晴耕雨読

淡々と日々の暮らしを立てるために働き続け、木々の緑、雨音、枯れ枝に架かる雪を密かに楽しむ。
老いては老いを楽しみ、若者の成長に目を細め、良い人生だったと感謝しつつ旅立つ。
こんな当たり前の人生が許されない世にはして欲しくありません。

 

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投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その111byにいのり
より醜悪なのはどちらなのかと言えば、仕掛けられて「リベラル狩りだ」などと泣き言を言っている側だ。
枝野氏というのは、少なくとも泣き言は言わないという決心をしたようで、その点においては初めて彼の事を評価の対象として見るつもりになったが、ひとかどの政治家としてみるなら、これだけ猶予があったのに、「民主ー民進」と移り変わり、蓮舫代表とやらが"戦犯"野田を幹事長に抜擢する中で、自己評価は妙に高いらしい「リベラル勢力」とやらは、何の政治的方向性も示せず、国民からの評価も上がらなかった事について、泣き言の前に、まず釈明なりお詫びなりはないのだろうか。
同じ事は、(最初から全く期待していないのでどうしても言及するのを忘れてしまうのだが)、自民党内のかつては保守本流として自他ともに認めていた勢力の系譜を引く連中にも言える。
いつもいつも、ただただ「座視」しているばかりで、いざというときに「君らはもうお役御免なのでついてこないで」と言われて始めて「排除の論理だ」とか訳の分からない泣き声を上げ始める。
支援者ならそういう姿をみても「さすが先生は、泣き言一つ取っても泣き声が違いなさる」とでも言ってくれるはずだとでも?
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その110byにいのり
小沢氏らが潰された事に恐れをなして、抜本的な改革を口にするのを封印してしまうなら、もはや改革勢力ではなく、「民進党」とやらの一部がしきりにそうみなされたがっていた「役立たずの保守」、議員生活さえ続けられれば後は何も要らないという"立派な"心掛けの「ろくでなし」という意味で、「連合」所属の労働者連中とちょうど対をなす「使えない保守」という事になるほかない。
それにしても、このような「勢力の配置」を差配しているのは誰なのかはやはり気になるところだ。
シナリオ作りの中枢に関しては、状況証拠的なものしか上がって来ないのだから推測の域を出るのは困難だとしても、少なくともそのような「配置」をあからさまに行っているのが、TVー新聞ー週刊誌で妙な連係をみせる「既成大手メディア」であるのは確かだ。
今度の解散にしても、あの異様な総理は自分の決断であるかのようにアピールしてみせたが、マスコミ情報がむしろ先行し、往年の「新聞辞令」のような雰囲気さえ漂っていた。
それに加えて、例の民進党代表のとても彼の運動神経とは思えない動き。
状況証拠的には、日本の政治的仕掛けが作られる場のようなものが、現官邸から別の所へ移った事をうかがわせる。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その109byにいのり
(殆んど読み返さずに送信してしまっているため、文のかかりなどがいかにもおかしいところがあり、お恥ずかしい限りですが、目を通してしまった方は、どうか意訳しながらお読みください(笑))
さて、NHKなどを見ていると、「アベの政権」側が、あたかも「国民の生活」を慮り、「国民経済」について懸命に知恵をしぼっているかのように強調してみせる一方、野党側は「平和」と「憲法」にしか興味がないような構図をあけすけにつくってみせる。
このような構図というものは、嘘ではないが意図的なものであり、事実ではないが国民の見方をある程度反映したものだという微妙な言い方をせざるを得ず、私の判断では、野党側に主たる責任があるように見える。
というのも、まず「アベの政権」が政治的には完全に破綻しているのに、国会をストップする場面すら作らない。これは労働組合が、サボタージュやストを労働者側の正当な権利として放棄してしまった状況に通低している。
第二に、「行政」を正当な形で国民の手に取り戻すという構想を語るのを放棄してしまった点があげられる。
第三に、日本の「予算」が幾重ものステルス予算で成り立っている状況を改善しようとすら言わなくなってしまった点。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その108byにいのり
近代以降は「個人」を最小単位として位置付けたがゆえに「個人」の自己同一性は安定的に保たれる事が望まれている。
