● 「過渡期」初期の世界経済
現在の世界は、「紙切れ通貨」が国内取引でも国際取引でも通用する「戦後第二世代世界」に変化していながら、実態的にも価値観(信仰)的にも、「戦後世界」=兌換米ドル基軸通貨体制を引き継いだままという微妙な「過渡期」にある。
米ドルの兌換が停止されても、米国経済が世界で占めている地位は相対的には低下しただけで世界最大であることは変わらなかった。
経済発展を志向する非共産圏諸国は、国際金融家からの借り入れに頼り、原油に代表される近代産業にとって重要な国際商品を国際商人に依存し、生産した諸製品の販売先として米国市場をあてにしながらの経済運営を行わなければならなかった。
アジア諸国も、“貿易摩擦”に悩む日本産業家の対米欧向け輸出商品生産拠点となりながら経済発展を進めた。
日本の産業家にとって、本拠地日本市場は「最大の利益源」であり、アジア地域の生産拠点で生産された低コスト商品は、自社の国内販売網を使って高価格・高利益で販売された。海外生産の低コストが国内価格に反映されるようになるのは、「バブル崩壊」により生じた不況期になってからのことである。
70年までの米国やドイツを除く先進諸国は、世界の工業生産拠点としての地位を低下させており、普及工業製品で日本と競争できる条件にはなく、70年以降は『日本市場の閉鎖性』が経済論理に従ったかたちで実現できた。
人気blogランキング <-- クリックしていただくと、より多くの方に読んでいただけます。ご協力お願いします。
【経済学者のトンデモ理論】 デフレーション・インフレーションそして通貨 《その5》 投稿者 あっしら 日時 2002 年 2 月 26 日
欧米諸国から非難され続けてきた日本市場の閉鎖性は、非難した先進諸国自身の国際競争力欠如が最大の要因である。
よく引き合いに出された“閉鎖的販売網”の問題も、国家の保護政策ではなく私的経済活動の成果であるから、問題視されることではない。
それも、自動車を除けば、家電製品や民生電子機器の販売で量販店のウエイトが高まるにつれ解消されつつある。かつて“販売の神様”に率いられていた松下電器産業の衰退は、このような販売形態変化の影響を強く受けた結果である。
日本の工業製品輸入関税率の低さはずっと世界No.1であると言ってよく、先進諸国が日本に輸出できる工業製品が少なかったために、「閉鎖的な市場」といわれもない非難を浴びたのである。
欧州のブランド品が日本市場に大きく依存していることでわかるように、日本が太刀打ちできない製品は過剰とも言えるほど輸入されてきたである。
(ベンツ・BMWそしてMACさらには住宅などの近代工業製品についても、それを指摘できる)
一部の識者は日本の市場閉鎖性問題にきちんと反論したが、日本産業家の“過剰な輸出”が輸入国の勤労者に経済的困難をもたらしたことは間違いなく、「政治問題」としては通用するものではない。
(忘れてはならないのは、日本政府が、国際競争力がピカイチになった高度成長期まで「保護貿易」と「直接投資規制」を行って国内産業家の利益を保護してきたことである。90年代にインドネシアが自動車産業育成のために保護政策を採ったとき、日本の自動車メーカーは大きな非難を展開したが、1965年時点で米国やドイツの自動車会社が日本に乗り込んで生産を行っていたら、トヨタも日産も、現在とはまったく違った企業になっていただろう。家電メーカーにしても同じ話である。今となってはイメージできないことだが、トヨタや日産が対米輸出を始めた頃は、非力で故障も多く、それであっても価格が安いからと“低所得者”に売れただけなのである。国際金融家は、たいした市場規模もなかった日本で売るために自動車工場や家電工場を造る面倒はかけたくないし、そんなことをやって日本企業がおかしくなれば、貸した米ドルが返済してもらえないことにもなりかねないと考えたのである。いざというとき、近代的資源に乏しい日本は“抵当価値”もない)
繊維製品・鉄鋼製品・家電製品・自動車(やや後)と立て続けに対米輸出規制を受けた日本は、1973年10月の“第一次石油ショック”を経て、生産拠点をアジアそして米欧に少しずつシフトさせていきながら、経済成長の糧を「内需拡大」に求めて動いた。
「内需拡大」政策の代表が、“ニクソンショック”を受けて登場した田中角栄元首相の「日本列島改造論」である。
(田中元首相の政策は、現在の不況期のなかでその待望論を掲げる人もいる。自民党の利権&集票の基本構造が、田中元首相によって構築されたことは間違いない。明治維新の主力を担った薩長下級武士連合は、現在の鹿児島県や山口県を見てもわかるように、自分たちや国家の利権には走っても、郷土利権には走らなかった。一概に地元利権を否定するわけではないが、原敬氏そして田中角栄氏は、選挙で選ばれる政治家らしい利権構造を築いた代表的人物である。72年の田中内閣成立後から退陣してなお保持し続けた政界への影響力を失うまでの新潟県に、人口比でどれほど突出した「地方交付税」が振り向けられていたかをみるとびっくりするはずだ。日中国交回復を実現し自立した日本をめざした田中角栄氏が、「ロッキード事件」で首をとられたのは当然である。田中派の流れを汲む橋本(青木)派は、田中角栄氏の手法だけを引き継ぎ、それなりにあった“魂”は捨て去ってしまった残党集団である。しかし、田中待望論は、現在の不況に対しては無力である)
「日本列島改造論」が、1986年以降のバブル形成の価値観的下地をつくったと言える。
