『十字軍』と『魔女裁判』は今なお進行している現実のものである -2
■ 『十字軍』とは何だったのか
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『十字軍』は、「世界史」的説明としては、聖地エルサレムの回復を目的に1096年に第1次十字軍が編成され、第8次十字軍の遠征の結果として1281年にシリアの十字軍国家が滅亡したことで終わったとされるものである。
(日本の近代学校教育では、西欧中心の「世界史進化論」を教えられているが、18世紀後半から始まった産業革命後はともかく、それまでの世界史で範となる文明を築いてきたのは、中国・インド・西アジア(中東)・アフリカである。(南北アメリカはその歴史をずたずたにされてしまったのでここでは取り上げない)オスマン帝国は、19世紀初期の時点でもウィーンを攻囲するほどの力を持っていた。別に文明に崇高な価値があるとは思っていないが)
9・11空爆テロ後の「反テロ戦争」の呼びかけのなかでブッシュ大統領が「今回の戦いは“十字軍”だ」と声高に叫んだり、作戦名を「究極の正義」としたことで、それは、イスラム世界の気持ちを逆なでするものだと非難され、それらを撤回することになった。
(しかし、あれはつい口が滑ったというものやうっかり反感を買ってしまう作戦名を付けたというものではなく、念入りに計画された「失言」であり「不遜な作戦名」であったと思っている。(歴史への造詣が深い人が政権内にいるようだからね)ブッシュ政権は、9・11直後から、イスラム世界への挑発をさかんに行っていたのである)
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『十字軍』とは、今なおあのような大きな物議をかもすほど、西欧(ラテン語キリスト教)世界とイスラム世界&東方(ギリシャ語)キリスト教世界のあいだに深いしこりと亀裂をもたらした歴史的暴挙だったのである。
歴史そのものがテーマではないので結論的に言えば、「『十字軍』は、ローマ法皇庁が、聖地奪還を名目にして、物質的にも精神的にも豊かだと思っていたイスラム世界とビザンチン帝国)を破壊的に侵略した」という出来事である。
(ビザンチン帝国は東ローマ帝国であるが、330年にコンスタンチノープルが首都となっているので本家のローマ帝国ともいえる。ローマ法皇庁が十字軍を通じて東方世界の支配を狙っていたことも間違いないだろう)
十字軍の遠征過程では、ヨーロッパ内でさえ略奪と虐殺(ユダヤ人を標的)を行い、小アジアからエルサレムに至る道程でも同じような蛮行を続けたあげく、降伏したエルサレム市内でも7万人(ムスリムとユダヤ人が一体となって防衛)とも言われる虐殺を行った上で「ラテン(エルサレム)王国」(1098年)を設立した。
この時の十字軍の極悪非道な蛮行は、イスラム世界のみならず東方キリスト教世界にも深刻な衝撃を与え、現在に至るまで人々の記憶に刻み込まれているのである。
イスラム世界の史料が普及していなかった時代のモンテスキューでさえ、『ローマ人盛衰原因論』(岩波文庫:田中治男・栗田伸子訳)で、「この遠征を始めたフランス人が自制的に振舞おうとしなかったことは認めなければならない。アンナ・コムネナがわれわれに向けている悪口雑言の奥には、われわれフランス人が、異国民の許で自己抑制せず、今日われわれを非難する理由となっている悪行を当時もしていた事実があったのである。」(P.264)や「(第1次十字軍の)ラテン人が帝国の西方を攻撃した。長い間にわたって、不幸な分裂が異なった二つの礼拝様式を持つ諸国民の間に和解し難い憎悪を植えつけていた。」(P.262)と対東方キリスト教世界に及ぼした影響を書いている。
