通貨・物価変動論など 前編から続きます。
■ 「労働価値」の表現形態としての通貨
財の価値実体は「労働価値」である。そして、財の価値を物理的に担保するものは使用価値である。
「労働価値」と「使用価値」が一体となったものでなければ、労働成果財にはならない。
自分が使用価値を認めても、他の誰もその使用価値を認めなければ、1万労働力を100日間使って造った物であっても売ることはできず、自分で使うしかない。
(これを「労働価値」の非実現と呼ぶ)
空気のように生存にとって根源的な物であっても、「労働価値」を含んでいない物は販売できない。
(環境悪化で暫時利用する良い空気は売り物になるが、それにはちゃんと「労働価値」が含まれている)
「労働価値」も通貨で表現されると書いたが、通貨以外では表現できないことは間違いないのだが、通貨そのものものが、金貨という無価値(無限に使われることでの労働価値的な意味で)に近いものであったり、管理通貨のように無価値であったりする。
価値の多寡を無価値の物で表現するというのは、まさに“倒錯行為”である。
物々交換→金貨(金属貨幣)制→金本位制→管理通貨制という流れは、「労働価値」を「労働価値」で表現する世界から、「労働価値」をより価値があやふやな物で表現するようになっていく“倒錯化”を深めていく歴史過程であったことを示唆している。
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現代がもっとも進化した歴史段階であるのなら、貝殻や石を通貨としたり、藩札を部分的であれ通貨として流通させていた経済社会は、ずっと前にその段階に到達していたことになる。
このような問題の説明をするとキリがないので、通貨は、経済主体間の関係が密になればなるほど、価値実体の必要性が希薄になっていく歴史過程を経てきたということでまとめる。
経済主体間の関係が密になるというのは、社会的分業が幅広くかつ強固に行われているということである。
これは、個人(経済主体)が生活(活動)を維持するために多くの他者(経済主体)を必要にする状況と言ってもいい。
他の人(経済主体)の労働成果財を手に入れることが日常の生活(活動)で不可欠になっている経済社会である。
機械メーカーは素材メーカーを必要とし、素材メーカーは原料メーカーを必要とし、消費財メーカーは、機械メーカーや材料メーカーを必要とすると共に消費者を必要とする。
これは、結局、機械メーカー・素材メーカー・材料メーカー・原料メーカーのどれもが、消費者を出口とする連鎖のなかに位置づけられていることを意味する。
ほとんど経済主体や個人がそのような連鎖に位置づけられていれば、否応なしに経済取引(「労働価値」の交換行為)を行わなければならない。
そのような経済取引の繰り返しを通じて、紙幣(通貨)で欲しい財が手に入り、財を売ることで欲しい他の財を手に入れるための紙幣(通貨)が手に入るという確証意識(幻想)が、管理通貨制を支えているのである。
そういう経済社会であれば、貨幣に価値実体は不要であり、「労働価値」の価格表示機能(「労働価値」の表現形態)だけを持っていればいいことになる。
価格表示機能をベースに、支払い手段と支払い手段蓄積性を維持しているのが管理通貨制の紙幣(通貨)である。
管理通貨制が成立する以前の歴史社会でそのようなことが実現できなかったのは、経済主体間の関係がそれほど密ではなかったか、単なる紙切れで財が手に入るという確証意識が持てなかったからである。
「近代経済システム」という枠内であれば、もっとも重要な点は、それ以前には金という通貨の退蔵手段があったことだと考えている。
(金による通貨の退蔵手段と預貯金とはまったく異なる経済行為である)
価格表示機能(労働価値の表現形態)でしかないからこそ、ハイパーインフレが起き、物価変動は貨幣現象であるとするマネタリズムの部分的有効性も認められるのである。
そして、通貨を退蔵する意味もなくなった。
退蔵とはタンス預金であり、銀行に預けることではない。
管理通貨制の通貨を退蔵していても、その“価値”が維持されることさえまずない。
(ここ数年の日本は別だが、0.1%でも預金金利が付くのだから、ペイオフさえなければ、預金のほうが有利である)
恐慌問題とも絡むことだが、通貨から退蔵手段が奪われたことは、画期的とも言える重大な経済的変化である。
まず、経済が発展しているという状況で、“インフレ”も“デフレ”も起きない条件を考える。
(インフレやデフレという概念は日常的なものになっているので、そのまま使わせてもらう)
経済が発展している状況とは、物質的に豊かになっていく社会をイメージしてもらえばいい。
但し、労働力の全てが労働成果財の生産と販売に従事し、同じ頻度(回転数)で通貨が財の購入に向けられ続けているというモデルである。
物価が変動しない条件は、労働力量(就業人口)が一定だとして、「労働価値」の上昇と同じペースで通貨発行量が増加していくことである。
「労働価値」が2倍になったのなら、通貨発行量も2倍になれば物価変動は起きない。
「労働価値」が2倍になれば、同じ労働力で生産される財の量が2倍になり、財1単位の価格は1/2になる。それを通貨発行量が2倍になることで打ち消すという論理である。
インフレは、労働力量が一定として、「労働価値」の上昇ペース以上に通貨発行量が増加していくことで起きる。
デフレは、労働力量が一定として、「労働価値」の上昇ペースほど通貨発行量が増加していかないことで起きる。
※ 近代経済システムでは、利潤の源泉である「労働価値」の上昇は常に追求されるので、「労働価値」が低下するという想定はしない。説明は上昇と同じようにできるが...
