興味深いレスありがとうございます。
このサイトを閲覧したり投稿をするようになったのは昨年10月中頃からです。
経済問題に集中的に投稿をしている実態から見るとウソのようですが、しばらくは、「戦争」ボードや「空耳」ボードに政治的宗教的投稿をするだけで、経済問題については、記事内容を批判するかたちでレスを書いたり、政策を揶揄する内容を書くという程度でした。
これは、いみじくも貴殿が書かれた「日本経済は地獄を見なければならない」という思いに基づく行為です。(「日本国民は地獄を見なければならない」というほうが気分をより的確に表していますが)
災厄に襲われ地獄を見るなかで、もがきながらそこから這い上がる術を自分たちの力で見出すべきだという考えです。そうなったときには、自分の経済論理や政策アイデアを打ち出そうとも思っておりました。(現状及び今後の「世界同時デフレ不況」は、「昭和恐慌」や「大恐慌」ほど酷い災厄にはならないという予測もその判断の支えにはありました)
そうでありながら経済問題に首を突っ込み始めたのは、歴史がそれこそ数百年に一度に大変革期に入りながら、それに対処する論理を見出せない人々が歴史を動かそうとしていることに危うさを感じたからです。
無宗派であり預言者でもないのですが、「近代の終わりが始まった」という歴史認識こそが現在において何よりも重要なものだと思っています。
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“経済政策”論議に首を突っ込むようになったわけ 投稿者 あっしら 日時 2002 年 8 月 02 日
米国や英国に存在する経済支配層の“知的執事”(有力シンクタンクのメンバー)たちは、私なぞとは比較もできないほど優れた思考力をもって現実を認識し、それをベースに最大利益が得られる政策を立案していると思っていました。
しかし、ことの成り行きや様々な理論を見ると、彼らは、目的を達成する手段の考察には長けていても、「近代経済システム」に通底している論理についてはきちんとした理解がないのではないかという不安に襲われました。(冗談っぽい話ですが、流布されている経済学とは異次元のきちんとした説明体系に依拠して考えていると推測していました)
保有通貨(資産)の極大化でも支配する資本の極大化でもいいのですが、それを合論理的に実現しようとするのなら、金持ちと貧乏人という構図はあるとしても、大きな災厄が生まれることはありません。
しかし、非合論理的政策が、他のどの国家も対抗できないパワーを持つ国家を後ろ盾に非合論理的政策を国際的に推し進められていけば、世界全体がとてつもない災厄に巻き込まれることになります。
これまでも繰り返し書いているように、経済的に最強の国民経済は日本だと考えています。これは、異なる立場や外から見れば、日本経済は絶好の標的であることを意味します。
極めて強い政治的問題ですからこれ以上は書きませんが、敗戦や挫折はあったとしても、国民の力で営々として築いてきた日本の存亡に関わる事態が進行しているという認識です。
言葉を置き換えると、このままずるずる進むと「第2の敗戦」を迎えることになるという認識です。
そのような認識を基に、個別テーマでの投稿を行ったり、【世界経済のゆくえ】や【世界経済を認識する基礎】という投稿を行ってきたわけです。
【世界経済を認識する基礎】で書いている経済事象に関する説明体系も、それを受け入れて欲しいというよりは、経済事象を認識する方法を読みとってもらいたいという気持ちのほうが強いものです。
「近代経済システム」は、人々の有機的連関的活動である経済事象が自然事象のように分析でき、それを基に説明体系をまとめることができるものです。だからこそ、経済活動の合理性と非合理性が問えるわけです。
しかし、経済事象は自然事象そのものではなくあくまでも生身の人々の経済的活動であることや国家が経済活動の大枠を規定していることの認識は不可欠だと考えています。
(この部分については、近々、【世界経済を認識する基礎】で「産業経済主体の論理と金融経済主体の論理」というタイトルで説明するつもりです)
そして、力を有する経済主体や国家であれば、経済論理に照らせば非合理なことであっても、ある期間なら無理に押しきっていけるということも重要なことです。
これからしばらくの期間は、「近代の終わりが始まった」という歴史認識を持っているのかいないのかはわかりませんが、経済的政治的に力を持った主体が、経済論理的に不合理な政策を押し進めていくと予測しています。
このような状況になって初めてこれまで禁じ手とされてきた様々な政策手段の発動が可能となります。
情報開示が足りないからだというご批判は甘んじて受けます。しかし、国家統治にはどうしても「知らしむべからず」という面が不可避的に出てくるものです。
民主的プロセスはかなりの部分犠牲になりますが、塗炭の苦しみを味わった国民の間ではコンセンサスが完全にできあがっているというわけです。一枚岩となった日本国民は強靭です。
