晴耕雨読

淡々と日々の暮らしを立てるために働き続け、木々の緑、雨音、枯れ枝に架かる雪を密かに楽しむ。
老いては老いを楽しみ、若者の成長に目を細め、良い人生だったと感謝しつつ旅立つ。
こんな当たり前の人生が許されない世にはして欲しくありません。

 

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投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その72byにいのり
雑誌の性格上、若干作り方は異なるものの、では文藝春秋社の『週刊文春』が『サピオ』と同様のスタンスから問題提起する事が可能かと言えば、それは恐らく不可能だろう。
『週刊文春』側が「『サピオ』は論説中心の作りなので思いきった特集を組むのも比較的たやすいはずだが、ウチは、あくまでも事実報道を中心に置いているので、そうそう都合の良い事実など起こってくれやしないのだ」といった言い訳を仮にしたとしても、説得力を感じてくれる方はさして存在しまい。
「事実」とは、それを知らせる側の切り口次第で様々な傾向/角度を設ける事が可能であり、それは容易であるがゆえにメディア自体の多様がまず求められるのであり、その多様な諸傾向を有するメディアの内にあっても極力取り上げられる意見も多様性に富んでいるべきだという事になるはずなのだ。
ところが、我が国では「宗教教育をしてはならない」と誰かに言われると、諸宗教の百科事典的な解説すらしなくなってしまうのだし、「報道機関は公正中立でなければならない」と言われれば、「事実」は一つしかなく、その「事実」に関する解釈もまた一つしかないはずだみたいな教条主義があまねく安易に行き渡ってしまう。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その71byにいのり
そして、起きていたのはそれだけだ、哀しいことに。それ以上の何事も起きていないという意味で余りに空ろに過ぎる、まるで誰かの脳内のように。
いったい、このようなものを「右傾化」と呼ぶべきなのかどうか。
「下賤化」だとか「野蛮化」、そして「動物化」、果てには「昆虫化」などと呼ぶべきなのかも知れないが、「右傾化」と呼んでしまうなら、それは「右翼」や「保守」を思想として標榜し追究して来た方々に対して非礼ではなかろうか。
容易に結論の出ない理性と心情の相克や、合理的推論(とみなして良いはずのもの)から枝分かれしながら導かれてしまう複数解など、やれ右だ左だ、国家だ個人だなどというこれまでの仕分けには馴染まない選択にともなう困難性に耐えずして逃亡し、自己欺瞞し、頬かむりをしている…それが実態ではないのか。
「通俗」が、誰に頼まれたわけでも命令されたわけでもないのに、「低俗」へ、そして「俗悪」へと退廃して行く過程に、何の抵抗も摩擦も葛藤も屈託もないがゆえに、個体性の喪失した言説を撒き散らすだけで満足できる人々……そのような人々の巣窟からは、やがて言語すら喪失した兵隊蟻たちがぞろぞろと這い出てくるばかりになろう。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その70byにいのり
「記者クラブメディア」や戦後民主主義者らが主導し形成された言論の「戦後レジーム」…大袈裟に言えば差別用語集だけで分厚い辞書になってしまうほどの…、更にあえて言うなら、古代の物忌み/方忌みレベルにまで人々の日常的な言動を淫靡に拘束しかねない独善性の押し付けは、なるほど質の高い良識の持ち合わせなど殆んどない巷のPCオタクみたいな連中がパソコン通信のようなものをやり始めた頃から、自分たちが開こうとしている新しい情報通信分野の足を引っ張る、うっとおしいものとして意識されるようになったのは心情的には分からないではない。
そこに加えて、(いつの時代でも若者の属性であるような)無鉄砲な過激さや過剰性を好む者たちにとって、"良識"を振り回しながら他人に抑圧的に振る舞うレベルの欺瞞性ばかりが鼻につく左派的な言説に対抗するものとして、右翼保守的な露悪的で尖った言い方が好んで用いられるようになるという流れがあったというのも、とりたてて不思議でも何でもなく、これも心情的には理解できる面もある。
理解できる面はあるのだが、そのようなトレンド下において何が起きていたのかと言えば、つまり「右翼的言辞」の「通俗化」が起きたという事なのだ。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その69byにいのり
さて、数回前から、私がこのような「俗」…「通俗」のあり方について縷々述べ始めたのは、創刊当時とはかなりかけ離れて、気色の悪い虚仮脅かしふうの右翼御用達雑誌色を強めていたように見えていた小学館の『サピオ』なる雑誌が、『明治維新150年の過ち』という特集を組んでいるのを目にしたからだ。
