“あっしら”的経済概念の説明 その1後編から続きます。
■ 金の生産と「労働価値」
通貨というもっとも現実的な価値基準を考える前に、金を取り上げて、「労働価値」がどのようなものであるかを説明したい。
かつて貨幣として金が使用されたのは、非腐食性・分割容易性・細工容易性といった物理的特性と使用価値が低いという経済的特性によると考えている。
金は、工業用や宝飾・工芸用として利用されるが、工業用で使われるのは少量で、宝飾や工芸でも奢侈的に使われている。
金が1gで1300円ほどする理由は、希少性や需給バランスだけでは説明できない。
希少性というのは需要に対して供給が限定的であるということだが、大量の金が購入時の姿(地金)のままで保存されているのだから使用価値的な意味でたいした需要があるわけではないことがわかる。
(金が、米のように人の生存にとって不可欠な物であれば、金の価格は高騰するかも知れないが、供給できる量が限られているので、どのみち人類は滅びることになる。人類がいなくなれば、金の経済的な考察も不要である)
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【世界経済を認識する基礎】 “あっしら”的経済概念の説明:通貨・物価変動論など 〈その2〉 投稿者 あっしら 日時 2002 年 7 月 13 日
需給バランスによる価格の説明は、ある中心値からの乖離原因を説明することはできても、中心値そのものを説明することができない。
土中にある金鉱石と違ってゴールドバーや金貨は、天与の物ではなく、労働を通じて生産されるものである。
金の価格が金の生産で労働が転化する「労働価値」に見合わないものであれば、新たな産金は行われなくなる。
(現実には、鉱山の質や賃金水準で規定される生産性の違いで、見合う見合わないの基準は変わってくる)
金の価格が単位あたりに転化された「労働価値」をはるかに超えて高値で取引されるようになると、金生産経済主体は増産に励むが、蓄蔵されていた金も大量に売却されるようになり、使用価値の低さから買い手のエネルギーも低下するはずである。また、生産すれば儲かるといっても、自然条件で金の増産量は制限される。
金の生産で転化される「労働価値」は、一般の財以上にわかりやすいものである。
工業製品は、同じ使用価値といっても、デザイン・耐久性・ブランドなどの要因により価格がばらける。
しかし、財の使用価値が物理特性に丸ごと依存している金は、工業製品よりも「労働価値」論理がストレートに反映し、金の生産過程で転化した「労働価値」(抽象的な平均値)が明瞭になる。
鉱山の自然条件が同じでかつある量を生産するために同じ賃金水準の労働者が同数必要という条件であれば、「労働価値」が高い会社とは、工夫などを含む生産設備で優れているところである。
(「労働価値」が高いとは、金1gあたりに転化された「労働価値」が小さいということ)
金はその特性から価格が均一なので、輸送費などを除外すれば、同じ量の金を売って、人件費を除くコストを差し引いた値がいくらになるかで、「労働価値」の高低を知ることができる。
このようなことから、新産金の1g当たりの価格から(1gの生産で磨耗した生産設備価格+1gの生産で消費した原材料の価格)を差し引いた値を1g当たりの生産に投じられた労働力人数で割った値が、「労働価値」の通貨表現に極めて近いものである。
[金の生産をベースにした「労働価値」の算定式]
(1gの金価格−1gの生産で磨耗した生産設備価格−1gの生産で消費した原材料価格)/1gの生産に要した労働力量
この算定式は、1gの生産に要した生産設備価格・原材料価格・労働力量(人数)の値が小さくなればなるほど、「労働価値」が大きくなることを意味する。
生産設備価格と原材料価格が同じであれば、労働力量(人数)が少ないほど「労働価値」が大きくなる。
さらに、生産設備と原材料も労働成果財だから、全体の労働力量(人数)が少ないほど高い「労働価値」になるという論理である。
(「労働価値」は、財を生産するのに投じられた労働力量の大小であり、同じ使用価値を持つ財を同じ量生産するために要した“生”及び“過去”の労働力量が少ないほど、「労働価値」が高い)
金の価値を考察する上で厄介な問題は、その物理的な特性である。
腐食しないということは、消費されない限り、生産された金が“永久”に残り続けると言うことである。
(工業用や宝飾用に使われた金も取り出すことができる。取り出す経済的な意味があるのは、その使用価値を破壊しても取り出したほうが得をするものに使われていて、純粋な金のかたちで取り出すコストが新たに金を生産するコストより低い場合である)
近代史のなかで、金を生産する過程も1kgで100労働力必要だったものが80労働力で済むようになるという「労働価値」の上昇を実現したはずである。
(ここで言う労働力は“生”と“過去”の両方)
しかし、腐食しないという物理的特性と利用価値が低いという経済的特性から、1kgに150労働力が必要だった時点で生産された金と80労働力で生産された金が混在しているはずである。
溶解ができそれで物理的な特性は変わらないので、ある1kgバーのなかにさえ混在することができる。
この段階では、金の生産過程も近代化のなかで「労働価値」を高めているので、過去の金価格よりは、現在の金価格のほうがわずかながら下がっているということにとどめておく。
さらに、同じ金が何度も同じ価値を持つものとして取り引きされるという“異常性”も指摘できる。
通常の財であれば、取り引きされた後消費されてしまうか、中古車のように価値が大きく劣化したとされて安く取り引きされることになる。