● 戦後日本のインフレーション − 国際為替固定レート制 −
戦後日本経済は、“バブル崩壊”後の不況期を別にすれば、不況期であってもインフレのなかで営まれてきた。
敗戦直後の「新円切替」でも収まらなかった異常インフレはともかく、日本国民は、戦後一貫して、物価は上昇し貨幣価値は下落するというものという考えに基づいて経済活動を行ってきた。
日本経済は、“第一次石油ショック”以前の1960年代後半から本格的なインフレ状況が進んでいったが、それを一気に加速させたのが73年10月の“石油ショック”だった。
1960年代後半からの20年間以上にわたって、当時の世論調査を顧みればわかるように、「物価高」が国民の一大関心事であり、解消して欲しい政治課題だったのである。
1ドル=360円固定の「米ドル→日本円通貨体制」は、日本円にどのような影響を与えただろうか。《その4》でも書いたことだが、少し説明を補足する。
日本経済は、原材料や生産設備を不足しがちの米ドルで輸入し、日本国内で工業製品を生産し、生産した製品を米国市場に輸出するという構造を拡大しながら経済発展を遂げてきた。
固定為替レート制という条件であれば、日本と主要輸出先である米国とのインフレ率の差異が問題になる。
1.日本のインフレが米国よりも高いとき
米国向け輸出商社は350万円で買った商品を1万ドルで米国商人に売っていた。日本のインフレが進み、360万円だった製品が500万円になれば、それを1万3888ドルで売らないと同じ利益率が確保できない。しかし、米国はインフレ率が低いという想定なので、1万3千ドルでしか売れない。こうなると、商社は、メーカーに値下げを要請する。
メーカーは、輸出を当て込んで生産しているので要請をのむ。これは、メーカーが想定していた利益を確保できないことを意味する。
2.日本のインフレが米国よりも低いとき
米国向け輸出商社は350万円で買った商品を1万ドルで米国商人に売る。
日本のインフレが進み、360万円だった製品が500万円になれば、それを1万3888ドルで売らなければ同じ利益率が確保できない。しかし、米国は日本よりインフレ率が高いという想定なので、1万4千ドルでも売れない。こうなると、商社は、以前よりも大きな利益を得ることができる。
しかし、力を付けたメーカーなら、商社との価格交渉力も持つようになるで、増えた利益の取り分を主張するようになる。
輸出拡大で巨大な資金を手にしたメーカーは、商社に依存したままではなく、自前で海外の販路を開拓して利益を拡大する道を選ぶ。
日本の総合商社が苦境に陥っていったのは、日本の大手産業家自身が、国際商人の機能を果たすようになってきたことによる。日本の総合商社は、開発型・金融型の取引を拡大していくことでしか生き残れないが、その競争相手はとてつもない力を秘めている国際金融家である。
このような論理から、日本が米国よりも高いインフレ状況に陥ることは避けなければならない。そして、米国が日本よりも高いインフレ状況になると、日本の産業家は利益を拡大するために価格上昇を計るため、国内のインフレ状況が進行する。
結論的に言えば、日本の産業家は、国内外でできるだけ高く製品を販売したいが、米国のインフレ状況をにらみながら、その水準を決めるしかなかったのである。
もちろん、生産する製品の国内需要向け比率が高くなれば、“内外価格差”という利益拡大手法がより有効になる。
インフレ抑制要因としては、「米ドル→日本円通貨体制」で経済活動が保有米ドルに規定されていたことも指摘できる。
詳細は後述するが、インフレになれば、経済活動は活発になる。経済活動が活発になれば、原材料を輸入しなければならない。そのためには、世界で通用する米ドルが必要である。
米ドルが不足しているのに、需要拡大を起こしインフレの基になる日本円の通貨供給量を増大させれば、生産(供給)が追いつかず、敗戦直後の日本や中南米諸国・ソ連崩壊後のロシアのように、“刹那的な貧民救済の意味しかないインフレ”に陥る。
国際金融家もそれがわかっているから、そのような政策を採ろうとする国には米ドルの融資をしない。
このようなことがわかっている日銀は、生産活動の拡大を伴わない“異常なインフレ”を防止するため、供給拡大能力を超える需要拡大状況が近づくと金融政策を引き締めたのである。
需要拡大が供給拡大を超えてしまう最大の要因は保有米ドルの枯渇だから、コントロール自体は楽である。問題は、需要拡大策で経済成長を求める人々や政治家をどう抑え込むかであった。
1960年代後半からインフレが本格化したのは、国内事情というより米ドル事情である。
“泥沼化”したベトナム戦争は、米ドルの世界への大量流出を招き、米ドルに対する信認性を弱めていた。そのため、原油などの一次産品価格が上昇し、米国の需要拡大は米国経済に高いインフレをもたらした。
日本よりも米国のインフレのほうが高ければ、それに追いつくレベルの国内でのインフレも容認され、輸出及び国内販売で利益を拡大できる。
この時期の日本産業の国際競争力から言えば、固定レート制ではなく変動レート制であれば、円を切り上げることで原材料の輸入価格を押し下げて、“コストプッシュインフレ”を緩和することもできたが、固定レート制であることはともかく、「輸出志向」の日本は、輸出が不利になる円の切り上げ(米ドル安)なぞ断じて認められないという構えだった。
(今なおそのときの習性から抜け出していない日本の識者は、円安政策に固執しがちである)
前へ 次へ

0