少なくともこういう見出しは、直情径行型の人士しか表に出て来ない/来れない「右翼/日本会議」界隈では決して掲げられるものではないのは確かだろう。
なにせ「明治維新の過ち』というのだから。
明治生まれの新興カルトに過ぎない「国家神道」を精神的な拠り所とする以外、思想的にまともなタメが一切ない、浅薄に過ぎる「日本会議」界隈ではタブーとする以外ない言い方になろう。
何かあったなと思いきや、隔週誌だったはずの当該誌は、次号から隔月誌になるのだという。
なるほど、要するに「通俗右翼」レベルの人間相手に商売を続けようとしても、まともな商いにはならない/採算が取れないという事を、これまでの数々の保守系雑誌同様、露呈してしまったという事なのだ。
そうなったのは、「保守論壇」(と呼び得るレベルのものがあるとすればだが)の自業自得にほかなるまい。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その68byにいのり
最近では「食べログ」だの何だのと各種SNSが普及して来て、「権威のフィルターを通過しない評価」が、ネット上を絶えず飛び交って私たちの意識や行動に一定の影響力をもたらす訳だが、日本の消費者は、今も昔も選球眼がやたらと良い、いやらしいバッターであり続けて来たのは確かだろう。
ただし、「通俗」の場面に限っては。
これが「非通俗」の領域になると、大抵、権威主義者・事大主義者として突如振る舞い始めてしまうのはどうしたことか。
来る球をあんなにシリアスに選んでピッチャーを震え上がらせていたあの名選手が、引退してフロントに入った途端、恥も外聞もないイエスマンになっちゃって…みたいな。
こういうちぐはぐさについて、私たちはそろそろそれこそシリアスに受け止め、自分なりに解析し、自覚的に振る舞えるようになるべきではないのか。
そういう意味で、「通俗歌」としての「民謡」が、今でも十分に素晴らしいものだとしても、時代の前線を形成するほどの「ポピュラリティ」を獲得するにはやはりそこに何かを付け加えなければならないのであり、
そういう事がカッコ良く出来るようになって初めて「people」は「人民」ではなく「皆の衆」あるいは単にフラットな「皆/衆」として対象化されて来よう。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その67byにいのり
とすれば、「悪しき通俗」、すなわち一般的に「低俗」だとか「俗悪」などと呼ばれるような通俗性というものは「欺瞞」という要素と特殊な親和性を有していると言えるのでは。
サザンや文春よりも更に分かりやすい例をあげるなら、老舗の「たこ焼き屋」や「お好み焼き屋」を想像してみるのが良いかも知れない。
「たこ焼き」にしろ「お好み焼き」にしろ、どう転んだって俗な食べ物にはちがいあるまい。
だが、老舗Aは、我々ほどの老舗ともなれば「たこ焼き」も高級料理の仲間入りをさせる事が出来るのですとうたい、「たこ焼き懐石」をオープンした。
老舗Bは、ネームバリューの上に胡座をかくのが一番怖いとして従業員教育に力を入れ絶対に質を落とさない努力を続けた。
老舗Cは、これまでに獲得した評判の拡大を一気に図るとして、全国的チェーン展開に乗り出し、今のところ業績は倍々ゲームで伸びているようだ。…
「自己に対する欺き」、「他者に対する欺き」が入りやすいのはどの方法か、一目瞭然かと。
勿論、私は、守りに徹していさえすれば良いなどと言いたいのではなく、俗なものが良俗から俗悪へ反転してしまう際の欺瞞の入り込みやすい「契機」を分かりやすく表現しようとしたまでです。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その66byにいのり
勿論「通俗」というものは安易に否定されるべきものではあるまい。
最近、誰かの口真似をして「ポピュリズム(の害悪)」などともっともらしい顔をしながら偉そうにつぶやいてみせたような者ほど俗な人間もいないだろうに、わりとそういう人間がたくさんいる事に驚かざるを得なかった。(で、ふと「天に唾す」の対句はあるのだろうかと思って調べてみたのだが、どうも分からない。ないのならば「地に毒づく」などはどうだろう。いくら執拗に地をけなしてみたところで、大地は痛痒など感じる隙もなく只どんとあるのみ、というような意味で)
そうとはいえ、ありがちなのは、俗の内にあるものが、俗を卑しみ、俗を疎み、俗を踏み台にして、俗を左右し始めるというような事なのであり、そういう事にはやはり最大限の警戒心を働かせるべきだろう。
養生訓的な観点から言えば、「貧すれば鈍する」事には同情の余地があるとしても、「貧するを恐れて鈍する」ところまで行くのは、人として誰もが避けたいものだと思いながら暮らしているのではなかろうか。
そうなるとそこには人様に対する「欺き」の要素が浸潤して来るものだから。
「欺瞞」とはそのような事態を指す言葉に他なるまい。
(つづく)
投稿者:北斗七星
>おやおや?
なぜ、私の行く先々に・・・

