>貴殿の言われる「利潤なき経済社会」と言うのは何となくイメージすることはできますが、誤解の余地なく明確に把握し議論するためには、例えば次のような点をクリアに伝えるべきかも知れません。
>1.利潤の定義(通常は総収入−総支出。貴殿は違う意味で使っておられる。経常黒字との関連も指摘しておられるが、経常黒字は「通常の意味での」利潤とは直接結び付かない。例えば利潤を生まない輸出もありうる。)
>2.利潤が得られなくなる理由(今、ないし通常なら得られている、という含意。今と何が変わるのか。)
まず、「利潤なき経済社会」という表現のなかで使っている利潤は、再資本化されない利潤を意味しており、間接的であれ再生産に向けて投じられる利潤は、利潤ではなく資本化原資の拡大と捉えている。
(不況期は利潤として保有され、好況期になれば資本化されるというタイムラグ性ならこれまでもあった)
また、「利潤なき経済社会」でも、個別経済主体の利潤獲得可能性は認めており、それに対立する国民経済としての利潤非存在を問題視している。
「利潤なき経済社会」は、「匿名希望」氏の“総収入−総支出”を援用するならば、国民経済が“総収入=総支出”になるということである。
(総支出=総収入が的確な表現)
以前からセイの法則を持ち出しているが、「供給が需要を生み出す」という考えに基づけば、「供給がそのまま需要となる経済状況」であり、(供給=総支出)=(需要=総収入)となる均衡状態である。
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「利潤なき経済社会」とは − 「匿名希望」氏の問いに答える − 〈その2〉 投稿者 あっしら 日時 2002 年 9 月 05 日
この均衡状態で前述した意味の利潤が発生すれば、国民経済は縮小することになる。
国民経済内に“余剰通貨”が存在しない(もしくはそのまま放置される)とすれば、個別経済主体レベルではなく国民経済が(供給=総支出)<(需要=総収入)という条件を満たすのは、唯一、貿易収支が黒字のときだけであるから、国際取引(貿易)の黒字は重要である。
具体的な説明としては、通貨ベースで(供給=総支出)=(需要=総収入)であるのに、貿易黒字が財ベースの国内供給<総供給を生みだすことで、通貨ベースの(供給=総支出)<(需要=総収入)が実現されることになる。
これであれば、財ベースの供給−国内供給が通貨ベースの供給<需要のかたちで利潤となり、国内収入=国内需要=供給=総支出が輸出分を含む再生産のための資本化必要額になるので、獲得した利潤をどう使おうと国民経済が縮小することはない。
別の表現を使えば、供給成果財の一部を国民経済の外に出すことで財1単位の価格が高くなり、それにより国内需要で供給=総支出に見合う通貨が回収でき、外部国民経済から支払われる通貨的“富”を国民経済的利潤として獲得することができる。
究極的に国民経済的利潤が存在しなくなる理由は、偏に、貿易収支の黒字がなくなることであるが、そこまで行き着かなくとも、近代経済論理から生じる“余剰通貨”(利潤の非資本化)問題で国民経済的利潤が存在しなくなる。
(供給=総支出)=<(需要=(国内収入+貿易黒字))もありえるから、貿易収支が黒字であっても、必ずしも国民経済的利潤が獲得できるわけではない。
このような経済状況は、供給力>供給になり、(供給=国内需要)+貿易黒字=<(総支出=非十全供給力)になることでも発生する。
供給力=供給であっても、投資されない貯蓄の増加や金融取引に滞留する通貨の増加により生じる供給>需要のギャップが、貿易黒字より大きければ同じであり、供給力>供給に陥る。
国民経済がデフレになるのは、国内需要+貿易黒字<(総支出=非十全供給力)に陥ったときであり、供給力過剰をベースに、供給>需要もしくは(かつ)貿易黒字不足に陥ったときと言える。
(供給=国内需要)+貿易黒字=<(総支出=非十全供給力)という国民経済に利潤が存在しない状態で個別経済主体が利潤を獲得するとすれば、別の個別経済主体が、(供給=総支出)>(需要=総収入)になることを意味する。
(供給と需要のズレによる“通貨の移転”である)
これが、現在的経済価値観に基づいて追求されれば災厄になるが、最初に書いたように、利潤獲得者が何らかの方法で再資本化すれば利潤ではなくなるのだから、需要動向に対応した産業構造の変動力として作用することになる。
国民経済が経済成長を遂げる唯一の方法は、就業者人口が一定だとすれば、「労働価値」の上昇のみである。
そして、「労働価値」上昇=経済成長が近代経済論理(“資本の論理”)に適合するかたちでスムーズに持続できるのは、「労働価値」の上昇に連れて貿易収支の黒字が増加する場合のみである。
貿易黒字の増加がなければ、「労働価値」の上昇は、同一量の財を生産(供給)するために必要な労働力の減少を意味するので、デフレ要因(財供給量>需要=供給)及び失業者増加要因(デフレ要因の供給サイドへのリアクション)となり、デフレスパイラルに陥る。
ベースに供給力>供給>需要という構造があるから、デフレスパイラルは、供給力>供給のデフレギャップ部分をより拡大するため、経済主体の破綻=不良債権の増加を招くことになる。
このような経済状況を解消する方法は、「労働価値」の上昇に応じて財の供給量の増加につながらないかたちで供給を増加させて、財供給量=需要=供給を実現させるしかない。
端的には、給与の増大である。
(財の供給量減少による調整は、単にさらなる低レベルでの財供給量>需要=供給にシフトさせるだけである)
財政出動による需要の増加でも対応可能だが、赤字財政の拡大ができないのであれば、それは増税で行わなければならない。
その増税も、資産税というストック課税ではなく、(黒字)法人税の増税でなければ、持続的に対応することはできない。
(単発という割り切りで資産に課税することは容認できるが...)
