い」であり、換言すれば、それを仮に「欲」と呼ぼうとも、その気持ちは「貨幣」という「交換」のためのツールに還元されてしまう事がないがゆえに「独占(欲)」ではなく「共有(欲)」として発現するものだ。
「欠乏」しているがゆえにどこからか取ってきて満たそうとするのではなく、「過剰」であるがゆえにお裾分けや共有や、反復的共通体験をしたくなる…そういう心理状態。
(つづく)
1|2345

ランキング

応援ありがとうございます

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村
こちらもよろしく

最近の記事

最近のコメント

ページ・ビュー

自由項目8

teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