貧困を単に「収入の低さ」「モノのなさ」で捉えている方が居るかもしれません。
しかし、「貧困」を「モノや金がないこと」と捉え、それに基づき「モノや金を与える」ことは貧困問題の解決にならないばかりか、しばしばその努力を阻害します。
ここでは陥りやすい4つの誤りを示します。
1.「貧困」とは「モノや金がないこと」
2.「一人当りの国民所得」で計ること
3.「開発」を「経済開発」とすること
4.「モノや金」を送ることが「援助」であるとすること
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1.「貧困」とは「モノや金がないこと」とする誤り
もちろん収入が低いことや生活必需品がないことは「貧困」の要因である。しかし、それは「貧困」の一部でしかない。中村尚司は「
貧困とは自分ではどうしようもない外的な力によって、経済的に従属されている社会関係」であると述べている。元国連専門家のジョン・フリードマンは近著(「市民・政府・NGO」新評論)で貧困を「力」が剥奪された状態として、その力(パワー)として8つを上げている。それは、
@資金、
A社会ネットワーク、
B適正な情報、
C生存に費やす時間以外の余剰時間、
D労働と生計を立てるための手段、
E社会組織、
F知識と技能、
G防衛可能な生活空間、である。
このフリードマンの貧困モデルは、貧困がお金だけでなく社会組織から切り離された「孤独・孤立」や教育レベルの低さ、に起因するという私たちの常識にも適ったものである。また、空間や時間がないことを「貧困」の要因としていることは、お金がある日本人が今一つ充足感を感じていないことを説明するものである。
2.「一人当りの国民所得」で計ることの誤り
日本のように国民全体の貧富の格差が「比較的」小さい国では「一人当りの国民所得」という指標が意味をもつかもしれない。しかし、例えばフィリピンのように、お金持ちは何台もの車を持ち何人ものメードを雇い、そのすぐ隣のスラムで子どもが生計を助けるためにゴミの中から金目のものをあさっている、といった国で、平均した所得がどれほどの意味をもつであろうか。
国民所得はいわゆるGNP神話に基づく概念である。GNPは「市場」に出た商品やサービスを合計したものである。自給自足の経済や、物々交換についてはGNPは「0」となる。しかも途上国ではその比率は高いのである。ましてや、GNPは文化的価値や社会関係を図るものではない。途上国を訪問した人々がしばしば、人間関係のやさしさや文化的な豊かさを感じて、日本が失ったものを発見するのはそのためである。
3.「開発」を「経済開発」とすることの誤り
貧困は経済的な要因のみではなく、社会的要因が大きいことが理解できたならば、経済開発が貧困を解決しないことは容易に理解できよう。コペンハーゲンで開催されたのは「経済開発サミット」ではなく「社会開発サミット」であった意味はここにある。
貧困とは外的な力によって自分の力が剥奪されている状態であるから、ここから脱出するには自らが努力してその剥奪された力を取り戻し、「自立」を目指さねばならない。すなわちフリードマンの貧困モデルにあるように、教育を受け、情報にアクセスし、生活空間を確保し、社会関係を回復し、収入を向上させていかねばならない。これらのことが可能となるような社会環境を作ることが「社会開発」である。
従って社会開発とは、人々がアクセスできる教育、福祉、医療機関を増やし、貧困な人々を支援する社会的ネットワークを作り、雇用と収入の機会を創造することである。狭い意味の経済開発は社会開発の概念に含まれることになる。
4.「モノや金」を送ることが「援助」であるとすることの誤り
「モノや金」は従って「貧困」の一部しか解決しない。一方的に与えられたモノや金はそれを使ってしまえばお終いである。援助は貧困な人々が「力」を回復することを側面から支援することでなければならない。これは援助というより「協力」と呼んだ方がふさわしい。
1960年代から70年代にかけての国際協力は「モノや金」を与えることが中心であり、それはことごとく失敗してきた。90年代の国際協力は上記のような考え方に立たねばならない。しかし、ODA(政府開発援助)のみならず、一部のNGO(民間国際協力団体)ですら、いまだに「モノ・金」を与えるという発想から脱却していないのは残念である。このような援助を続けると、途上国の人々の「自立」しようとする意欲する奪ってしまうのであ
参考:立教大学文学部教育学科 田中研究室 HP

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