おそらく私にたいしての苦言だと思い、答えます。

「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざがありますが、そのようなわけで一見関係のないことのようなことを書いているわけです。

一念(一心=心)というものが全宇宙の森羅万象に深く関わっているというか、心=森羅万象であるならば、何であれ、心に無関係であるものなど無いという考えでやってます。
あまり遠くのことを考えると分からなくなりますが、身近をみればそのとうりだと思っています。

にいのり様の御気に障った言葉が何であったのかと思いを巡らせましたが、はたと、小椋佳氏の歌詞にあったのかと思いました。

♪公園に来て
この歌詞にみられる主語は「俺たち」であり「幼な児」ではありません。当然のように「俺たち」の中にはにいのり様もいらっしゃるわけです。
何がにいのり様の誤解を生んだのかよくわかりませんが、誤解を生んだことは確かな様ですので謹んで陳謝いたします。

小椋氏の心象風景を語るわけにもいきませんのでこの辺で・・・。

投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その65byにいのり
「曲を書き自分で歌う」タイプのグループとしては、やはりサザンが累積では最大のヒットメーカーという事になるのだろうか。
社会には、とにかく何でも良いから何かにかこつけて「群がりたい、騒ぎたい、羽目外したい」みたいな"真面目な"人たちが沢山いるようなのだが、とりわけ日本のように集団性の高い社会では、そこに「一斉に、一律に、一方向に」という横並び性が横溢する事で、仕舞いには「オタクダンス」?みたいなものが世界的に認知されてしまうという回復不能に近い逆宣伝を成立させてしまいがちなのだが、そういうモード(?)の王様的地位を早くから確立してみせたのがサザンだろう。
そんなサザンでも、通人に期待を抱かせる上昇期のようなものはあったのであり、なんと「文春」ではなく「新潮」の方で『サザンオールスターズ1978-1985』なる新書を売り出したようだ。中身は読んでいないが(笑)「初期の名曲を徹底分析」という事だから、この著者の強調したい事は分かる気がする。
で、そんな新書をふっと出すのが「新潮社」だとすれば、文春側は「週刊文春」の同じ号中の全面広告自社出版物のタイトルをみると『昭和平成「怪事件の真相」47』『新酔いどれ小籐次』『綾小路きみまろ爆笑フォーエバー』なんだってさ。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その64byにいのり
さて、前回の本筋(その63)から直接つづく文章を掲載させていただきたいと思っていましたところ、持論を補強する特集を組んでいる雑誌が目につきましたので、ちょっとそちらに言及してみます。
まず、私は、「新潮vs文春」という不発弾がゴロンと野原に転がったまま忘れ去られようとしている現象に着目した上、内的に少し執着し、一連の文章のタイトルに「株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA」という表現を使う事にしたのだが、ポイントは当然ながら「通俗」という語の意味する中身になる。
分かりやすい比喩を使えば、結局、「文春」というのは、月刊の本誌も含めて、サザンオールスターズなる歌謡グループと同型なんだよなぁ、という事になる。
サザンオールスターズと言えば、ちょっと前、リーダーの桑田某がコンサートで安倍を皮肉る言動を取ったとか取らないとかで、卑劣なネトウヨ圧力団体が騒ぎ出し、桑田お得意の訳の分からないオチャラケで切り抜けてみせると思いきや、事務所丸ごと大真面目に謝罪してみせ、しかもこれ以上ない日和を繰り広げて見せてくれたという、「だってサザンオールスターズごときに何か期待する方が最初から間違ってるでしょ」的定番意見を確立させる事件?を引き起こしている。
(つづく)
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