前回説明したことだが、高度成長期の日本のように工業分野の「労働価値」が急速に高まっていく状況のなかで、通貨発行量を増やしていかなければ、工業製品の価格が急速に下落していく。
鉄鋼や合成化学などの基礎生産財の「労働価値」が上昇し、機械装置などの生産財の「労働価値」が上昇し、家電製品など耐久消費財の「労働価値」が上昇するという産業連関な論理で推し進められる全体的な「労働価値」の上昇は、最終消費財の価格を大きく低下させる。
しかし、家電製品や電子機器などの一部を除くと、物価は数年前まで一貫して上昇し続けた。
(家電製品や電子機器の価格低下状況は、電子技術の進展が、驚異的な「労働価値」の上昇をもたらしていることを如実に示すものである)
遊び半分で日本経済の歴史をこのような論理の視点から見てみたい。
58年から70年の12年間で、日銀券発行高(8,910億円:5兆5,560億円と6.23倍)・消費者物価指数は1.8倍・就業者数は1.18倍になっている。
通貨発行量倍数÷物価変動倍数÷労働力増加倍数の計算をすると、2.93倍という値になる。
非労働成果財の取引を無視しているなど実に雑ぱくな見方だが、この計算から、「労働価値」が2.93倍になったとも言える。
通貨発行量が6.23倍も増えたのに消費者物価が1.8倍にしかならなかった原因は、「労働価値」が急速に上昇を遂げたからである。
通貨発行量が58年当時のままであれば、70年の物価は、1/3になっていたことになる。
また、同じ期間の勤労者家計の実収入は、36,663円から113,949円へと3.1倍になっている。
これは、先の計算結果で暫定的に採用した「労働価値」の上昇以上に増加していることを意味する。
実際にそうだったのか、非労働成果財に向けられた通貨量の割合が増え、労働成果財に向けられる通貨量の割合が減少したために消費者物価の上昇が抑えられたかであろう。
(景気状況による通貨の回転数の違いもある)
“資本の論理”から、「労働価値」の上昇以上に勤労者への配分が増えることは考えにくいので、58年から70年の12年間で、「労働価値」は、3.1倍を超える上昇を実現したと推測できる。
金融時代であるとともに大混乱時代でもあったのでさらに意味がない遊びだと思っているが、90年から00年の10年間で、日銀券発行高が1.59倍・消費者物価指数が1.08倍・就業者数が1.03倍になっている。
同じ計算をすると、「労働価値」は1.42倍になる。
同じ期間に勤労者家計の実収入は、1.08倍になっている。
高度成長期では、計算上の「労働価値」上昇よりも実収入のほうが伸びているが、“失われた10年”では、実収入の伸びが、計算上の「労働価値」上昇に追いついていない。
正真正銘の「デフレ不況」期間である98年から00年の2年間は、日銀券発行高が0.95倍・消費者物価指数が0.99倍・就業者数が0.99倍である。
同じ計算をすると、「労働価値」は0.97と下降したことになる。
先ほど、「近代経済システムでは、利潤の源泉である「労働価値」の上昇は常に追求されるので、「労働価値」が低下するという想定はしない」と説明したにも関わらず、計算上の「労働価値」は下降しているのである。
もしも、定理が誤りで「労働価値」が実際に下降しているのなら、物価が上昇して当然だし、それを通貨発行量を減らすことで抑制したと説明することもできる。
しかし、定理が正しいのであれば、「労働価値」が下降したかのように見えてしまう原因を見つけなければならない。
変数を通貨発行量変動と物価変動に絞ると、「労働価値」が上昇したと判断できる要因は、通貨発行量がより増えるか、物価がより下がるかである。
さらに絞り込むと、通貨発行量は物価に影響を与えるが、価値実体には関係がない表示機能としての変数だから物価になる。
経済論理的に考えられる要因は、労働慣行ないし経営者の価値観から生じた“過剰人員”の経済主体内の留保である。
生産し販売した財の量に関わる労働力量が、それまでよりも大きくなった可能性がある。
これは、「労働価値」を低下させることである。
生産し販売した財の量であれば、もっと少ない労働力量で済んだのに、労働慣行や経営者の価値観から放出を控えたことが、「労働価値」の上昇を“非実現”で終わらせてしまったということである。
この間に就業人口は減ったが、「労働価値」の上昇を実現するためには、もっと減らなければならなかったということになる。
この期間に勤労者家計の実収入は、0.95倍になっている。
97年から00年の3年間では、実収入は0.94倍になっている。
就業人口の減少と実収入の減少がダブルで進行し、そのような状況下で、経済主体が財を“高値”で販売したことが、あり得ない「労働価値」の低下現象をもたらした原因と推測することもできる。
例えば、98年から00年で、物価指数が0.95倍であれば、「労働価値」は1.01倍と上昇する。
もちろん、物価変動は0.99倍のままでも、通貨量が0.99倍であれば「労働価値」は上昇するが、通貨発行量は価格表示調整機能しか果たさないものなので、経済主体が論理を超えた“物価高”を志向したということになる。
このような論理は、経済主体の活動判断の基となる経済のダイナミズムを捨象した、「労働価値」・物価・通貨発行量という関数でのみ成立することなので、経済主体の“高値販売”を非難しているわけではない。
(できるだけ高値で売りたいものだし、インフレは経済活動の糧である)
経済主体がそうせざるを得ない経済状況をもたらした当局の責任に帰するものである。
「労働価値」の上昇を現実化できない雇用情勢にあったことか、「労働価値」の上昇に反して通貨の量が減少していったことが、「デフレ不況」の原因になる。
そして、そのような事態に陥った要因を探り出すことが、「デフレ不況」から脱却するための政策を考える上ので重要な前提となる。
次回は、今回の論理を踏まえて、「外国為替レート」の問題を取り扱いたい。
7/2/11

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