【世界は「大宗教戦争」のまっただ中にある】 『十字軍』と『魔女裁判』は今なお進行している現実のものである 〈その2〉 ー2
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■ 400年以上も西欧世界で吹き荒れた『魔女狩り』の本質 の続き
審問官からいったん目を付けられた人(密告も大々的に奨励されたので、政治的な思惑や隣人関係上の問題も絡んだであろう)は、身体的苦痛と精神的屈辱そして死から逃れることは不可能だった。
魔女だと自白しようが、魔女ではないと言い張っても(それだけ強情なのは魔女だからという理屈)、結果は同じだからである。
それならば、拷問や侮辱を受ける時間が短く苦痛も少なくて済む「自白」を選ぶのは、賢明な人であれば当然の結論であろう。
しかも、「自白」した人は、生きながらの焚刑(30分から1時間は生き続けたという)ではなく、絞殺した後での焚刑という“慈悲”が与えられたという。
“魔女”は、生きているより、殺されるほうが幸せだと思わざるを得ない状況に身を置かれたのである。
スターリンの粛清裁判でも、革命への反逆の嫌疑をかけられた人の多くが、身に覚えがない「自白」を行って刑場の露となっていった。
戦後の日本でも、やってもいない犯罪を認め、その結果死刑になったものもいる。「異端審問」に較べれば、ずっと“正義”が認められる可能性が高いというのにである。
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【世界は「大宗教戦争」のまっただ中にある】 『十字軍』と『魔女裁判』は今なお進行している現実のものである 〈その2〉 投稿者 あっしら 日時 2002 年 2 月 07 日 20:23:10:
『魔女狩り』が“悪魔崇拝者”のとんでもない“戯れ”であったことは、「悪魔に魂を売ることで、現世の快楽を悪魔に保証されたのであれば、その人物が魔女狩りに遭遇するわけがない。それに終止符を打てるのは契約に基づく悪魔の行為だけである。そうでなければ、悪魔は契約違反を犯したというだけでは済まず無力な存在と認識されてその後の布教活動を受け入れられなくなる」
という論理で済むだろう。
いやそんなことはない、優秀なカソリックの聖職者(神学者)が立ち向かったから、悪魔は対抗できなかったのだと主張するのなら、拷問や恥辱による「自白」がなぜ必要だったのかと言いたい。
異端審問官は、異端者や魔女と言われる人と論争しても勝てないことが多く、そのために、異端者=魔女への拷問や恥辱がよりエスカレートしていくことになったのである。
また、聖性が高い審問官なら悪魔に勝てるとしても、看守や拷問担当者などはたかが知れているのだから、悪魔は収容施設で魔女を救出し、箒でしかるべき場所に飛んで行かせただろう。
(こんなバカな“論証”を書くのはツライ)
『ローマ法皇庁』は、信仰や神学の分野では“魔女”=信仰者に勝てないが故に、物理的な拷問や性的な恥辱で追い詰めていくしかなかったのである。
さらに言えば、当初は悪魔に魂を売る人がいたとしても、あのような「魔女狩り」の嵐が吹き荒れ続けた状況で、400年間も悪魔に魂を売る人が絶えなかったというのは大笑いである。
「魔女狩り」が西欧全土で数年間吹き荒れただけで、悪魔に魂を売る人は激減したはずである。
キリスト信仰者ではなく快楽や悪行を求めるものは、それが途絶えてしまう死も恐れる。
ある時点での死を約束するのにふさわしい快楽の量と質がなければ、悪魔と契約なんかしないだろう。
死後の世界がないと考えている人でも、地獄での永遠の苦しみが待ち受けていると考えている人ならなおさら。
せっかく悪魔に魂を売っても、有効期限が20年とかではなく1日か2日しかないないかも知れないと考えれば、悪魔に魂を売らずに得られる日常の快楽を選択するものである。
また、神が創造主であれば、サタンも被造物である。
大天使のときは美しく知性も高かった堕天使ルシファーも、神に逆らったが故に地上に落とされたという。
そうであるなら、神は、サタンが地上で人とともに生きることを求めたことになる。
ならば、人は、サタンとも魔女とも共生すべきである。
そして、魔女であるという存在性ではなく、刑罰を与えなければならないような“悪さ”をしたら信仰者に対してと同じように処罰するということでいい話である。
『魔女裁判』を教義的に正当だと主張するキリスト教宗派があるのならば、それは、神をも否定する傲慢不遜な考えに立つ不寛容な宗教組織だと断じざるを得ない。
(信仰者は、サタンと戦うことで信仰が強化されると主張するのなら、殺すのではなく信仰で戦うべきである。“汝、殺すことなかれ”である)
「異端審問」でとりわけ重視されたのが「色魔性」であったことも、“悪魔崇拝者”の本性をよく示したものである。
“悪魔崇拝者”自らが、悪行とされる乱交や男色そして小児性愛をこよなく愛していたからである。
(現在でも、カソリック司祭のこのような問題が表面化したりしている)
だからこそ、各地で、若くて美しいと見られていた娘が魔女狩りの第一の標的となった。
信仰と正義の名のもとで、罪を問われることなく公然とわいせつ行為にひたることができたのである。
身体に付けられた悪魔の印を見つけるためと称して、裸にするわ、性器付近の毛を剃るわの自制心を一切かなぐり捨てたご乱行を繰り返した。
魔女とされた人の尋問(拷問)状況の記述を読むと、まるでエログロ小説(「日本書紀」にも少しあるが)である。
“精神性”の欠片もないSM小説を読まされているようなものである。
(実を言うとSM小説は大好きである。ただし、ハード派のものでは嫌いで、故千草忠夫氏のものが好きである。千草氏のものは性的快楽の追及といえるもので、女性に救済さえ与えている。貞淑で美しい女性がSM的状況でとてつもない快楽を享受したとしても、それは、負債のカタからなどから始まり力ずくで縛られた上のことでやむえをなかったと、その女性自身が言い訳できる構図になっている。そして、その女性は、もうあんなことはいやだと思いながらも、半分強制的に半分期待しながらそのような性的関係を続け快楽を貪るというものである。あまり一般書店では販売されていないが、全著作集も出版されているので、興味がある方はぜひご一読を。こんな趣味だから、悪魔崇拝者の気持ちが分かるのかなあ)
『魔女狩り』は、17世紀末にその余波をアメリカに移して急速に終息したという。
9・11空爆テロのブッシュ政権や文明諸国の政府・メディアの言動に対して、違法・偽善・欺瞞・傲慢・尊大・暴虐・強欲などという言葉の非難を投げかけ続けてきたが、『魔女狩り』は、まさにその言葉をそのまま投げかけたい歴史的出来事だったのである。
『魔女狩り』という悪魔崇拝的悪行を長年にわたって繰り返してきた「ローマ法皇庁」が今なお存在し続けていることに愕然とせざるを得ない。
また、同じように『魔女狩り』を行った宗派が根底的な自己批判を行わないまま存続していることも同じ感慨を持たざるを得ない。
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