リアルな政治もそれなりにわかっているつもりですから、大きな状況変化がなければ政策の変更もできないことは理解できます。
民主制を否定するものではありませんが、統治者と庶民は異なる存在で、庶民は、きちんと働けばあとはノーテンキに楽しく暮らしていける国家社会が好ましい姿だと思っています。(庶民が政治に敏感にならざるを得ない状況は好ましくないという表現だと受け止めていただくと幸いです)
私が統治者であっても、真実を全て伝えるわけではなく、全て伝わっているかのような気分だけもってもらって、ことを進めていくと思っています。
民主的プロセスを踏めば、数個の改革だけであっと言う間に10年は経過します。
嫌な比較ですが、軍事的有事状況に民主的プロセスを踏んで対応を決めるのかというのと同じ雰囲気でことは進んで行くでしょう。
「世界同時デフレ不況」が日本経済の現状を解決するのに役立たない経済価値観を弱めることで、政策変更の追い風になると予測します。
(実体はともかく米国経済が順調に見えるなかでの価値観や政策の変更は容易ではありません)
金融と産業の一体的不良債権債務処理に政府紙幣ではなく、国債増発を充てるべきだとのご議論がありました。私自身は政府紙幣で構わないと思います。広く国民に「相当に異常な事態だ」と言うことを認識して戴くには、従来の財政赤字累増ではなくインパクトも必要です。政府が日銀券と政府紙幣は等価であることを保証すればさしたる混乱はありません。同じ100円であり、1000円なのです。そもそも政府紙幣が信用されないような国の中央銀行券が信用されるということもあり得ません。政府も日銀も広い意味で日本国政府ですから。
国家の政策が通貨の価値を支えていることは認めますが、通貨の信認性も価値性も、根源的には、その国民経済の経済活動力に負っていると考えています。
ですから、法的に通用性が強制されたものであれば、異様であっても等価で両立できると考えています。
“政府紙幣”については、遊びで思考実験したものをのちほど投稿します。
有事の際に国を救ったのは官僚達だった、そう後世の歴史に書き記されることを信じています。
周辺の書き込みなのでお読みになったかも知れませんが、「勝者の蹉跌」の責任を最も強く負うべきなのは、国家政策立案の根幹に位置し、商業銀行も日銀も管理していた旧大蔵省だと考えています。
経済社会におけるバブルの責任は、商業銀行(貸し手)→中央銀行(貸し手)→債務者(借り手)という序列になります。
「第1の敗戦」の責任を明確にできず、「勝者の蹉跌」の責任も明確にできないまま現在に至っている国民が、「第2の敗戦」の責任を追及することはできないとは思っていますが、ある一定部分の人はそれをなんとか実現しようとするはずです。
国家として「第1の敗戦」の責任を明確にしてこなかったことが、日本の精神情況をおかしくしている最大の要因だと考えています。
「勝者の蹉跌」からずるずると「第2の敗戦」に突入してしまわないことを切に願っています。(「第2の敗戦」という言葉には国際性が含意されています)
愚かな政治家たちが国策の決定権限者であり、経済活動をしていながら経済論理が理解できない経営者が溢れているのなら、最大の被害が及ぶのは名も知れていない国民だとしても、世界的な経済災厄が早く訪れることで政策転換の機会が早く生まれることを良しとしなければならないのかもしれませんね。
ご回答ありがとうございました。 投稿者 匿名希望 日時 2002 年 8 月 03 日
貴殿には沈思黙考する統治者と同じ血が流れていますね。こう言っては失礼ですが、一介のソフトウエア会社社長の方にこのようなものの見方ができる人物が居た事に正直申し上げて驚いています。やはり日本は捨てたものではない。草莽の中に慧眼を具えた人物はまだまだいるのでしょう。我々から見ると、こうした事が分かったこともネット時代の恩恵のひとつです。
貴殿の仰った「庶民が政治に関心を持ち、敏感になることは不幸な時代の証拠である」という問題認識は私も長年持ち続けています。何も考えずひたすらに経済成長だけを追えた高度成長期が最も幸せだった、と考える国民が多いのもこのためです。
この考えをはっきりと書物で言明した学者は私の知る限り舛添要一氏だけですが、実際に話をしてみると日本の大半の政治学者はこのように考えています。政治家や官僚になるともっとこの傾向は強まります。
私は欧米的な意味での民衆の成熟とか、民主主義の洗練を日本社会に求めるのは間違っているし、たとえそれに沿った試みをしてもうまく行かないと考えるものです。中江兆民のルソー流思想の輸入に始まり、最近のNPOの動向に至るまで、悪く言えば全て借り物です。外見は欧米と同じでも本当の意味でのデモクラシーはこの国には根付かないでしょう。それが悪いのではありません。日本はそのお国柄に相応しい幸せの追求のしかたと言うものがあるのです。
また書き込みします。貴殿の連載のバックナンバーも読んでみる事にします。