(中古車も最終的には廃棄というかたちで消費されてしまう。どういうレベルの使用価値磨耗で廃棄されるかは歴史社会的及び個人的な判断によるが、最終的にはほとんどの財がその使用価値を失う。使用価値を失えば、全く別の財になることはあっても、元の財ではなくなる)
金は、経済的な意味でも“非腐食=非消費”という特性を持っていることになる。
これは、金が、株式(証券)や土地といった非労働成果財と同じ経済的意味を持っていることを意味する。
新産金は労働成果財だが、蓄蔵された金は非労働成果財と考えなければならない。
しかし、金を眺めても、どっちもしくはどの部分が労働成果財で非労働成果財かは識別できないという特性を持っている。
どぎつい表現を使うと、価値あるものと無価値のものが渾然一体で取り引きされているのが金である。
(蓄蔵金は、新産金が取り引きされたときに、既に労働価値が通貨によってあがなわれているものである)
この問題は、金貨制や金本位制でも言えることだが、金が通貨であった経済社会では経済論理としては矛盾しない。それは、通貨(同じ1万円札)が何度も繰り返し使われていることと同じである。
もう一つの問題は、金は現実(通貨管理制)の通貨ではないということである。
金は、かつて通貨ではあっても現実には通貨ではない。換金性が高いとはいえ、金は国際取引でも通貨としての機能を果たさなくなった。
支払い手段や決済手段としては、保有している金を売却して通貨に変えなければならない。
これらのことが、金の価格がロンドンのごく限られた人たちによって決められている背景や基礎だと考えている。
金は、価格が“管理”されていなければ、高騰はないとしても、暴落はあり得る商品なのである。
このことから、金の価格は、紙幣に対する信認性が維持されている限り低く(あるときは新産金の労働価値以下)管理され、紙幣に対する信認性が失われると、高めに管理されることになる。
(金の価格を上げたいのであれば、紙幣に対する信認性が薄らぐような経済状況をつくりだし、紙幣は危ないという世論操作を行えばいいということでもある)
新産金の増減で現在の「労働価値」がわかり、金価格で紙幣に対する信認度がわかるとも言える。
新産金の増減で現在の「労働価値」がわかると言う意味は、新産金のみが取り引きされている自由市場があれば、そこで決まる価格が財に転化された「労働価値」の基準となり、価格が「労働価値」未満に下がれば、採算が合わない鉱山が増えるので金の産出量が減少し、価格が「労働価値」を超えて上がれば、金の産出量が増大するという動きで、それが如実に反映されるということである。
■ 通貨
国家から法的に通用力を付与されたたんなる紙幣が通貨となっている管理通貨制は、通貨が、価値実体である「労働価値」を基礎に持っていない経済世界である。
そうでありながら、現実の経済取引は、そのような通貨を基準として判断され動いている。
前回説明した「財の価格」・「資本」・「労働価値」は、その値が通貨で表現されるものである。
財の価格は通貨で表現されるが、通貨自体は「労働価値」が転化されたものを全く持っていないのだから、財の価格はわかっても、財の「労働価値」はわからない。
日本円で1万円の価格で取り引きされる財は、他の財の価格との比較で相対的な「労働価値」の大小がわかるが、絶対的な「労働価値」はいくらなのかわからない。
外国の通貨との交換レートとりわけ米ドルとの交換レートも、「労働価値」が基礎にあるものとの比較ではないから、あくまでも相対的なものでしかない。
「労働価値」という価値実体を体現しているはずの金も、前述の内容に照らせば、確実なものとは言えない。
「労働価値」の実体があろうがなかろうが、使用価値がある労働成果財が通貨を媒介として手に入るのだからことさら問題があると考える必要はないと思われるかもしれない。
しかし、インフレ・デフレ・金利といった通貨にまつわる経済事象を考えるときには、大きな問題が発生する。
インフレは、財の価格が通貨表現で高くなる傾向のことであり、デフレは、財の価格が通貨表現で安くなる傾向のことである。
金本位制であれば、デフレ状況になれば、財の取引を控え通貨(金)を保有することで退避することができるが、管理通貨制では、そのような退避行動はできない。
貨幣自体が「労働価値」をなんら表していない物であるのに、その量的表現の変動を基に、高くなるとか安くなるといった表現が使えるのだろうかという疑念がまず湧く。
どぎつく言えば、元々価値実体がない紙幣で財が購入できること自体が驚異なのである。
それがまんざらウソではないと思わせるのがハイパーインフレである。
ロシアやラテンアメリカ諸国で見られたように、年に数百%ときには数千%というインフレになれば、紙幣の価値性がいかに危ういものであるかがわかる。
そして、冷静に考えれば、「金と「労働価値」」の項で書いたように、金が経済的にも“非腐食性”を持つ物であり、1回の「労働価値」転化行為で生産された金が“無限回”の労働成果財の購入に使えてしまう金貨制や金本位制の通貨も、実に驚異的な存在である。
それ自身には全く価値がない紙幣や減価することなく“無限回”に使える金貨を超越して、通貨には、隠された“価値”というか“効用”があると推測せざるを得ない。
吉本隆明氏(ばななさんの父親で新左翼に大きな影響を与えた)は、それを哲学的に「共同幻想」と呼んだが、経済論理の考察に哲学的な規定を持ち込んで終わりにすることはできないので、別の根拠を探っていきたい。
7/2/11
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