だが、そういう建前を社会に認知させようとする動きは、むしろ「そういう思想しか認めない」という思想的統制力や強制力として作用し機能しているのであって、「多様性は認められなければならない」と言っている端から「テロとの戦い」という口実を持ち出して「多様性の駆逐」を果たそうとする暴力的御都合主義が、何が容認され何が排除されるのか決定する権限を有するのは唯一かつ一元的で一方的であるというナンセンスな不条理を強烈に意識させられる事になる。
いわゆる現代の「左派」というのは、決定権者側と無難な「平和主義」を口にしている限り駆逐しないという密約でも交わしているかのように、一定の内容だけはこれみよがしに叫んでみせるのだが、致命的な差異、決定的な代替案については意図的に触れないようにしているかのように見える。
仲間内だけなら、正義の使者としての自尊心を満足させる効果と機能を有するのだろうが、一般にはリアリティをもって受け入れられる事はなく、自分たちが傷つかないように「正義」の中に逃げ込んでいるだけのように映ずる。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その107byにいのり
そしてそのために必要なのは「自らは貧乏くじを引いても構わない」という覚悟や諦観のはずだった。
それは自己犠牲というほど大げさなものではないにしても、人間を、女王蜂の支配する「場」の中におけるただの「合理的経済主体(働き蜂)」とみなすような、そんな人間観とは相容れないという覚悟のようなもののはずだった。
だが(マルキシズムの中にもある)「科学」だの「法則」だの、「物理」というものの「秩序性」に対するコンプレックスが前面に出過ぎると、「日銀」の中に入り込んだ教条主義者同様、「教条」の検証は全てあなた任せゆえの無責任な目的と手段の混同、目的のために手段を選ばない傲慢、果てには自己利益・自己保身だけが最初から目的だったような欺瞞の中で居直りを決め込むような事にまでいたってしまう。
今や教条の筆頭格となった「多様性」も、裏を返せば「無秩序」や「混沌」とも言い得るのであり、アベの政府などは誰かに言われた通り「多様性」を称揚する同じ口で「統制」のための法案を国会に次々とかけて行く事になる。
残念ながら「統合」されているべきものが「失調」している事と、最初から「統合」される必要もなく「多様」な形で同在すべきものとでは存在のあり方が異なる。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その106byにいのり
こうして思想的にみても、近代的合理主義が、その背景にある伝統宗教(異教徒からすれば神秘主義に彩られたそれ)との関係性が関係妄想化しカルト宗教化したかのような、今日の欺瞞的支配思想との差異性を明確化できなくなっているいわゆる「左派」ではあるのだが、それでも自らを「左派シンパ」とあえて位置付け、それゆえにこそ真摯な気持ちから批評を行うなら、「共産党」を始めその他のいわゆる主観「リベラル勢力」らは、「平和」にやたらとこだわる勢力としての「ステージ」「ダンジョン」あるいは一方通行単線の「プラットホーム」が与えられ、「さぁ、立派な平和勢力として、平和を連呼し力説し、正義の騎士として迫り来る敵をバッタバッタとなぎ倒して下さいよ」と言われて喜ぶゲーム好きの幼児レベルの役割のみしか与えられていない事にもっと自覚的たるべきだろうということだ。
自称「共産主義国家」がただの「独裁放置国家」になって久しいため、巷間レベルでは「左」だ「右」だのの定義自体が怪しくなり出鱈目になり錯綜するような趣になっているわけだけれど、「左派」がそれでも最後まで死守すべきは、自らのそれではなくいわゆる弱者や貧困者の利益、立場を忘れずに代弁し続けるという役割だったはずだ。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その105byにいのり
「合理性カルト」のバリエーションとして、ダーウィニズム、ファシズム、ファンクショナリズム、オペレーショナリズム、マネタリズム、サイバネティクス等と呼ばれる考え方が出現して来た訳だが、そういう「合理性カルト系思想」の系譜にマルキシズムも位置付けられるのは思想史的にはもはや自明ではなかろうか。
いわゆる「左」vs「右」の政治闘争が不毛になり、それどころか肝心な所は丸見えなのにわざと誤魔化してみせるいかさまプロレスのようなものとして私たち素人にも判じられて来たのだとすれば、それにはそれなりの思想史的根拠があるのであり、もう「左右のイデオロギー闘争」などというものは、花やしきの化け物小屋程度の感興しかもたらせなくなっているということをしっかりと認識すべきだろう。
