>あっしら氏の主張する「処方箋は、国家の政策で余剰通貨を資本化すること以外にないのである。」という点については、全面的に賛同する。歴史的な視野に立ち概観しつつも、歴史のアナロジーにとらわれる榊原氏をあっしら氏がある面で凌駕していることも認めて良い。19世紀末と現代の違いを明確にした点など、鮮やかな指摘である。しかし、あっしら氏の立論にも難点があることは否めない(私のあっしら理論の咀嚼不足から来る誤解かも知れぬが)。
どうしても自分の“慣性”的視点に陥ってしまうので、立論上の難点を思いつくままでけっこうですので、下記以外にも、時間があるときにさらにご指摘ください。
>まず、あっしら氏はセイの法則に基づき、供給が需要を生む(供給=需要)という考えを提示する。従って、余剰通貨が資本化され、供給(力)になれば需要は生まれると考えておられる(ように見える)。しかし、言うまでもなくセイの法則には価格メカニズムの暴力的調整機能がその基盤にあることを見落とせない(つまり、供給されたものが売れなければ、売れるまで無限に値段が下がって行くというもの)。
セイの法則は、共通の了解になるということで持ちだしたもので、セイに依拠しているわけではありません。
持論の供給拡大は、財の物理的供給拡大ではなく、賃金の上昇というかたちでの通貨的供給拡大であることをご理解いただければ思います。
歴史的に先の話ですが、財の価格がじりじり下がっていく状況が悪いものではないというコンセンサスも得られると思っています。
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>次にあっしら氏の言う「労働価値」は労働生産性と概念的に近似のものと思われるが、この概念のみで国際競争力についての説明を行うのは厳しい。卑近な例で言えば、ドイツ車や日本車が米国市場において米国車と同じ値段で売られると前者が圧倒的に売れるのだ。つまり、「生産効率」に還元されない競争力があるということだ。
それゆえ、為替レートを人為的に動かしても収支不均衡はおいそれとは縮小しないということでもある。
最終消費財にとりわけ顕著ですが、ブランド(イメージ)が持つ競争力や価格支配力を否定しません。
(経済主体や人々が必ずしも合理的な経済活動を採るものではないというより根底的な問題もあります)
しかし、経済状況の影響も受けますが、60年代・70年代の米国における日本車の販売増加を顧みてもわかるように、非合理性を乗り越えて“勝てる”価格差というのがあります。
日本は、中級・上級クラスの製品を普及ないし中級価格で供給できるところに強みがあり、その力で現在の経済水準を達成したと考えています。
同等品質のドイツ車が2万ドルで販売されているのなら、日本のメーカーは、1万8千ドルで販売できるよう「労働価値」を上昇させなければならず(賃下げではなくという意味)、それが出来る活動力を持っていると判断しています。
(ドイツよりも労働条件が悪いのですから...)
家電製品では、ドイツ車と日本車の関係が、日本製と中国その他製品との関係で生じていると思っています。
ソニー製品が、他の日本製品に較べて2割高は通用しても、それを超えると通用しないというのと類似的な話です。
このような意味で、根源的には、財の価格を規定する「労働価値」が国際競争力及び国民経済内の競争力を規定すると考えています。
また、だからこそ、「デフレ不況」の長期化が、中国企業の中国製品に日本市場参入の機会を与えると思っています。
(最初は、現在のように提携日本メーカーの管理下で行われ、次には、売れるものを求める商業資本の輸入販売...という流れで...)
>そして、あっしら氏によれば、貿易黒字は増加基調を維持すべし、主要民間企業は賃上げを行い、海外への生産移転を自粛せよ、ということになる。勿論、そうなってもらえれば万々歳だが、そう唱えているだけで実現するほど現実は甘くあるまい。
貿易黒字は、増加基調を求めていません。それは、日本の孤立化を招く恐れさえあります。
当面(「デフレ不況」解消まで)は、最低でも5兆円ほどの黒字基調を維持すべきだと考えています。
海外への生産移転も、日本向けではなく外国向けであれば、貿易収支とのにらみで進めるべきだと考えています。
(仕向地ごとにまずはアセンブリ拠点を移していくのが望ましい)
出来るだけ理を尽くして、理解をいただければと思っています。
>こういうグランド・デザインを描く時には、今の延長線上で物事を考えてはうまく行かないと個人的には考えている。そこへ至るプロセスは後から考えるとして、将来の理想的かつ持続可能な経済像を予見しうる与件を基にして組みたててしまった方が良い。
その通りだと考えています。
「定常状態」をどう迎えるかという問題です。
>ごく簡単に言うと、既に日本人はGDPを拡大再生産してゆく金の使い方をできない(知らない)国民になってしまったということだ。だが、金を使わないと経済は直ちに縮小過程に入る。では誰が金を使うのか。政府である。ただ、これまでの歯止め無しの赤字垂流しとはワケが違う。然るべき増税により、消費意欲を全体として大きく減退させることなく、国が吸い上げ、国民に成り代って使ってやるのだ。公共目的に適う金の使い方は実は無限にある。
元々、日本人は“勤勉貯蓄”型です。
だからこそ、高度成長期に必要な設備投資がスムーズに出来たわけです。
80年代後半は、ある意味で“異常現象”です。
貯蓄をしなくても(貯蓄が出来ないでも可)死ぬまで安心して生活できるシステムをつくれば、財に対してだけではなく広範囲にお金(可処分所得)を使うようになるでしょう。
誰に増税するかは重要な問題ですが、政府が主導しなければならないことが多いと思っています。
死ぬまで安心して生活できるシステムをつくることに税金を投入してください。
(身体が動く人はなにかをしなければならないという対価が必要でもかまいません)
>ただ、現状とそのような理想像には大きな段差があり、「血を見ながら」そこに至ることになる可能性が極めて高い、ということだ。
価値観や経済理論の根底的な変化が必要ですから、そうなる可能性が高いと思っています。(理を尽くして理解してもらえるほど甘いものだとは思っていません)
私ごときがいくら声高に叫んでも理解は得られないでしょうからね。
7/1/14
8/10/21

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