君が代は天皇家の歌ではない の続編です。続けてお読みになることをお勧めします。
「君が代は天皇家の歌ではない」で紹介したが、古今和歌集では首句が「わがきみは」である。このことから、この歌は具体的な人物「わがきみ」対して詠われたものであることを示唆する。さらには「病状とみに悪化」「命、旦夕」の九州王朝君主への歌である可能性が高い。
『隋書』イ妥*国伝によれば多利思北孤は「阿輩の君」とよばれていたとある。この「阿輩の君」という呼称こそ、倭語の「わがきみ」に相当することは前記事で論証された。したがって、史料上「わがきみ」と呼ばれていたことが判明している唯一の倭王、多利思北孤こそ「君が代」の「君」の第一候補にふさわしい。
一方、法隆寺釈迦来三尊像光背銘に見える上宮法皇(多利思北孤)の記事にも、その晩年病に臥し、鬼前太后・王后・上宮法皇と立て続けに没したことが記されている。この状況から考えるに、おそらく“流り病”が倭国王家を襲ったのではあるまいか。「病状とみに悪化」「命、旦夕」といった状況にぴったりであることも、「君が代」の「君」にふさわしい。
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古田史学会報1999年10月11日 No.34
「君が代」の「君」は誰か」
−−倭国王子「利歌弥多弗利」考−− 古賀氏の論文から
善光寺文書の「命長の君」
このように、多利思北孤こそ「君が代」の「君」の第一候補であることに、わたしも異論はないのだが、もう一人の人物も“有力候補”と見なしたいのである。それは、多利思北孤の息子、利歌弥多弗利である。
会報十五号(一九九六年八月)の拙稿「法隆寺の中の九州年号−−聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎」において、『善光寺縁起集註』に見える聖徳太子からの手紙とされる文書に「命長七年丙子」という九州年号があることを紹介した。そして、命長七年(六四六)という年次などから考えて、この手紙は聖徳太子ではなく、九州王朝の高位の人物が善光寺如に宛てた手紙であるとした。その文章は次の通りだ。
御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
斑鳩厩戸勝鬘 上
この「命長」文書こそ、法興三二年(六二二)に没した多利思北孤の次代にあたる利歌弥多弗利のものと考えたのであるが、その内容は死期せまる利歌弥多弗利が、「我が済度を助けたまえ」という、いわば願文であり、ここにも「病状とみに悪化」「命、旦夕」のもう一人の倭王の姿を見るのである。おそらく、利歌弥多弗利は永く病に臥してしたのではあるまいか。なぜなら、「命長」という九州年号に、時の天子の病気平癒の願いが込められている、と見るのは考えすぎであろうか。
上塔(かみとう)の利
わたしの推測が当たっていれば、その願いや善光寺如来への「願文」もむなしく、病は治ることなく没したと思われる。と言うのも、九州年号「命長」はこの七年で終り、翌年「常色」と改元されているからだ。利歌弥多弗利崩御による改元ではあるまいか。
さらに、利歌弥多弗利という名前からも次のように推論できる。従来『隋書』イ妥*国伝に見える「名太子爲利歌弥多弗利」を、「太子名付けて利歌弥多弗利となす」と読まれてきたが、古田説によれば、「太子名付けて利となす。歌弥多弗の利なり」と読むのが妥当であるとされた。すなわち、多利思北孤の太子は「歌弥多弗(かみたふ:上塔)の利」と呼ばれていたとされ、「上塔」は地名であろうと考えられた。そして「かみとう」という字名が博多湾岸にあることを指摘されたのである。そうすると、「君が代」が詠われる、志賀島の志賀海神社の祭礼「やまほめ祭り」の台詞に見える「香椎から船で来られるわが君」と利歌弥多弗利(上塔の利)が、地理的にも一致するのである。この点も、「君が代」の君の候補として、利歌弥多弗利を有力候補の一人とすることを支持するのだ。もちろん、現段階では作業仮説の域を超えるものではないので、断定できない。今後の研究成果を待たなければならないであろう。
利歌弥多弗利の生没年
さて、最後に利歌弥多弗利の生没年について、更に論究してみたい。没年はすでに述べたように、善光寺文書の史料批判により命長七年(六四六)と一応推定されるが、生年を推定させる史料があるので紹介する。それは淡海三船(七二二〜七七五)の撰になる『唐大和上東征傳』(略して『東征傳』とも呼ばれる)である(宝亀十年、七七九年の成立とされる。『群書類従解題』による)。
有名な鑑眞和上の伝記であるが、鑑眞和上の発言として次の記事がある。
「大和上答曰。昔聞南嶽思禅師遷化之後。託生倭國王子。興隆佛法。濟度衆生。又聞日本國長屋王崇敬佛法。」(『群書類従』による)
天台宗の第二祖、南嶽思禅師が没後、倭国の王子に生まれかわり、仏法を盛んにしたいう伝承を昔聞いたことがある、と鑑眞和上とが述べている記事だ。詳しい解説と論証は別に発表する予定であるが、ここでの倭国とは九州王朝のことであり、長屋王の日本国と区別した表記であることを、荒金卓也氏が『九州古代史の謎』で指摘されている。卓見であろう。更に荒金氏は、後に聖徳太子のこととされて流布されたこの倭国王子は、九州王朝の多利思北孤のことであるとされた。
この南嶽思禅師の没年は陳の大建九年(五七七)であり、聖徳太子の生年は敏達三年(五七四)。南嶽思禅師が没した時すでに聖徳太子は四歳であり、生まれかわりとするには無理があるのだ。この矛盾については平安末期すでに気づかれていたようだ(扶桑略記)。そこで、倭国の王子を九州王朝の王子とした時、こうした矛盾が解決するのだが、荒金氏のように多利思北孤とした場合、年齢的にやや無理があるのではあるまいか(多利思北孤は享年四六歳で没したことになる)。その点、 利歌弥多弗利とした場合、生没年が五七七年から六四六年(命長七年)となり、その享年は七十歳となり、当時としては比較的長寿であろう。「君が代」の「君」として、病気回復と長寿を詠われるにふさわして年齢ではあるまいか。
この利歌弥多弗利説を支持する別の視点として、法興年号がある。いわゆる九州年号と並立して続くこの法興年号は、多利思北孤の出家を機に建元された年号と思われるが、多利思北孤の誕生を五七七年とすると、その建元は十五歳の時であり、即位は更に上って端政元年(五八九。先代の倭王玉垂命が端政元年に三瀦で没したことが『太宰管内志』に見える)と思われ、十三歳の時となる。これでは利歌弥多弗利は多利思北孤出家後の子供となりかねない。
その点、倭国王子を利歌弥多弗利とした場合、即位は仁王元年(六二三)、四七歳のときであり、没年とともに自然である。また、立太子を多利思北孤即位年(五八九)のこととすると、十三歳のときであり、その後多利思北孤没年までの三四年間を太子として在位したことになり、その間の活躍が、後に聖徳太子の事績として近畿天皇家側に盗用されたと考えても、納得できるところではあるまいか。

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