(赤字)法人への課税強化は、破綻であれ自主的なものであれ供給力の削減には寄与するが、供給力と同時に供給=需要の削減と先行き不安感による需要削減をもたらすので、問題(デフレ不況)を解決しない。
需要サイドで解決を図るのであれば、政府が“国内で資本化しない”個別経済主体の利潤をできるだけ吸い上げる政策を採らなければ、デフレスパイラルから脱することはできない。
“国内で資本化しない”利潤を保有している個別経済主体は、政府に吸い上げられるか、自ら従業者の給与を上げるかしなければ、デフレスパイラルのなかで自らの経営基盤も劣化させていくことになる。
「利潤なき経済社会」は政策で好ましい経済条件を実現できるものであり、旧態依然とした経済価値観にしがみつくことで継続している現在の「デフレ不況」は、「利潤なき経済社会」とは比べることができないほど酷い経済状況である。
>貴殿は新たな経済社会になった後も、官僚統制(visible hand)は必要ないとされる。即ち、invisible handだけで経済運営は可能と考えておられる。これはとても楽観的な見方だと感じました。
>貴殿の問題提起される、「余剰通貨」が実体経済に還流して行かずそれが故にデフレ問題を起しているという指摘は大変重要です。この問題を全面的に官僚統制で乗り越えようとすると計画経済になります。そしてそれがうまく行かない事は歴史的に証明されています。私の考えでは、見える手と見えざる手の双方を相互補完的に機能させることが重要だと見ています。従って、政府の仕事としては、見えざる手が十分に機能するための環境整備(供給側の再構築の後押しや諸規制や法制面の見直し)、見える手の刷新(効率性を重視した公共部門の改革と新たな公共サービス・プログラムの提供)を併せて打ち出すことが重要と考えます。
「マクロとして利潤が得られないという経済条件のなかで、経済主体の経済的活動=財の生産と交換を活発に行いながら国民生活の充実を図っていけるようにするかが、私のグランド・デザインのテーマです。そして、そのような経済条件でも、官僚統制に依存するのではなく、市場=交換と競争を通じてそれらを実現する方法を構築すべきだと考えています」という主張へのレスだが、近代経済論理で利害対立的に動く経済主体を調整できるのは政府(=官僚)だけだと考えているので、「匿名希望」氏の考えと基本的に同じである。
(「官僚依存病」からの脱却を望んでいるだけである)
>戦後の復興期と成長期を経た日本経済は成熟を迎え、転換期にさしかかりました。バブルの生成と崩壊はこの問題をさらに深刻化、先鋭化させました。あらゆる政策にも関わらず日本経済を建て直す事はできず、ケインズは死に、マネタリズムは有効性を失い、減税も持続的な刺激となりえないことが明らかになりました。
ケインズ主義やマネタリズムの“死”には同意するが、高所得者減税が刺激となり得ないのは、レーガノミックス的サプライサイド政策の“死”を意味するとしても、低中所得者減税の有効性が死んだわけではない。
89年の消費税導入と98年の消費税率アップにより、標準家庭年収800万円以下の家計は、同一年収額でも可処分所得を減少させている。
>この上は過ちを繰り返して国家財政をさらに悪化させる方向ではなく、国家一丸となって再び活力のある仕組み作りに邁進すべきです。産業基盤がまだ磐石なうちに改革方向へ向かって漕ぎ出せば、万一デフレ・スパイラルが進行した場合でも徳政令的な手(政府紙幣など)が打てます(産業基盤さえ確保できていれば、ハイパーインフレにはなりません)。
ここ2、3年のうちに仕組み=構造を変えないと、徳政令がハイパーインフレを誘発しかねない経済条件に移行しかねいと思っている。
給与増大による供給増加=需要増加策ではなく、政府主導で「構造改革」をするとしても、給与増大に見合う優良企業からの増税(+資産税)を原資にしなければ、デフレ不況が進むだけであり、「構造改革」も達成できない。
政府紙幣は、ある意味で近代経済論理(とりわけ管理通貨制)を否定する政策なので、覚悟を秘めた“国家一丸”が必要になる。
(米国が経済的に行き詰まって先行的に実施すれば問題ない。そのときには、対米徳政令も実施すべきである)
>その一方で既に成熟化した日本経済で持続的成長を確保するに十分な個人消費の成長は望みがたく、国民経済全体における支出構造を変換させる必要があります。そのためには政府部門支出比率の増大(実際の提供サービスは必ずしも官営である必要はない)と増税が不可欠で、国民が老後死ぬまで不安を感じないシステムを政府が明示しなければなりません。
低中所得者の可処分所得の増大は、今なお、個人消費の成長に寄与するものである。
それは、量的拡大ではなく質的向上というかたちであり、住環境を重点にした公共投資と並行的に進めることで、日本経済のそこそこの持続的成長に貢献することができる。
政府部門支出比率の増大のためには増税(税増収)が不可欠だが、誰(何)をターゲットにするかで可否が決まる。政府税調的な増税策は、「デフレ不況」を悪化させるものであり、税収も減少することになる。
国民が死ぬまで安心して生活できる国家構造を造るためには、まず、「デフレ不況」から脱却しなければならないのである。
(政府紙幣は使わないとして...)
従来的経済価値観から抜け出し、経済論理をきちんと見直すという過程がなければ、日本人の“近代化”は成し遂げられず、わけもわからないままうまく乗り切ったで終わってしまうことになると考えている。
もちろん、そんなことよりも、現実に生きている人たちの生活のほうがずっと重要な問題だから、合理的な解決策ならばそれを否定するものではない。
(政府が箸の上げ下ろしまで指図しなければならない国民がはびこることになるが...)
7/1/10

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