(アンナ・コムネナはビザンチン帝国のアレクシオス帝の娘。イスラム世界が受けた衝撃と西欧世界への憎悪に関する史料はここではふれない)
ビザンチン帝国(ギリシャ語キリスト教国家)は、数々の戦争や平時の商取引を通じて、同じキリスト教の西欧世界よりはイスラム帝国に親近感を抱いていた。西欧世界に対しては、優越感・軽蔑・不信感を抱いていたという。
ローマ法皇はキリストの使徒の長である聖ペテロの継承者であり、すべてのキリスト教社会の首長だと主張したが、ビザンチン帝国の皇帝も総主教もそれを認めず、教義上の細かな違いから、ローマ法皇は、1054年、コンスタンチノープル総主教を破門した。
(ローマ法皇庁がビザンチン帝国から独立したという見方もある)
ビザンチン帝国はこのようにしてローマ法皇庁から分離したとはいえキリスト教世界であり、小アジアと中東地域には、ムスリムだけではなく、同じ「啓典の民」として優遇されていたキリスト教徒(シリア正教会・アルメリア正教会(ともにキリストに神性のみ認める単性派)そしてギリシャ正教会も)やユダヤ教徒が生活していた。
西欧世界は、カール大帝時代(8世紀末に「西ローマ帝国」を復興)にアッバース朝カリフから聖地(エルサレム)に対する精神的な保護権を認められていた。エルサレムへの巡礼は自由であり、道程には宿泊設備も整っていた。
(これでもわかるように、イスラム世界がメッカとメディナだけではなくエルサレムも聖地としているのは、『十字軍』に対抗していくなかで形成された価値観である)
11世紀初めまでの西欧世界は、農民も貧しく、城も木造の砦といったもので、貨幣流通もなかった。異民族の侵入(マジャール=ハンガリー人)が止まったこの頃、馬牽引型の鉄製鍬や水車の利用による「農業革命」が起き、食糧の増産が達成され、飢饉や疫病も減少し、都市が形成されていった。そして、西欧の商人たちも、ビザンチン帝国やエジプト・シリアまで出向くようになった。
(このころの西欧商人は、売り物が奴隷や原材料であり、買う物が贅沢品であった)
H.G.ウェルズは『世界史概観 上』(岩波新書:長谷部文雄・阿部知二訳)で、「九世紀のヨーロッパがまだ戦争や略奪で混乱をきわめていた際に、ヨーロッパではとうてい見られないほど開花した大アラビア帝国がエジプトやメソポタミアで繁栄していた、ということである。そこでは文学や科学は生きつづけており、諸芸術は栄え、人間の精神は恐怖や迷信にわずらわされずに活動することができた。また、サラセン人の支配地が政治的混乱におちいりつつあったスペインや北アフリカにおいてさえも、活発な知的生活が見られた。ヨーロッパの暗黒時代のこの数世紀間、アリストテレスの書いたものが、それらのユダヤ人やアラビア人によって読まれたり論議されたりしていた。彼らは無視された科学や哲学の種子を守っていたのである。」(P.214)と書いている。
このようにして西欧世界が文明化を遂げて物質的な余裕が出来、東方世界の豊かさを認知し始めたことが、西欧世界の騎士階級を『十字軍』に駆り立てた前提的要因である。
そして、ビザンチン帝国は衰退していき、コンスタンチノープル周辺を支配するのみ(セルジュクトルコの拡張)で、ローマ法皇に救援を求めるという絶好機が生まれた。(ビザンチン帝国が求めたのは傭兵だけ)
(ドイツ語圏ゲルマン人は、東フランク王国を基盤に「神聖ローマ帝国」(962年)を形成していた。1066年には、イングランドがノルマン人に支配されるようになり、以降400年にわたって、ノルマンディ公国があるフランスとのあいだで激闘を含む深い関係を持たざるを得なくなる。1077年には、「カノッサの屈辱」と言われているローマ法皇の権威拡張の契機となる事件が起きた)
ローマ法皇庁は、領主たちをはじめ多くの人々を十字軍遠征に駆り立てるために、“聖戦思想”を鼓舞し、財産は教会の保護預かりとし係争中の訴訟は停止とし、聖地を奪回したらすべての罪が赦されると説いた。
