>ただ私は宗教には否定的で、宗教の根底にはどこか人を支配しょうとする意図がかんじられます。
民主主義であれ、共産主義であれ、価値観や世界観というものは、個−類という関係(共同体)の安寧を意図してまとめられたものです。
個人の“わがまま”を規制するものと考えたほうがいいかもしれませんね。
もちろん、個人の“わがまま”を通すためにまとめられた価値観や世界観もあります。
それを「支配の意図」と考えられるなら、宗教を含む現存のほとんどの価値観や世界観が相当すると思っています。
>私の理想は古代日本人の様に宗教とは無縁の世界、生活そのものが天地の理にのっとつた自然なものです。
古代日本人も、上述の意味で宗教を持っていました。
共同体が天地の理にのっとった自然な生活をするためでも、宗教(価値観や世界観)が必要です。
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宗教に限らず価値観や世界観は人を“支配する”ためのもの − 個人の“わがまま”を規制するもの −投稿者 あっしら 日時 2003 年 2 月 22 日
>しかし今日のような複雑な状況では本来誰でもが備わっている純粋な霊性或いは魂が輝くのはままならぬようです。
目に見える物のみに固執する限定された世界観が人としての無限の存在から小さな個に閉じこめられてる状態にいることに気がつくのが第一歩だと考えてます。
抽象的な概念で体系化された価値観や世界観が、それが生身の人が感じ考えることの妥当性を押し殺していると思っています。
複雑な状況は外的世界ではなく、思念的世界だと思っています。
このような意味で、現在浸透している世界観が「目に見える物のみに固執する限定された世界観」とは考えていません。
生存基盤の保有という根源的条件さえ多数が失ったなかで、感受性と思考力が豊かな生身の人間が、空虚な言葉で織り成された価値観に翻弄されていると思っています。
一神教には“危険性”を抱いています投稿者 あっしら 日時 2003 年 2 月 22 日
>宗教の考え方が私と異なるようですね あっしらさんはそれを必要悪いや悪とは考えていないようですね。
私のゆう宗教は一神教はゆる人造宗教です、日本の古来のものは宗教のジャンルにははいらないのでは、通常それは精霊信仰、原始信仰と宗教の前駆的な信仰と結論ずけられてますが。
宗教というより、価値体系や自己を含む世界観というくくりで考えています。
その意味で、「精霊信仰、原始信仰と宗教の前駆的な信仰」も加えています。
一神教(超越神信仰)には“危険性”を抱いています。
とりわけ、人が全知全能の神に近い存在であるという捉え方に危険性を感じています。
一神教のなかでは、共同体性維持と自然との融和という面でイスラムがもっともまっとうだと受け止めています。
>しかしこの宗教とゆう名の元にかの狂気による破壊、殺戮が許されるものでもないです。
その通りです。
人は類的存在として、その無意味性を長い歴史をかけて体得し論理化したはずです。
>そこですかさず、いやそれは宗教が単に悪用されたまでだと反論がきそうですね。
ユダヤ教やカソリックキリスト教は、はじめから支配の手段としてつくられた宗教だと思っています。
それぞれが、既存の別の宗教を援用したという面では悪用とも言えますが...
>それから あっしらさんは人は性善ではなく性悪説ととらえているみたいですねこれも私とは逆ですね、ひとはただくもり、くもらされてる存在だと思っています。
性善とも性悪とも考えていません。
“わがまま”は性悪という意味ではありません。
人は、“性わがまま”で、それを現実の関係的活動と概念的思考力により、類的存在の欲求に補正していく存在だと考えています。
>それから目に見えない世界、科学に認定されない考え方を抽象論と称せられましたが、私はその世界こそ確実でたしかな本質だと考えてます。まあ量子力学の出現でその境界も大分あやふやになりましたけどもね。
「目に見えない世界、科学に認定されない考え方を抽象論」としたわけではありません。
目に見える世界までも抽象的な説明体系で覆い、それに反したりそれと異なる感じ方や捉え方を抑え込んでいるのが、現在浸透している価値観や世界観だと考えています。
科学もその意味では同じです。科学は、ある世界観に基づく説明体系でしかありません。(別に有用性や有効性を否定しているわけではありません)
「私はその世界こそ確実でたしかな本質だと考えてます」をもっと敷衍していただければ幸いです。
私は、現在において内的基盤としている価値観及び世界観と感性で受け止める世界のみが確かなものと考えています。
内的基盤や感性は移ろうものなので、確かだと受け止める世界も移ろいます。
現実世界が在ることの客観(外在)性とその在り様の主体性投稿者 あっしら 日時 2003 年 2 月 23 日
宗教と政治的理念は質的にはまったく同じものですから、いわゆる宗教のみを支配の道具として考えているわけでありません。
(西欧近代政治理念はユダヤ教・キリスト教理念の影響を強く受けているので、政治的部分が分化し変容したと言うこともできますが)
宗教を支配の道具という側面で考えるとき、ユダヤ教・カソリックキリスト教とイスラムは大きく異なると考えています。
その判断基準は、祭祀階級の有り無しです。