客観的には対立性要素よりも共通性要素の方が多すぎるのが、初期近代から続き現代も劣後する政(治世)界に残る「左右(に分かれた)闘争」なるそれ自体アナクロ化している虚構なのであって、そこをしらばっくれるのはもう許されまいということだ。
にもかかわらず、一般社会より劣後し続ける「政治マニア」の参集する「政界」なる"古ぼけたテーマパーク"では、懲りもせず「左と右に分かれた源平合戦」のようなものが繰り広げられ倦むことがないようだ。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その104byにいのり
自分の事を、いっぱしの教育を受けた知的市民であると任ずるようなニーチェ風に言う「小市民」が増えれば増えるほど、「合理性カルト」の側から頒布されて来る「数値信仰」教義と親和的になってしまい、よくよく調べてみれば根拠薄弱で非合理性の高い「煽り(宗教的言説に特徴的な脅迫)」に過剰反応し右往左往させられることが多くなる。
同様に、「合理性信仰」の枠組みの内で体裁が整えられる「政府」だとか「官」などと呼ばれる組織に無警戒でいると、他国の政府はいざ知らず自国の政府が犯罪組織であるなどという事はよもやあるまいという確信(非自覚的信仰上の信念)の中で生き続けてしまいがちなのだが、他国政府なら意外に見えやすい事が自国の政府に限って全く起こるはずがないと思い込むのは、やはり迂闊との謗りを免れ得るはずもなく、但しそのような警句は、残念ながら「官/政府/メディア」が巧妙になればなるほど殆んど気付かれない程のボリュームにまで落とされてしまう。
驚く事に、ある新聞を読むともなしに眺めていたところ『争点は改憲と増税』なる見出しが躍っている。
いやいやいや、これまで一生懸命論じてきたように、『争点は犯罪か政治か』だろう。
ふざけるな、と。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その103byにいのり
それでも「政治学」が、「経済学」ほどに合理的ナントカ主体がどうしたこうしたなどという言説が主流になるほど科学的に"落ちぶれなかった"のは、「政治」が人間集団の合理性から非合理性まで取り揃えたコミコミの全体性(総体性)における対立や妥協や融和の動きであった事から、多くの点で計量化や数値化にそぐわない/馴染まない要素のある事が一般にも丸見えだった事によるだろう。
米国の「合理性カルト」の信仰者らも含め、一般的に宗教は自らを神秘的に見せようとする誘惑から逃れられず、「合理主義」を神棚に奉るカルトにしてもそれは変わらない。
「合理性カルト」らの信仰の対象の一つが「数」というものだが、「数」は、遥か古代より秘術の実践に必要欠くべからざるものであったのは人類の文化的差違を問わない。
その「数」を用いた"秘術"の実践が通用しない時/拒まれた時、そして明らかに困難な時、具体的にはランダムな変数、非線形の変数が大量で、"計算"が不能になる時、そのままお手上げとなり"人として"どうして良いか分からなくなる程度の"才能"など、人間は必要とはしていないという現実を、「合理性カルト」信仰者は今までのところ甘く見ているように見える。
(つづく)
投稿者:【『週刊文春』編集長の絶望的にむなしい言い訳と、メジャーな出版社としてまともな経営方針の見つからない株式会社文藝春秋の始末に負えない通俗のDNA】その102byにいのり
同様の構図は「政治」についても言い得るのであり、「イデオロギー上の単純社会モデル」が「政治問題の中心」であるかのような幻想がばらまかれ、任意の「ある党」「ある政権」に反対するには、イデオロギー的にも対立していなければならないといったような単純モデルによる虚構が流布され蔓延してきた。
もう少しくだけた言い方をするなら、反権力系のネットサイトの議論等を観察していると「おい、誰々は左じゃないぞ、こいつやあいつも左じゃない。左じゃないのは全部敵だ」と言っているだけの人が多いように見受けられる。
だが「左ではない人が左ではない」のは同語反復に過ぎず、発見にも批判にもなっていない。
「問題の中心」は「左ではない人と共闘するにあたってどこまでを許容範囲とするか、あるいは誰を目下の共通の敵とみなすか」であるはずなのに、ともすれば「異端審問、異端裁判」みたいにすぐなってしまい「お前、左じゃないから敵」と宣告するのが仕事化してしまう。
こんな事をしていたのではネトウヨらの議論を反転させたに過ぎず、「あなたがたもいったん権力を握ったらネトウヨを指差しながら、こんな人たちに負けるわけにはいかないんですと啖呵きるんでしょ?」と笑われる始末と相成る。
(つづく)
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