第1回十字軍では農民までが家族総出で荷車を引きながらエルサレムをめざした。
第1回十字軍の指揮官は、フランス諸侯によって担われており、罪の赦しを得たいという宗教的動機よりも、東方で国を築きその主人になりたいという野望を持っていた。
(トゥールーズ伯レーモン・ド・サンジル、バス・ロレーヌ公ゴドフロワ・ド・ブイヨン、フランス王フィリップ1世の弟ユーグ・ド・ヴェルマンドワ、ノルマン貴族ボヘモンドとその甥タンクレードが指揮官)
第2回以降の十字軍は有効な戦果を上げることができず、1187年には“聖地”に築いた「ラテン王国」も崩壊した。
イスラム世界との戦いに見切りを付けた第4回十字軍は、“ヴェネチア商人”の唆しと経済的後ろ盾を得て、なんとコンスタンチノープルを占領し、東方ラテン帝国(1204〜61年)までつくり、ビザンチン帝国の幕引き(1453年)を準備するという暴挙まで行った。
十字軍はビザンチン帝国からの支援要請を一つの建前としていたが、行ったことと言えば、ギリシャ語圏キリスト教徒を破滅させ、奴隷状態に陥れるだけだったのである。
そして、敗北に終わった『十字軍』は、東方世界をめちゃくちゃにし歴史的な亀裂を生み出しただけではなく、西欧世界そのものにも大きな打撃を与えた。
法皇は、十字軍のための資金調達という名目で、増税や免罪符の販売を行っていた。騎士階級はとりわけ貧困に陥り、キリスト教世界の精神的統一を生むどころか、芽生えかけていた国家間の対立を極度に悪化させた。
宗教騎士団は西欧に戻り、あらゆる種類の財政的軍事的権力の濫用を行うようになった。
しかし、『十字軍』の歴史過程で手に入れた文明は、その後の西欧世界に大きく貢献することになった。(航海術・代数学・化学・医学・ガラス製造・絹織物・毛織物・サトウキビ・綿・果物・緋色などが東方世界から西欧世界に持ち込まれた。現在の日本でも、アルコール・アルカリ・代数(アルジェブラ)と「アルカイダ」や「アルジャジーラ」でおなじみのアラブ語の定冠詞がつく言葉が西欧経由で定着している)
『十字軍』遠征で大きな利益を得た西欧世界は、ローマ法皇庁とヴェネチア商人だけだったと言えるだろう。ヴェネチアは、ビザンチン帝国という交易上の邪魔者が衰退・滅亡していくなかで東方貿易を独占的に行うようになり、「ヴェネチア共和国」として大いなる繁栄を誇るようになる。
西欧世界が近代の黎明と称賛している「ルネサンス」(14世紀〜16世紀)も、十字軍を通じて入手した科学・文化的資産をベースに、ヴェネチア共和国が東方世界との交易を通じて絶えず最新の情報を入手し続けたこと、ビザンチン帝国の滅亡過程で流入した“東方人”の存在に負いながら興り進んでいったものである。
(当時の東方世界は、知識を“知的所有権”などを盾に独占することなく、求める人々に開放していたのである。これは、かつての中国やインドも同じである)
しかし、『十字軍』が西欧世界にもたらした最大の影響は、技術や科学ではなく、十字軍に参加し帰国した人々の意識変化にあったと考えている。ほとんどの十字軍兵士は、聖地奪還という目的を果たすとすぐに帰国した。
(十字軍に参加した人々の意識の変化という重要なことがらが歴史書で語られていないのは、とてつもなく不思議なことである。技術や科学は、生きて活動している人が対象化(物にしたもの)でしかなく、ずっと重要なのは生きて活動している人々の精神である。この、物としては見えない意識の変化が、その後の西欧世界を大きく揺るがすことになる)
十字軍に参加した人々の意識変化が、『異端審問』から始まる『魔女狩り』という西欧世界内部での大虐殺妄動の引き金となるのである。
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