ユダヤ教は、古代イスラエルの壊滅で神殿を失うとともに祭祀階級も消え、シナゴーグと宗教指導者(ラビ)を中心とした信仰形態になりました。この形態は、イスラムに近いものですし、イングランド国教会を除くプロテスタント諸派も同様です。
紀元前150年頃の義人(イエス・キリスト)を中心とした信仰者生活集団の教義を剽窃してつくられ、ローマ帝国の国教にまでなった教団キリスト教は、祭祀階級と被支配信徒という初期ユダヤ教の信仰形態を持ち込みました。
福音書に旧約聖書を支えにすることで、衣を変えた古代ユダヤ教的支配構造をローマ世界に確立したと言えます。
>現実世界は複雑で見えない世界が(3次元でも)広大にあり人間の科学技術全般が解明できないのが現状であり、人間のかってな思惟が現実を複雑にしているのではない。
「人間のかってな思惟が現実を複雑にしているのではない」には同意しますが、その前提的説明には同意できません。
(かってな思惟は、論証や論理体系を破綻させたり、目的的活動を失敗に帰させるものです)
存在(現実世界)と認識の関係については簡単に次のように考えています。
現実世界が在ることの客観性(外在性)は、そう感じ理性的判断としても了解できるが、現実世界がどのようなものであるかという在り様は、主体的認識活動を通じて概念的に説明されるものでしかない。
それ故、現実世界がそれ自体として、複雑だとか単純だかというものではありません。
現実世界は外的世界としてただ在るだけです。
(現実世界そのものに意味や仕組みがあるわけではないということです)
認識主体(個人というわけでない)と対象世界との関係的認識過程が、現実世界に意味を与え、現実世界に仕組みをもたらすのです。(物理的な意味ではありません)
そして、現実世界の規定性を考慮しながら生存活動を営まなければならない我々は、自らが対象世界に与えた意味や仕組みをうまく利用しながら、対象世界に物理的に働きかけて目的を達成してきたのです。
法則は外的には存在しません。在るのは連関的運動です。投稿者 あっしら 日時 2003 年 2 月 23 日
>物質世界・宇宙は人間の相対的認識いわゆる主体とは無関係に、ある一定の法則に基ずいて運動しています。
人間の相対的認識とは無関係ですが、主体的関わりなしでも相互連関的に運動していると考えています。
(人が物理的に働きかけることで、連関的運動に関わることになります)
そのような連関的運動を対象的認識で捉えて整理したものが“法則”です。
現在の“法則”で説明できる対象世界の運動が、超歴史的で普遍的なものかどうかは不明です。
このような意味で、「ある一定の法則に基づいて」という捉え方はしません。
>人類が知りえたことはわずかです。だから戦争が絶えなく貧困と病気が地球からなくならない。
人類が知りえることはどこまでいってもわずかですし、人類が対象世界の連関的運動に関われることもたかが知れていると思っています。
しかし、病気はともかく、戦争が絶えなく貧困がなくならないことは次元が異なる話です。
戦争と貧困は、大げさな話ではなく、支配−被支配の構造が基礎的要因です。
科学技術の発展問題が根本要因ではありません − 経済システムにとって過剰な生産力の存在がそれを物語っています −投稿者 あっしら 日時 2003 年 2 月 24 日
科学技術や共同体(社会)統治がある価値観に基礎とした人たちに独占され、その価値観の現実化が追求されている状況が、戦争や貧困の根本要因です。
科学技術の発展が貧困を解消するために不足しているということはありません。
近代経済システムは、恒常的と言ってもいいほど過剰な生産力(供給力)に悩んできました。
貧困を衣食住がままならないという状態だとすれば、過剰な生産力のために、失業者があふれ、稼働率が低下し収益が悪化している状態と矛盾するものです。
衣食住を最低限満たすというレベルの生産活動は、日本で言えば、GDPの10%ほどです。
soleilさんも指摘されていますが、いわゆる科学技術の発展と経済社会の在り様が齟齬をきたしているということです。
端的には、現在の経済社会システム及び国家価値観を基礎に科学技術が発展すれば、先進国もより貧困が拡大することになります。
>@宗教の役割について〜支配の道具にもなるし救済(但し限定的)の役割もあること。
宗教の役割と言うより、諸個人の関係的活動が主体(共同体や国家)であるならば、共有される価値観世界観体系は作り上げられるものです。
それが、支配の道具なのか救済の役割を果たすものなのかは別として...
>A現実世界は現代の人間の科学技術をはるかにこえた未知の世界があることをみとめること。
現実世界の認識問題は、現代の水準や発展度合いの問題云々ではありません。
古代の科学技術水準でも目的的活動を達成できる限り“真理”であり、それから離れた“真理”は、知識量・対象的活動力が増大すると思われる将来においてもありません。
宇宙や物質そして生命という存在に関する科学的説明体系は、そういう概念表現も有効だというものでしかなく、存在の“真理”を明らかにしたものではありません。
存在自体を直接に知ることもできず、同時的対象認識も限定的な主体が組み上げた論理体系は、いわゆる“真理”とは無縁です。

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